第2話 好きになってもらう
嵐課長は、分厚いテキストを掲げる。
表紙には『孫子』の文字。
新人たちは一斉にざわめいた。
「これは、二千年も前から読み継がれている兵法書だ。
ビジネスでも活用されている!」
研修室に響く嵐課長の声は、まるで戦場に立つ軍師のようだった。
机を軽く叩きながら、テキストの文字をホワイトボードに移す。
灰田が、小声でぼそっと呟く。
「こんな昔の兵法なんて古臭いもん、持ち出して。
今の時代に本当に合うのかよ」
嵐課長は、まるでそれが聞こえたかのように続ける。
「古いからこそ価値があるんだ。
人の心は二千年経っても変わらん。営業も同じだ」
灰田は、バツが悪そうに肩をすくめた。
***
グループワークの課題は「孫子に学ぶ営業戦略」
孫子の格言を一つ選んで、どう仕事に活かすかを考える課題。
灰田は勢いよく手を挙げた。
「うちのチームは『勝つべき者は攻なり』を選びました。
攻撃こそ全て――押しの一手で売りまくります!」
「下手な鉄砲も数打てば当たるってことか」
「はい!」
豪快に宣言する灰田に、嵐課長は大きく頷く。
「頼もしい。新人らしくていい」
嵐課長はそう言ってから、付け加えた。
「ただし、それが通用するのは、新人のうちだけだぞ」
「わかりました。ありがとうございます」
灰田は深々とお辞儀をして、椅子に深くもたれた。
***
次に悠馬が口を開く。
「私たちは『勝ち易きに勝つ』を選びました。
つまり、買ってくれる人を探すことです」
一瞬、場が静まり返る。
嵐課長が腕を組み、低い声で問いかけた。
「買ってくれる人がいなかったらどうする?」
悠馬は少し考え、正直に答えた。
「そのときは……あきらめます」
――それじゃダメじゃん。
周囲の新人たちの空気がそう言っていた。
嵐課長の声が鋭く響く。
「話にならんな」
場が凍り付く。
悠馬はたどたどしい口調で反論を試みる。
「……でも、私は……」
「何だ、言ってみろ」
「欲しくない人に、無理やり売りたくないです」
その言葉に嵐課長は目を細め、少し間を置いてから言った。
「どうすれば“欲しくなってもらえるのか”を考える。
それが営業の仕事だ」
――欲しくなってもらう。
悠馬は、その言葉をノートに書き留めた。
***
――一日目の研修が終わり、会議室は静けさを取り戻していた。
悠馬は居残り、ノートにびっしりと書き込みを続けていた。
鉛筆の音だけが響く。
そこへ紅林紗香が戻ってきた。
片付けのために資料を抱えている。
「熱心だね。でも新人は残業しないで、早く帰りなさい」
声は澄んでいるのに、言葉の切れ味は鋭い。
悠馬は慌てて顔を上げた。
「すぐ帰ります。
ただ、この孫子の兵法って面白くて……つい夢中になってしまって」
「嵐課長のバイブルだから、それ聞いたら泣いて喜ぶわよ」
紗香は、びっしり付箋が貼られた悠馬のテキストを手に取った。
「懐かしいなあ。
これねえ、私も入ったころ、散々叩き込まれたわ」
悠馬はノートを閉じ、言葉を続ける。
「『戦わずして勝つ』って、“欲しくなってもらうこと”に似ていると思うんです」
紗香が首をかしげる。
「どういうこと?」
「売るんじゃなくて、買ってもらうってことです」
紗香はそれを聞いて、口元を緩めた。
「買ってもらうためには、まず、好きになってもらうことが大切」
(好きになってもらう……か)
悠馬はテキストをじっと見た。
***
「片付け、手伝います」
二人で机を元に戻しながら、紗香がふと口にした。
「研修での答え、面白かったよ」
悠馬は少し照れ、視線を逸らす。
「そんな……ただ、無我夢中で答えただけです」
紗香は笑みを浮かべ、問いかける。
「でも、新入社員で嵐課長に反論するなんてすごい。
怖くなかった?」
悠馬は肩をすくめた。
「叱られたときは、ちょっとビビりました。
でも、言ってることは一理あるなって思いました」
「根はいい人なんだけど、言い方がね」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
その笑い声は、静まり返った研修室に小さく響く。




