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全部面倒になったので記憶喪失のふりをしたら、浮気疑惑の婚約者が可愛いヘタレわんこになりました

作者: 天野マノ
掲載日:2026/05/04


 ブロンテ侯爵家の長女セシリアは、そっとため息をついて遠くに目をやった。


 ――どうしてわたくし、ここにいるのかしら。

 

 そう思ってしまうくらい、今のセシリアはこの場で「無」だった。

 場所はブロンテ家の庭、瀟洒(しょうしゃ)なガセボで婚約者のギルバートとのお茶会中。

 本来なら楽しいはずの婚約者とのお茶会で「無」になっているのは、ギルバートと妹のエミリアが二人の世界を作っているからだ。


 オースティン公爵家の嫡男であるギルバートとセシリアの婚約は、生まれたときから決まっていたようなものだった。

 両家の祖父母間の約束――それぞれの家に年齢的に合う男女の子が生まれたら、両家の繋がりをより深くするためにぜひ結婚させよう――があったから。

 とはいえ、ただの口約束。

 律儀に守る必要などなかったのに、ギルバートが生まれた翌年にセシリアが生まれ、「ちょうどいい」という理由でセシリアが五歳のときに婚約者候補として会うことになった。


 ――一目惚れ、してしまったのよね…。


 凜々しく整った顔立ちのギルバートは、幼いときから格好よかった。

 同年代の男の子たちとは一線を画す紳士的な落ち着きと品のある振る舞いも素敵で、「ギルバートさまとけっこんしたい」と当時のセシリアは素直に、心から願った。

 ギルバートがセシリアにどんな感情を抱いたかはわからない。

 ただ、拒絶するほど嫌ではなかったのだろう。

 婚約は成立した。


 ――あのときは本当に嬉しかったけれど…。


 ギルバートにとって、セシリアはきっと両家の「約束」による政略結婚の相手にすぎなかったのだろう。

 紳士的だけれど、彼はセシリアの方をほとんど見ることなく、自分から話しかけてくれることもめったにない。

 こちらから話しかければ礼儀正しく答えてくれるものの、言葉は必要最小限。

 それでも、セシリアは彼のことが好きだった。

 そっけないようで、本当はやさしいのを知っていたから。

 

 セシリアは幼い頃は体が弱く、よく熱を出していた。

 ギルバートが来る日に寝込んでいると、彼は窓辺にセシリアの好きな花や短い励ましのメッセージを書いた綺麗な石などをこっそり置いていってくれた。

 気づかなければ自然に還る、ささやかなお見舞い。

 メッセージに名前は書いてなかったし、本人も知らんぷりをしていたけれど、セシリアは彼からのお見舞いだと気付いていた。

 窓の向こうにチョコレート色の髪が見えていたし、時には心配そうにこちらを見ている彼と夢うつつに目が合うこともあったから。

 来てくれるたびに、セシリアはギルバートをもっと好きになった。


 でもそれも、何年も前の思い出だ。

 成長するにつれてセシリアの体は丈夫になり、最後に熱を出して内緒のお見舞いをもらったのは十三歳の冬。

 今、セシリアは十八歳。

 五年の間にいろいろなことが変わった。


 いちばん大きな変化は、妹のエミリアが婚約者とのお茶会に参加するようになったことだ。

 二歳下のエミリアはずっとギルバートに憧れていて、婚約者同士の交流のためのお茶会に参加したがっていた。

 兄のリアムが「常識知らずだと思われるぞ」と止めてくれていたのだけれど、二年前から兄は父と共に王城に出仕するようになり、エミリアを止められる人がいなくなった。

 母も注意してはくれるものの、おっとりした話し方だから怖くないし、最後には「仕方ないわねえ、ギルバート様とセシリアに拒まれたら戻ってくるのよ」と折れてしまう。


 ギルバートは「べつにかまわない」と妹の同席をあっさり受け入れた。

 彼がいいと言っているのにセシリアに拒むことなどできなかった。狭量さを示すようで。

 そうこうしているうちに、エミリアとギルバートの距離は近くなった。体が触れる距離――恋人のような近さを許し合うほどに。


 もともと可愛らしい子だったけれど、十六歳になったエミリアはすっかり大人びて華やかな美少女に育っている。

 この年になってもエミリアに婚約者がいないのは、山ほどくる申し込みを「ギルバート様みたいな人がいい!」とずっと断ってきたからだ。

 セシリアがギルバートの婚約者になったのは、たまたま先に生まれたからというだけ。

 ギルバートとエミリアは三歳差……十九歳と十六歳なら、バランスも悪くない。

 口に出していなくても、妹の狙いはわかった。


 ――きっと、エミリアはわたくしよりギルバート様に愛される自信があったのね…。


 二人が愛し合っているのなら、邪魔者は自分だ。

 この状況を円満に解決する方法もなくはない。


 ――でも、実行に移すのは…。

 

 セシリアは静かにカップを置いた。

 かすかな音に気づいたのか、ギルバートがちらりとこちらを見る。けれども何も言わずに視線をすぐに妹に戻した。

 彼はいつもこうだ。

 そっとため息を飲みこんで、セシリアは静かに席を立った。


「少し頭痛がしてきましたので、わたくしはお部屋に戻りますね」


「送ろう」


 即座にギルバートが立ち上がった。

 エミリアが驚いているが、べつに驚くことではない。ギルバートは紳士だから、体調を崩した女性を部屋に送り届けるのは当然だと思っているだけなのだ。


「いえ、妹の相手をしてあげてください」


「しかし……」


「ギルバート様、お姉様がせっかく気を遣ってくださっているのですから! あちらに新しい花を植えてもらったんですよ。見に行きませんか」


 愛らしい声でギルバートを誘ったのはエミリアだ。はしたなくも彼の腕に腕を絡めて豊かな胸を押しつける。

 これ以上見ていたくなくて、セシリアは二人に背を向けた。

 レディらしく背筋を伸ばして、屋敷に向かってできるだけ早く…けれども優雅に歩き出す。

 不意に、ブンと不快な音が耳をかすめた。


「え……っ、きゃあ!」


 大きな蜂だ。ブンブンと物騒な音を立てながらセシリアの周りを飛び回る。

 こちらから攻撃しなければ大丈夫と聞いていても、やっぱり怖い。

 逃げようとしたら足がもつれ、よりにもよって噴水の方に倒れ込んでしまった。


「セシリア!!」


「お姉様…っ」


 婚約者と妹の叫び声が聞こえた気がしたのと同時に、ざぶんと水に落ちていた。




 目が覚めたら自室のベッドの上だった。


「セシリアお嬢様! よかった、目を覚まされて…!」


 涙目で駆け寄ってきた侍女のマーサが言うには、セシリアは熱を出して丸一日眠っていたらしい。

 血圧が低いせいで寝起きはぼんやりしてしまうセシリアに慣れているマーサは、返事がなくても気にせずにいろんな話しつつ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

 昨日、噴水に落ちたセシリアを助けてくれたのはギルバートだったこと。

 ずぶ濡れになった服を着替えに戻ったあと、お見舞いの花を持ってきてくれたこと。

 ギルバートもエミリアも両親も使用人たちも、とても心配してくれていたこと。


 頷きながら聞いていたセシリアの瞳が、ベッドサイドの花瓶に活けられた花に視線を留める。 

 この時季には珍しいラベンダーは、かつて寝込んでいるセシリアにギルバートがお見舞いとしてよく持ってきてくれた花だ。

 香りがいいからこの花が好き、とセシリアは家族に言っているけれど、本当はギルバートが「俺の好きな花だ。…きみの瞳の色だな」と言っていたのがきっかけだ。

 彼は本当にこの花が好きなようで、オースティン家の温室の一角で、六歳のころからずっと手ずから世話をしていると公爵夫人が言っていた。


「このお花は…」


 マーサに送り主を確認しようとしたら、ノック音が響いた。

 返事をする前にドアが開き、ベッドに体を起こしているセシリアを見たエミリアの瞳がぱっと輝く。


「お姉様…! 目を覚まされたのですね! ギルバート様がお見舞いに来てくださってます」


「え」


 寝間着姿のセシリアは焦るけれど、エミリアは気にすることなくギルバートの腕に腕を絡めて連れてくる。

 マーサが渡してくれたショールでセシリアは慌てて寝間着を隠し、もつれた髪を撫でつけた。


「お姉様のところに来る途中で運命的にギルバート様に会いましたの。ね、ギルバート様?」


「ああ」


 にっこりと小首を傾げたエミリアの身支度はばっちりで、セシリアとは雲泥の差。

 ギルバートは一瞬だけセシリアに目をやったものの、すぐに視線をそらした。エミリアにしか見るべき価値はないと言わんばかりに。


 ――お見舞いにさえ、そんな態度でいらっしゃるの。


 これまでだましだまし守ってきた何かが…それでも少しずつ削れていた何かが、このとき、最後の一撃を食らった。

 ずっと、ずっと我慢してきた。

 ギルバートのことが好きだったから。

 両家の約束を果たすための婚約だったから。

 公爵夫人に家の切り盛りの仕方や社交についてたくさん教えてもらってきたから。

 自分が努力すればいつかいい関係になれると信じていたから。

 セシリアの一存でご破算にするには大変な婚約だったから。

 妹の「憧れ」も婚約者の「気の迷い」も、そのうち落ち着くと思っていたから。

 だけど、もう。


 ――全部、面倒になりましたわ。


 深い、深いため息をセシリアはつく。

 どうして自分だけが我慢しないといけないのだろう。

 我慢したところで報われるとも限らないのに。

 むしろ、すべてリセットしてしまったほうが大団円になるのに。


 ――そうですわ、そうしましょう。


 五歳で婚約して以来、十三年。

 いまさら放り出すわけにはいかないと思いながらも、実行する勇気さえあれば方法がなくはないとセシリアは気付いていた。


 ギルバートの婚約者を妹にスライドするのだ。


 そして今、そうする上でベストな方法を思いついてしまった。


 ――記憶喪失になったことにしましょう。


 セシリアが記憶喪失になったふりをすれば、周りに気を遣わせずに、セシリアも憐れまれることなく婚約者の変更が可能になる。

 面倒なあれこれは記憶と共におさらばだ。

 幸い目が覚めてからまともにしゃべっていない。お茶を用意しに行ってくれた侍女のマーサの名前すら呼んでいないから、記憶喪失になったと言っても矛盾は起きないだろう。

 全部どうでもよくなったセシリアには、もはや不安も躊躇(ためら)いもなかった。

 ギルバートとエミリアに他人行儀に微笑みかける。


「ごめんなさい、わたくし、あなたたちのことがわからないみたいです」


「え」


「お、お姉様、一体何を…」


 困惑もあらわな二人のうち、セシリアは妹に目を向ける。


「わたくしを姉と呼んでいるから、あなたは妹なのよね? 隣の殿方はあなたの婚約者…で合っているかしら?」


「違う!」


「そうですわ、お姉様!」


 ギルバートとエミリアが同時に声をあげた。

 エミリアが瞳をキラキラさせて言い募る。


「わたくし、お姉様の妹のエミリアです。こちらはギルバート様」


「確かに俺はギルバートだが、エミリアの婚約者じゃない。俺の婚約者はあなただ、セシリア!」


 思いがけずにギルバートが強い口調で訂正してきた。

 けれども、相変わらず彼の腕にはエミリアが絡みついている。

 根が真面目なギルバートは、感情はどうあれ現時点での肩書きを大事にしているのかもしれない。が、そんなもの無意味だ。

 セシリアは困惑した顔をしてみせる。


「わたくしの…? お二人のほうが婚約者にふさわしいと言いますか、すでに恋人同士に見えるのですが…」


「やっぱりそう見えます?」


 うふふと満足げにエミリアが笑うけれど、ギルバートはきっぱりとかぶりを振った。


「馬鹿なことを言うんじゃない。セシリアと俺は十年以上婚約してるんだぞ」


 だから何だというのです? と口から飛び出しそうになったのをセシリアはすんでのところで飲みこんだ。

 が、困惑しかない。


 ――せっかく穏便に婚約者を変更してあげようとしていますのに。


 エミリアのようにここぞとばかりに乗ってきてくれたらいいのに、ギルバートは無駄な真面目さを発揮している。

 どうせなら、その真面目さは婚約者への誠実さとして発揮してほしかった。今さらだけれど。


 こうなったら、現実を直視したうえで婚約者のスライドが最良だと気付いてもらうしかない。

 セシリアは驚きの表情を作って、ギルバートの腕に押し付けられている豊かな胸に目をやった。


「まあ、そうなのですか? それは大変失礼いたしました。…ですが、わたくしの感覚ではお二人の密着具合は恋人にしか許されないもののようです。記憶がないので正解はわからないのですが、価値観が合う方と一緒にいたほうがお互いに幸せになれると思いますの」


「お姉様の言う通りですわ!」


「なにを…」


 反論したそうなギルバートに気付かないふりをして、セシリアはにっこりする。


「そうですわ、家同士の縁組みなら、お相手はわたくしでなくても問題ないはずです。婚約相手を変更してくださるようにお父様にお願いしてみましょ…」


「駄目だ!」


 ものすごい剣幕でギルバートに却下された。

 こんな大声を出す彼を見たのは初めてで、目が丸くなる。


「ど、どうなさいましたの…?」


「…勝手に話を進めないでくれ。せめてきみの記憶が戻るまで待つべきだと思う」


 懇願めいた口調で言われたけれど、合理的な理由とはいえない。

 セシリアは首を傾げつつ、ギルバートの説得を試みる。


「記憶喪失というものは、必ずしも記憶が戻るものではないそうですわ。もし戻らなければギルバート様にもエミリアにも申し訳ないですし、今後のことを思うと早めに婚約者を変更したほうがよいと思うのですが…」


「駄目だ」


「え~、どうしてですかギルバート様ぁ。お姉様がせっかく…」


「きみは少し黙っていてくれないか」


「ひ、ひどぉい」


 冷たく遮られたエミリアの大きな瞳がうるうると潤む。

 ギルバートは見ていないけれど、めちゃくちゃ可愛い。…じつは、セシリアは妹のあの顔に昔から弱い。

 最近でこそギルバートを巡ってセシリアに悲しい思いをさせることが多かったエミリアだけれど、幼い頃からずっとセシリアになついていて、なんでも真似をしたがる可愛い妹だった。


「泣かないで、エミリア。ギルバート様もわたくしがこんなことになって、きっと混乱していらっしゃるだけだから…」


「してない」


 きっぱりとした否定が割って入る。

 確かにギルバートは顔色が少し悪いのを除けば落ち着いていて、混乱している様子はない。

 婚約者のセシリアが記憶喪失になっても混乱も動揺もしないくらいの感情しかないくせに、エミリアに婚約者をスライドさせるのを拒むなんて意味がわからない。生真面目を通り越して石頭だ。

 セシリアは胸に湧いてきた苛立ちをため息で吐き出して、ギルバートを見据えた。

 

「…そうですか。混乱しているわけではないのに、わたくしを自由にしてくださる気はないんですの?」


「自由に…? どういう意味だ」


「あなたのことを覚えていないからこそ正直な気持ちを言わせていただきますが、わたくし、婚約者がありながらほかの女性の胸を押しつけられたままでいるような殿方にまったく魅力を感じませんの。むしろ、そんな方がわたくしの婚約者だと聞いてとても残念で悲しい気持ちになっております」


「な…っ、違う、これはエミリアが勝手に…っ」


 これまで腕を組まれていても気にしていなかったくせに、ギルバートが慌てて振りほどく。


「きゃあ! ひどいですわ、ギルバート様…っ」


「失礼。だが、きみのせいでセシリアに誤解をされるわけにはいかないんだ」


 うるうる顔で責めるエミリアに顔をしかめてギルバートが距離を取る。もう二度と腕を組ませる気などないと言わんばかりに。

 意外な態度にセシリアは目を瞬いた。


「誤解…ですか?」


「誤解だ。俺は決して平気で胸を押しつけられていたわけじゃない。いや、ある意味平気ではあったんだが…それはセシリア以外の女性の肉を押しつけられたところで何も感じないし、むしろ不快だからだ。が、君の家族だと思えばこそ無下にするわけにもいかなくて我慢していた」


 訴えてくるギルバートは真剣そのもので、セシリアは目を丸くする。「に、にく…」と呟いているエミリアも彼の目には入っていないようだ。

 とはいえ、彼の視線はセシリアのことも見ていない。


「…信じられません」


「信じてくれ」


「無理です。信じる根拠が何もありませんもの。目を合わせてもくださらない婚約者のいうことを信じられるわけがないでしょう」


「これは…っ」


 何か言いたげにしたものの、ギルバートは口を閉じて葛藤(かっとう)するようにぐっと目を閉じた。

 そうして、何かを決意したかのように目を開けて顔を上げる。

 …初めて、まっすぐにセシリアを彼が見つめた。

 凜々しく整った顔がみるみるうちに赤く茹であがってゆく。


「え…?」


 ぶはぁっ、と顔をそらした彼が大きく呼吸した。赤い顔を隠すように両手で覆ってしゃがみ込む。


「ギルバート様…?」


「…見ただろう。俺はきみと目が合うだけでドキドキしすぎて、いつもどおりに振る舞えなくなってしまうんだ!」


「…まあ」


 しゃがみ込んだまま、指の隙間からちらりとこちらを見上げてきた瞳は潤んでいる。目が合うといっそう顔が赤くなって、耳どころか首まで染まった。…なんだか可愛い。

 ふ、と笑みがこぼれると、「うぁ…」と感動したような声を漏らしたギルバートが潤んだ瞳で聞いてきた。


「し、信じてくれたか…?」


「そうですねえ…、信じられたらいいなと思っております」


「どうしたら信じてもらえる?」


「どうしたらと言われましても…」


 正直、もう本当に終わっていいと思っていたのだ。

 報われないことにうんざりして、これ以上好きでいるのが面倒になってしまった。

 せっかく見切りをつけて楽になれるところだったのに、元に戻るのは面倒くさい。思い切って記憶喪失のふりまでしたのに。

 …でも、目が合うだけで赤くなるなんて可愛いし、大きな体を小さくたたんで、耳を伏せたわんこのようにぷるぷるしているのもなんだか可愛い。

 ずっと好きだった…今も全然嫌いになれないでいる人だからこそ、彼を信じたい気持ちになってしまっているのも事実。

 あと、足りないものと言ったら…。


「…言葉を」


「え」


「わたくしのことをどう思っていらっしゃるか、わかる言葉で伝えていただけませんか」


 そう、彼は言葉が圧倒的に足りない。

 シャイだからかもしれないが、態度がわかりにくいのに言葉もなければ理解するのは至難の(わざ)だ。

 真面目な人なのはわかっているから、言葉できちんと伝えてくれたら信じてもいい気がする。


 ――なんて、ただわたくしが聞きたいだけなのですけれど。


 本当はもうほとんど信じてしまっている。惚れた弱みだ。

 なんだかんだ言ってもセシリアはギルバートに一目惚れして、ずっと彼を好きだった。

 妹と親しくしている彼を見ていたくないから、婚約者の座を譲ろうと思うくらいに。


 緊張した顔でごくりと唾を飲んだギルバートが、大きく深呼吸をしてから口を開いた。

 真っ赤な顔で一気に告げる。


「セシリアが好きだ、初めて会ったときからずっと! きみは妖精みたいに可憐で可愛くて、しかも努力家で、学園では『完璧なレディ』なんて言われているくらい優秀なうえに魅力的で…! きみの前に立つと緊張しすぎて言葉がちゃんと出てこなくなってしまうから、格好悪いところを見せたくなくて…何もしゃべれなくなってしまうくらいに大好きなんだ! きみ以外はどうでもいいから普通に接することができるのに、きみにだけは緊張しすぎておかしな態度をとってしまう自分を不甲斐ないと思いながらも直せなかった。本当にすまない…!」


「…わたくしは、ちゃんとお話できる方と家族になりたいですわ」


「わ、わかった。これから俺はあなたと話す練習をするためにも、あなたへの気持ちを毎日伝えにくる!」


「あら」


「絶対にセシリアと結婚したい。駄目なところは死ぬ気で直す! 頼むから、婚約をやめるなんて言わないでくれ…!」


 涙目で訴えてくる婚約者は本気のようだ。

 ギルバート様ってこんなにしゃべれたんですわね、と感心しつつ、必死なのが可愛くてセシリアはとうとうほだされてしまった。


「では、有言実行してくださいね」


 婉曲ながらも受け入れたのを理解したギルバートの顔がぱっと輝く。やっぱり可愛い。


「わたくし、あなたのお声はとても好きです。これからはたくさんお話ししてくださいね」


「も、もちろんだ…!」


 端整な顔が赤くなったのは、セシリアが声を褒めたせいらしい。これもまた可愛くて、つい甘やかしてしまいたくなる。


「あと、距離がありすぎるのも婚約者としてはいかがなものかと思いますわ」


「ち、近づいてもいいのか…?」


「適切な距離でしたら」


 にこ、と笑って許可したら、右手と右足、左手と左足が揃った歩き方でぎこちなく近づいてきた。

 緊張を孕んだ顔は凜々しく格好いいのに、初心(うぶ)すぎてもう可愛いとしか思えない。

 セシリアが笑うだけで「可愛すぎる…」と涙目になっているギルバートこそ可愛い。なんだかぶんぶん振られているわんこのしっぽが見えてきた。

 ベッドサイドに到着した彼にセシリアが手を伸ばしたら、ギルバートがあわあわと自分の手を泳がせる。


「さ、さわってもいいのか…?」


「握手程度のふれあいもしたくないのですか?」


「逆だ! 尊すぎて俺ごときがさわっていいのかと聞いている」


 尊いって…と目を丸くしたあと、ギルバートの感情の重さがようやく実感できたセシリアは苦笑してしまう。


「将来わたくしの夫になりたいのですよね? 白い結婚がよいのなら、さわらなくてもまったく問題ないのですが…」


「そんなのは絶対にごめんだ!」


 即答したギルバートが緊張に震える両手でセシリアの片手をそっと包み込んだ。壊れやすい宝物を手にするかのように。


「ああ…!」


 感動の声を漏らしたギルバートが(ひざまず)き、セシリアの手を額に押し戴く。

 もはや信仰対象にでもなった気分だ。…白い結婚にする気はないらしいけれど。

 視界の端でふらりと動いたものがあって、セシリアはようやく妹も同じ部屋にいたことを思い出した。

 譲ってあげるつもりだったのに、こんなことになるなんて。

 セシリアは困り顔をエミリアに向ける。


「どうしましょう、どうやらわたくし、ギルバート様にかなり好かれているみたいですわ。あなたに婚約者の座を譲ってあげたかったのだけれど…」


 言っている途中でギルバートがぶんぶんかぶりを振った。涙目で必死なのが情けなくて可愛い…なんて思っていたら、エミリアもぶんぶんとかぶりを振っている。


「いらないわ、お姉様を崇拝している男なんて…! というか、なにこれ、わたしったら大失敗じゃない! お姉様を守れるなら、お姉様に嫌われても仕方ないって思っていたのに…!」


「わたくしを守る…?」


 思いがけない妹の発言を詳しく聞いてみたら、エミリアは大好きな姉――セシリアのために、頭が弱くてはしたない女の子のふりをしてギルバートを誘惑しようとしていたことが判明した。


「どうしてそんなことを…」


「ギルバート様が悪いのですわ! わたしの大好きなお姉様を全然大事にしてくださらなくて…まあそれもただのドヘタレだったせいだとさっきわかったわけですけど、ずっと腹立たしく思っていましたの。それでもお姉様がギルバート様をお好きならと黙認していましたけれど、学園に入ったら考えが変わりました。だって、ギルバート様のせいでお姉様が『婚約者に相手にされない可哀想な令嬢』なんて言われていたんですもの!」


 本人の気持ちはどうあれ、ギルバートはセシリアに対してだけそっけなかった。

 愛想はよくなくても礼儀正しく優秀なギルバートに、婚約者であるにもかかわらず(ないがし)ろにされているセシリアは、陰ながら気の毒がられたり馬鹿にされたりしていた。

 それでもいつかは仲よくなれるはずだと信じて努力を続けたセシリアが首席の成績をキープして「完璧なレディ」と言われるようになったのはさておき、エミリアは学院に入って愕然(がくぜん)としたのである。

 愛する姉が、不名誉な(うわさ)の的になっていることに。


 家同士の「約束」で結ばれた婚約なら、相手は姉じゃなくて自分でもいい。

 そのことに気付いていたからこそ、エミリアは万が一に備えて「ギルバート様みたいな人がいい!」と言い続けて婚約者を決めずにいた。

 その仕掛けが役に立つ時がきたのだ、と積極的にアプローチを始めた。

 べつにギルバートのことなど好きではないが――姉の素晴らしさに気付いていない時点で論外である――、だからこそ感情を排して作戦を決行できる。

 姉の幸せのために、この婚約はぶっ潰すべし。

 自分の外見が男性に受けがいいのは周りの反応でわかっていたし、男性を手玉に取っていると言われる人たちを参考にメイクや服装、振る舞い、しゃべり方の研究もした。

 エミリアは元々研究者気質なのである。


「わたしがギルバート様にベタベタするせいでお姉様を悲しませてしまうの、本当につらかったのに…! それもこれも、このドへタレ…じゃなかった、ギルバート様がドヘタレだったせいだなんて!」


「エミリア、言い換えられていませんわ…」


 一応ツッコミを入れたけれど、ギルバートが「すまない」と自らがドヘタレであると認めたから問題ないのだろう。

 大きく息を吐いたエミリアが複雑そうな視線をギルバートに向ける。


「でもまあ、なんとなくですけれど作戦がうまくいっていないのは感じていましたわ。ギルバート様、わたしの話で反応がいいのはお姉様が関係する内容だけでしたし、胸を押し付けてみても気付いてなさそうでしたもの。十代の男性としてあるまじき反応だったのでいくつか仮説を立てておりましたけど、ただお姉様以外が風船に見えているということだったのですね」


「…なるほど、風船か。そうだと思う」


 ギルバート本人も納得しているが、それでいいのだろうか。

 セシリアの困惑をよそに、エミリアがギルバートに忠告する。


「ギルバート様の本心を聞いたお姉様が受け入れたから今回はわたしも邪魔しませんが、もし今後、お姉様を悲しませたり傷つけるようなことがあれば許しませんから!」


「もちろんだ。絶対にそんなことはしないと誓う」


「お姉様の記憶が戻らなくても、一生大事にしてくださいね!」


「当然だ」


 きっぱり即答してくれたギルバートにセシリアは感動する。…ただ、仮定がすでに間違っていると告白しなくてはならない。

 記憶喪失になどなっていないのだから。


「あの…」


 真実を伝えようとしたら、罪悪感で弱々しくなった声に何か誤解したらしいギルバートがそっとセシリアの手を包み込んだ。


「不安にならなくていい。どんなセシリアでも俺は大好きだし、一生愛するから」


 赤面しながらもまっすぐに目を見て宣言してくれたギルバートが、幻のしっぽをぶんぶん振っているのが見えた。

 …どんなセシリアでも大好きで一生愛してくれるというのなら、記憶喪失について明かしてもきっと大丈夫だろう。

 とりあえず今は、ハッピーエンドということで。 





思ったより長くなったので端折りましたが、エミリアは自分がギルバートの婚約者になった後のことも考えていました。

・好きでもないギルバートにどう思われても平気なので、がっつり教育する気だった。

・一旦結婚して「約束」を果たした後に離婚することも視野に入れていた。

・離婚や婚約解消に伴う法的なことを学ぶために&姉の婚約者候補として法務大臣のご子息(公爵家)の協力を得ていた。

(大好きなお姉様を「婚約解消された令嬢」のまま放っておくわけがないでしょう!の精神)

ちなみにエミリアは↑の公爵家子息と結婚します。(子息は最初からエミリア狙い)



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