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アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜  作者: アズマ マコト
第1章

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EP-1-5 前編: 共鳴する孤独、二つの心臓

 夜の澱が、冒険者ギルドのホールに粘りつくように沈殿していた。垢じみた窓ガラスをこじ開けるように差し込んだ朝日が、床に光の刃を突き立てる。


 その一筋の光の中、無数の塵が死んだ時間の亡霊のようにゆるやかに漂っていた。


 昨夜の喧騒が残した安酒の酸っぱい残り香、汗と燻製肉の脂が混じり合った獣じみた悪臭が、呼気と共に肺腑を灼く。


 歩くたびに、床板が乾いた骨を噛み砕くような微かな音を立てた。

 その薄暗いホールの一角、壁際のテーブルに、ルシアンは石像のように座していた。


 彼の前には、なけなしの全財産――汚れた光沢を放つ銅貨の小山が広がっている。

 一枚、また一枚と、痩せた指先がそれをなぞる。爪の間に食い込んだ黒い土と金属の錆。


 指から伝わる銅貨の冷たさは、墓石に触れた時のそれに酷似していた。鉄と、そして血の匂いがした。


(足りない。一枚たりとも、足りない)


 声にならぬ絶望が、頭蓋の内側で乾いた木霊となる。わずか九歳の少年には不釣り合いなほど深い焦燥を宿した瞳が、銅貨の山に縫い付けられていた。


 数え終えたそれを五枚ずつの塔に積み上げていく。


 その指の動きだけが、彼という存在がまだ世界に繋ぎ止められていることの、唯一の証明だった。


 昨日の記憶が、瞼の裏で不意に炸裂する。森の奥深く、巨大な牙を剥き出しにしたワイルドボア。貸与品のショートソードは刃こぼれで鉄の棒と化していた。


 だが、あの瞬間――思考が追いつくより先に、俺の身体は動いた。


 脳髄に焼き付いた『殺戮の最適解』。獣の突進を皮膚一枚で躱し、剥き出しになった首の急所を、ただの一点のみを、貫いた。


 もし、あの冷徹な「感覚」がなければ、今頃は腹を裂かれ、内臓を森の腐葉土にぶちまけていたはずだ。


 死ぬ。このままでは、間違いなく死ぬ。


 その冷え切った確信が、背筋を凍らせる。恐怖が身体の芯を蝕み、呼吸さえ浅く、短くなる。

 この世界に生まれ落ちて九年、孤児院の壁の中で育ち、生きるために冒険者となった。だが、現実はあまりに過酷だ。


 Fランクの見習い期間は戦闘行為が禁じられ、薬草採集や下水路の鼠駆除といった、命の危険がないとされる雑用しか受けられない。


 だが、それは欺瞞だ。

 一歩外に出れば、「安全」などという言葉は幻想に過ぎない。

 生きるためには、この身を護る牙が、絶対に必要なのだ。


 最低でも、一本の「まともな鉄の剣」。焼きが入り、重心の整った、ただの一度でも命を預けられると思える、本物の剣。


 それが、この銅貨の山が意味する全てだった。一枚一枚が、死闘の生還報酬であり、泥にまみれて下水を浚った対価だ。


 一枚一枚が、彼の命を明日へと繋ぐための、あまりに脆く、頼りない欠片。その重みが、ずしりと指先にのしかかる。


 これはただの金属ではない。彼の生存、そのものの質量だった。


「……おい。死人の顔色だぞ、ルシアン」


 隣から、呆れと苛立ちをない交ぜにした声が投げかけられた。カイルだ。鍛冶屋の親父を持つ同い年の友人は、腕を組んで壁に寄りかかり、ルシアンの儀式めいた行為を黙って見ていた。

 朝日が彼の赤みがかった髪を燃えるように照らし、そばかすの散った顔に物憂げな影を落としている。


 ルシアンは答えなかった。視線は銅貨の山から動かない。今は言葉を紡ぐための、わずかな精神力さえ惜しかった。


「聞いてんのか」


 カイルが身を乗り出す。


「昨日からずっとそれじゃねえか。睨んだところで銅貨は増えやしねえぞ」


 その言葉が、張り詰めた神経の弦を弾く。


「……わかってる」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどに掠れていた。


「わかってるなら休め。お前の顔、見てるこっちが不安になる」


「死体になる前に、足掻かなきゃならないんだ」


 ルシアンは顔を上げず、吐き捨てた。銅貨の塔が、また一つ出来上がる。冷たく鈍い光を放つそれは、粗末な墓標の列に見えた。


 カイルが深く息を吐く。


「親父んとこの一番安いショートソードでも、銀貨三枚だ。お前のそれ全部合わせたって、銀貨一枚に届くかどうか……」


 残酷な真実だった。ルシアンも知っている。知っているからこそ、万に一つの奇跡を信じて、夜明け前からこうしているのだ。

 一枚でも勘定が間違っていてくれと、神にさえ祈るように。


「わかってる」


 ルシアンは再び、それだけを繰り返した。


 汚れた銅貨の山。

 それは社会の底辺で生きる者にとっての泥だ。


 だが、俺たちのような人間は、この泥の中からしか希望を掬えない。

 金貨や銀貨を玩具のように使う貴族や高ランクの冒険者には、この一枚が孕む命の重さなど、想像もできまい。


 彼らにとって金は富だが、ルシアンにとってこの泥は、生存そのものだった。


 その時、指先が、一枚だけ奇妙にぬるりとした感触の銅貨に触れた。


 他のものより摩耗が激しく、刻まれた紋様は時の流れに喰み尽くされ、判別できない。いつ、どの依頼で紛れ込んだものか。疲弊した思考は、記憶の糸をたぐることを拒んだ。


「……ルシアン」


 カイルの声の響きが、わずかに変わった。呆れから、純粋な苦悩へ。


「次の依頼、俺も行く。親父に内緒で槌矛の一つでも持ち出してきてやる。二人なら、もう少しマシな仕事が……」


 それは、友人として差し出せる、最大限の覚悟だった。だが、ルシアンは静かに首を横に振った。


「お前を巻き込めない」


「……馬鹿野郎。とっくに巻き込まれてんだよ、こっちは」


 カイルはそう言って、苛立たしげに自分の髪を掻きむしった。


 ギルドの重い扉が軋みながら開き、朝の冷気が澱んだ空気を切り裂いた。

 眠たげな職員がカウンターの奥に現れ、一人、また一人と冒険者たちが姿を見せ始める。


 ホールに、生きた人間のざわめきが戻りつつあった。感傷に浸る時間は、終わった。


 ルシアンは最後の銅貨を数え終えると、それを革袋に乱暴に掻き込んだ。

 じゃらり、と響いたのは、虚ろで、あまりに軽い音だった。やはり、足りない。絶望的なまでに。


 それでも、立つしかない。今日も依頼掲示板に向かい、この泥の山を少しでも嵩上げするための仕事を探すのだ。


 死と隣り合わせの、泥を啜る一日がまた始まる。


 革袋の口を固く結び、無言で立ち上がる。

 カイルが何かを言いかけたが、それを遮るように掲示板へと歩き出した。

 一歩一歩が、鉛を呑んだように重い。腰で揺れる革袋が立てる銅貨の音。


 それは彼の痩せた心臓に絡みつく、見えない鎖の軋む音だった。


 ***


 依頼掲示板は、ホールの壁の一角に、墓標のように並んでいた。


 黄ばんだ羊皮紙の群れ。

 薬草摘み、汚泥浚い、地下水路の害獣駆除。

 命を銅貨数枚で切り売りする仕事の陳列。


 その一枚一枚から滲み出す絶望の匂いが、ルシアンの肺腑にまで染み渡り、足が泥に絡め取られるように重かった。


 背後で、カイルが聞き慣れたため息を吐く。

 友の無謀を止められぬ自身への、そしてあまりに頑ななルシアンへの、諦念が混じった音。


 だが、ルシアンは振り向かない。

 その優しさに触れれば、心が折れてしまいそうだった。

 己の足で立つ。この泥濘の世界で、獣として生き抜くために。


 掲示板まで、あと数歩。その時だった。


 ぎぃ、と。錆びついた蝶番が、断末魔のような悲鳴を上げた。

 ギルドの樫扉が開く音など日常の一部のはずが、その朝に限っては、ホール中の喧騒を喉元で締め上げた。

 酒杯を叩きつける音、下卑た笑い声、依頼を巡る怒声――あらゆる音が、まるで存在を許されぬかのように、ぴたりと死んだ。


 獣脂ランプの燻る薄闇と、汗と安酒と鉄錆の混じった淀んだ空気を、朝の光が、抜き放たれた剣のように鋭く切り裂いた。


 逆光の中に立つ、数人の人影。その輪郭は、この掃き溜めにいる誰のものとも異質だった。


 濃紺の上質な生地。


 寸分の乱れもなく仕立てられた制服は、ギルドの淀んだ空気を弾くかのように清浄だ。


 胸には銀糸で縫い取られた紋章が、この薄闇の中にあってなお、傲然と輝いていた。フォルティア中央魔法学院――選ばれた貴族の子弟か、数世代に一人の天才のみが門を潜ることを許される、雲上の学び舎の証。


 エリートが、なぜ。

 戸惑いと警戒が、水面のさざ波のように冒険者たちの間に伝播する。


 屈強な傭兵上がりの男が、無意識に剣の柄に手をかけた。

 誰もが息を殺し、その招かれざる闖入者の一挙手一投足を睨めつけていた。


 一団の中心に、彼女はいた。


 月光を紡いで織り上げたかのような、銀の髪。


 差し込む光を乱反射させ、彼女の立つ半径だけが、世界の法則から切り離された聖域に変わる。

 ギルドの汚濁が濃ければ濃いほど、その存在の純粋さが、暴力的なまでに際立っていた。


 ルシアンもまた、掲示板を前に、石のように縫い止められていた。


 少女の瞳。


 宵闇の淵を溶かし込んだような、深淵の青紫。

 感情という名の不純物を一切排した、静謐な玻璃玉。


 その瞳が、ホールを緩慢に検分する。

 いや、違う。それは何かを探している動きだ。

 特定の信号を探知しようとする、冷徹な機構のそれだった。


 隣に立つ引率役らしい男子生徒が、焦りを滲ませて少女に囁く。

「場違いだ」「早く立ち去るべきだ」――その声色がありありと伝わってくる。


 だが、少女はプログラムされた動作のように小さく首を振った。

 そこに意思の介在は感じられない。


 そして、その深淵の瞳が、ルシアンを捉えた。


 何十人といる冒険者の中から、ただ一人を抜き出すように。


 まるで最初から、そこにいると知っていたかのように、真っ直ぐに。視線が交錯した瞬間、ルシアンの心臓が、軋むような音を立てて跳ねた。


 恐怖ではない。


 驚愕とも違う。


 魂の奥底、固く閉ざした記憶の箱の錠前が、錆びた音を立てて開くような感覚。

 嵐のような喪失感が、胸の内を荒れ狂う。


 なぜだ。

 知るはずがない。

 天上人と、泥を這う蟲。

 交わることなど、永劫ありえぬはずだ。


 だが、少女は動いた。


 引率役の制止を、まるで存在しない壁を通り抜けるように無視して。

 一歩、また一歩と、ルシアンに向かって歩みを進める。


 その歩みは、異様なほどに静かだった。

 血と泥で固まった床板が、彼女の足下でだけ音を殺す。

 水面を滑るように、見えざる磁力に引き寄せられるように、彼女は進む。


 ホール中の視線が、その小さな背中に突き刺さる。

 カイルが隣で息を呑む気配だけが、やけに鮮明だった。


 近づくにつれ、不可思議な香りが鼻腔を掠めた。

 花でも、香水でもない。

 雪解けの朝の、凛とした空気。雨に洗われた古森の、静かな寂しさ。

 その清浄な香りが、ギルドに満ちていた鉄と汗の匂いを侵食し、浄化していく。


 十歩、五歩、三歩。


 ルシアンは動けない。

 金縛りにあったように、ただ迫り来る異質な存在を見つめるだけだった。

 彼女の瞳には、何の感情も浮かんでいない。

 好奇も、侮蔑も、憐憫もない。

 ただ、そこにある「何か」を確かめるためだけに、彼女は来たのだと、その瞳が雄弁に語っていた。


 腕を伸ばせば触れられる距離で、少女はぴたりと足を止めた。


 銀の髪が、ランプの光を吸って淡く発光する。

 世界の時間が、凍り付いた。冒険者たちの息遣いも、ランプの油がはぜる音も、すべてが遠い。目の前の少女と、自分だけが存在する、無音の空間。


 なぜ、俺だ?


 声は、喉の奥で意味をなさない音の塊になった。


 少女は、何も言わない。


 ただ、その青紫の瞳で、ルシアンの魂の最深部を覗き込むように、じっと見つめている。それは何かを暴く視線ではない。

 むしろ、失くした半身を見つけたかのような、ひどく懐かしく、そして、ひどく悲しい色を帯びていた。


 沈黙が、張り詰めた弦のように空間を支配する。


 その瞬間だった。


 ドクン、と。


 心臓ではない場所から、心臓の音がした。

 懐に入れていた黒い石が、まるで一個の生命を得たかのように、熱く脈動した。一度ではない。

 ドクン、ドクン、と、狂ったように速鐘を打ち、ルシアンの肋骨を内側から叩く。

 それは単なる熱量ではない。


 生命そのものが奔流となって、血管を焼きながら全身を駆け巡る、灼熱の脈動だった。


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