EP1-4 後編:境界 踏み越える足音と冷たい方程式
夕暮れの橙光が、冒険者ギルドの喧騒を琥珀色に染めていた。汗と安いエールの酸っぱい匂いが渦巻く熱気の中を、ルシアンとカイルは無言で進む。彼らがカウンターにワイルド・ボアの角と牙を置くと、受付嬢のラインが査定するような冷徹な光を宿した瞳を、僅かに丸くした。
「……ワイルド・ボア。あなたたち二人で?」
その声には、驚愕よりもまず、規律を重んじる者特有の厳しい疑念が混じっていた。
「場所は『東の森・深部』……指定区域外ね」
ラインの指摘に、カイルの肩がびくりと跳ねた。
「ち、違います! 薬草を採っていたら、向こうから襲ってきて……!」
「正当防衛、と主張するわけね」
ラインは深くため息をつき、腕を組んで二人を見下ろした。その目は一切笑っていない。
「事実だとしても、Fランクの指定区域外への侵入という事実は変わらない。三ヶ月間の戦闘行為禁止規定。忘れたとは言わせないわよ?」
「……はい」
ルシアンとカイルは、同時に俯いた。
「本来なら、冒険者資格の剥奪。そう判断されても文句は言えない重大な違反よ」
二人の顔から血の気が引く。心臓を鷲掴みにされるような沈黙。
「……でも、五体満足で生きて帰ってきたことだけは評価してあげる。今回は厳重注意。記録上は『緊急避難的討伐』として処理します。ただし」
ラインは人差し指を立て、冷ややかに宣告した。
「ペナルティとして、素材の買取価格は規定の十分の一。さらに違約金として、本来の依頼報酬から二割を天引き。文句、ある?」
「は、はい! ありません! ありがとうございます!」
資格剥奪という最悪の事態を免れた安堵に、カイルが飛び上がるようにして頭を下げた。その隣で、ルシアンはただ黙って、カウンターに置かれた獣の牙を見つめていた。
***
銅貨が革袋の中で擦れ、死んだ獣の骨が鳴るような乾いた音を立てた。受付嬢のラインはそれを無造作にカウンターへ置く。
「猪の牙、買い取りで銅貨三十枚。依頼達成報酬が五枚。ペナルティを差し引いて、これがアンタの取り分。……確認しなさい」
「はい」
ルシアンは革袋の重みを掌で感じ、中身を数えることもなく、そこから二十枚の銅貨を抜き取った。指先が、冷たい金属の感触を覚えている。
「借金の一部です」
「……そう」
ラインは感情の読めない瞳でそれを受け取ると、インクの染みた指で台帳に素早く何かを記した。その横顔を眺めながら、ルシアンは残りの十五枚をポケットに押し込む。今夜の寝床代、明日の黒パンと干し肉。それだけで、この命の重みは霧散する。
「……なあ、ルシアン」
背後から、カイルの嗄れた声が届いた。
「俺……足、引っ張っただけだったよな」
いつもの剽軽な光は消え失せ、死の顎から辛うじて逃れた者の、生々しい恐怖と無力感がその貌に刻まれていた。
「そんなことはない」
ルシアンは短く、事実だけを告げた。慰めではない。カイルのような『普通』が隣にいなければ、自分がどれほど歪な場所に立っているのか、その輪郭さえ見失ってしまうだろうから。
「また明日」
「……おう」
絞り出すような返事だけを残し、カイルは逃げるようにギルドを出ていった。夕闇に呑まれていく背中は、昼間よりもずっと小さく、脆く見えた。一人、血と汗と安酒の匂いが混じり合う喧騒の只中に取り残されたルシアンは、しばし虚空を見つめた後、冒険者寮へと続く軋む階段へ、重い足を引きずっていった。
***
石造りの棺のような部屋。ベッドと机がひとつ。窓の外は、すでに夜という名の深い海に沈んでいる。
ルシアンはベッドの縁に腰掛け、音を立てぬよう、腰のショートソードを鞘から引き抜いた。
月光が、刃に走る一本の銀色の死線を冷たく浮かび上がらせた。
「……やはり、か」
あの巨獣の突進を無理に受け流した瞬間、骨まで響いた衝撃。鋼の塊を捻じ伏せた代償は、致命的な亀裂となって相棒の命を蝕んでいた。
もう、この剣では戦えない。次の一撃で砕け散る。それは、己の死と全くの同義だった。
剣を鞘へと戻し、今日得たばかりの銅貨を握りしめる。ペナルティで削られた報酬。そのあまりに軽い金属の感触が、今は唯一の命綱だった。
「貯める」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
「剣を買う。……このままでは、死ぬ」
その言葉は鋼の刃となり、彼自身の魂を深く抉った。ここは戦場だ。一歩踏み外せば、誰もが等しく死に呑まれる。その冷徹な摂理を、彼は全身で理解した。
もう一度だけ、鞘の上から柄に触れる。最初の試練で役目を終えた相棒。だが、その死は無駄ではなかった。お前は俺に『生きるための術』と、そして何より『限界』というものを教えてくれたのだから。
ポケットの中で、ごつりとした硬いものが指に触れた。森で拾った、あの黒い石。
取り出し、月明かりにかざす。魔力の波動も、何の変哲もない、ただの石塊。だが、その表面には、凝視しなければ知覚できないほど微細で、人知を超えた幾何学紋様が刻まれていた。自然の造形ではありえない。まるで、遥か上位の存在が宇宙の法則をそのまま刻み付けたかのような、異質な紋様。
捨てられなかった。遠い過去に失くした魂の片割れを、今ようやく見つけ出したかのような、奇妙な郷愁があった。
石を机に置き、枕元の古びた書物に目をやる。母の形見だという、解読不能な文字で綴られた一冊の本。それが、過去と彼を繋ぐ唯一の糸だった。
胸の奥にぽっかりと空いた、決して埋まらぬ風穴。
何かを失ったという確信。誰かを探さねばならないという焦燥。物心ついた時から、その感覚は彼の魂に寄生していた。
(――どこにいる)
声にならぬ問いが、空虚な心に木霊する。問いかける相手も、探している相手も分からぬまま、ルシアンは重い瞼を閉じた。
深い意識の底で、またあの灰色の塔が聳え立つ、色のない夢を見るのだろう。
***
朝陽が壮麗なステンドグラスを透過し、七色の光の束が、巨大な書架の影を床に落としている。聖域の静謐を満たすのは、古い羊皮紙と乾いたインクの香り。
周囲の学生たちは、流行りの英雄譚や王都の恋愛小説に夢中になり、砂糖菓子のように甘い物語にくすくすと笑い声を漏らしている。
その中で、ミリア・レーンフェルだけが、隔絶された世界にいた。
彼女の机に積まれているのは、『基礎マナ相関理論』『魂の波形と環境マナへの影響』といった、およそ同年代の娘が見向きもしない難解な学術書のみ。
彼女の知性は、感情という肉を削ぎ落とし、世界の論理構造という骨格だけを暴き出すための、冷たいメスだった。
細く白い指が、人間業とは思えぬほど複雑怪奇な魔術式をなぞる。瞳が追うのは、物語ではない。ただ純粋な『構造』と『論理』。
――なぜ、先日観測したあの少年の魔力回路は、あれほどまでに『完成』されているのか。
常人とは比較にもならぬ、不自然なまでに整合性の取れた魂の波形。まるで、神の手で完璧に調律されたかのような『異物』。それは、彼女が蒐集してきたどの生命データともかけ離れた、異常値だった。
翻って、自分はどうか。
自身の胸に手を当てる。そこにあるのは、空虚。
魂の器に穿たれた、根源的な『欠損』。その穴を埋めるため、常に周囲のマナを渇望し、吸収し続ける不完全な自分。
彼の『完全な異質』と、己の『欠損した空虚』。その絶対的な対比が、彼女の知的好奇心を焼き尽くさんばかりに刺激していた。
「ミリアさん、またそのような難解な本を……」
穏やかな声に顔を上げると、年配の女性司書が、慈愛と困惑の入り混じった笑みを浮かべていた。
「たまには、もっと心躍る物語でもいかがです? 恋や冒険も、素晴らしいものですよ」
司書の視線が、隣席の少女が頬を染めて読む恋愛小説に向けられる。ミリアは一瞥をくれたが、その華やかな装丁に何の興味も感じず、すぐに視線を自らの手元の古書へ戻した。
「結構です」
体温を感じさせない平坦な声で、彼女は答える。
「この本の『構造』は、それだけで十分に美しいので」
その返答に、司書は小さく肩をすくめ、静かにその場を去った。
再び訪れた沈黙の中、ミリアは思考の深海へとさらに潜っていく。
ページをめくる指が、ふと止まった。
ある一つの仮説が、彼女の網膜に焼き付いた。
『――魂の器が極度の欠損を抱えた場合、その空隙を補完するため、他者の魂、あるいは高次マナ存在と『融合』する事例が、極めて稀に観測される』
その一文を目にした瞬間、ミリアの瞳の奥に、硬質な光が灯った。驚きでも、歓喜でもない。無機質な水晶の奥で、初めて鉱脈が煌めいたかのような、純粋な知的好奇心の閃光。
融合。補完。仮説が真実ならば、この『空虚』を満たす術も、あるいは――。
ミリアは、その文章を指でなぞりながら、脳内で先日記録した少年のデータを再生する。
あの異常なまでの『完全』と、自らの『欠損』。二つを重ね合わせた時、そこにどんな数式が浮かび上がるのか――。
その思考は、彼女にとって、どんな恋愛小説よりも甘美な愉悦をもたらしていた。
欠落した二つの魂。
一つは、己を殺して冷徹な刃になろうとする少年。
一つは、世界を解き明かすために感情を捨てた少女。
氷と氷が出会う時、そこに生まれるのは融合か、それとも砕け散る破滅か。
観測者は、ただ静かにその「接触」の時を待つ。
次回、『EP1-5:接触 冒険者ギルドの邂逅』へ続く。




