EP1-4 前編:境界 踏み越える足音と冷たい方程式
一条の光が、棺を暴くように薄闇を裂いていた。
冒険者ギルド寮、三階の突き当たり。埃の粒子が光の刃の中で乱舞するその部屋は、ルシアンに与えられた世界のすべてだった。粗末なベッド、小さな机、そして衣類を呑み込む木製の箱。それだけが、壁の染みを亡霊のように浮かび上がらせる空間を占めていた。
昨夜の熱狂は、夜明け前の冷気に溶けて久しい。残滓は、骨の髄まで染み渡る鉛のような疲労と、その対極にある、冷たく結晶化したような冴え。巨大ネズミの群れとの死闘――あれは、かつての自分ではありえなかった。恐怖を置き去りにして肉体が最適解を導き出し、最短距離で急所を穿つ。何度も、何百回も繰り返した儀式のように、血と臓腑の匂いの中で舞う動き。なぜ、と問う暇はなかった。そう動かねば死ぬ、という絶対零度の確信だけが、九歳の体を支配していた。
ベッドの軋みを背に、机へ向かう。
そこに散らばるのが、ルシアン・フォルトという存在を証明する、あまりに貧しい構成要素だった。依頼の報酬である、くすんだ銅貨の小山。冒険者になる前に立ち寄った森で、魂が引かれるように拾った、光を呑む滑らかな黒石。そして、母が遺した唯一の証、表紙が擦り切れ、乾いた大地のようにひび割れた一冊の古書。
その中から、ギルド貸与のショートソードを手に取る。
柄に巻かれた革は、名も知らぬ誰かの汗と脂を吸って黒く濡れていた。油を染み込ませた布で、こびり付いた下水の汚泥と乾いた血を拭う。鉄と油、そして命が腐敗した臭気が混じり合い、鼻腔の奥を刺した。
清めた剣身を、窓から射す一条の光に翳す。
ルシアンの眉間に、年齢不相応の深い影が落ちた。刃の至る所に、無数の傷痕。硬い骨を断ち、石の床を掻いた代償。指でなぞれば、鋼の無言の悲鳴が伝わってくる。昨日、あれほど丁寧に研いだはずなのに、この安物の鉄はあまりにも脆く、あまりにも疲弊していた。
シャリ、シャリ……。
砥石に水を垂らし、刃を滑らせる無機質な音だけが、墓標のような静寂に響く。「道具を大事にせぬ者は、道具に見捨てられて死ぬ」。貸し出しの際、年老いた管理官が吐き捨てた言葉が蘇る。教わった通り、刃の角度を、腕の力を、魂の重さを乗せていく。だが、無駄だった。どれだけ繕おうと、死にゆく鉄の呻きは消せない。切れ味は一時的に戻るだろう。だが次に硬い何かを砕けば、この刃は今度こそ砕け散る。
これは、命を預けるべきものではない。
その真実が、腹の底に冷たい錨を下ろした。
これは消耗品だ。誰かが使い古し、ろくに手入れもされず、ルシアンのような新米に死への片道切符として渡されるだけの鉄屑。この剣にとって、持ち主の命など、その刃こぼれの一つと何ら変わりない。いつか戦場で折れ、主の骸と共に名も無く泥に沈む。その未来があまりに鮮明に見えた。
「……これでは、死ぬ」
唇から絞り出されたのは、絶望ではなく、冷徹な分析だった。
自分だけの剣が欲しい。
その渇望は、飢えや渇きといった肉体的な欲求を超え、魂の深淵からの咆哮となって内から突き上げた。
ただの道具ではない。使い捨ての鉄塊ではない。腕の延長、魂の半身。我が鍛錬に応え、魔力を糧とし、共に成長する唯一無二の相棒。それさえあれば、もっと先へ、もっと深くへ――今の自分では届かぬ領域へ至れる。揺るぎない確信があった。
その瞬間、胸の奥に奇妙な疼きが走った。
痛みではない。熱でもない。失われたはずの四肢が痛む、幻肢痛にも似た虚ろな共鳴。遥か彼方で、誰かが自分と同じものを見つめているような、既視感の残滓。
ルシアンは剣を研ぐ手を止め、訝しげに胸を押さえた。昨日の戦闘で神経が焼き切れたか。あるいは、この棺桶での生活が魂を蝕んでいるのか。正体不明の感覚は霧のように消え、後には理由の分からぬ喪失感だけが残った。
思考を振り払い、机上の銅貨に目を落とす。
指で数える。乾いた、あまりに頼りない音がした。昨日、泥と血反吐に塗れて稼いだ命の対価。そのすべてを掻き集めても、鍛冶屋の店先で埃を被る最低の量産品にすら指は届かない。理想の業物など、もはや語るに落ちる。
「俺だけの、剣……」
再び漏れた言葉には、焦がれるような熱が宿っていた。
それは、失われた何かを取り戻そうとする魂の叫び。灰色の塔。赤い点滅。鉄の獣の咆哮。あの異質な夢の世界――遥かなる記憶の断片――では、自分は無力だった。だが、今の自分は違う。あの無気力と、今の力への渇望が、矛盾の渦となって胸を焼いた。
「……いくらだ」
問いは、薄闇に吸い込まれて消えた。
深い溜息と共に、ルシアンは再び砥石を手に取った。感傷は贅沢だ。今は、このなまくらこそが唯一の牙。今日を生き延び、明日へ繋ぐために。
シャリ、シャリ……。
規則正しい音が、再び部屋を満たす。
それは祈りだった。この死にかけの鉄が、今日一日、我が命を守り抜けと。
それは誓いだった。いつか必ず、真の相棒をこの手に掴むと。
目標が定まった。
もはや、ただ生きるために戦うのではない。
自分だけの剣を手に入れる――その目的が、九歳の少年の魂に、灼けた鉄の杭を打ち込むように、決して折れぬ一本の芯を焼き付けた。
手入れを終えた剣を鞘に納め、ルシアンは立ち上がる。
窓の外では、夜の闇を払った朝日が、街を黄金に洗い流していた。
新しい一日が、そして、新しい試練が彼を待っていた。
◇◆◇
夜の湿気が、石畳を黒く濡らしていた。空はまだ白み始めたばかりで、街は深い眠りの底にいる。ギルド寮の扉を開けると、まだ何も描かれていない世界の空気が、ひやりと肌を撫でた。昨日までの彼ならば、受付へ直行し、日銭を稼ぐための依頼を探していただろう。だが、違った。
彼の足は、意思とは無関係に、ギルドとは逆方向へ向かう。
東へ。朝日が最初に口づけをする方角。この街の心臓、職人たちの領域。
鍛冶屋通り。
ほとんどの店がまだ固く扉を閉ざす中、いくつかの工房から、規則正しい槌音と、炉の息吹が漏れ聞こえてくる。夜を徹して鋼を打ち、魂を吹き込む営みの音。街の鉄の心臓の鼓動。
その音が、ルシアンの魂の渇望と、静かに共鳴した。
『自分だけの、剣』
***
陽光が、刃という刃に宿り、神々しいまでの光を放っていた。磨き上げられた鋼の奔流が、ルシアンの網膜を灼き尽くす。ショーウィンドウの向こう、手の届かぬ星辰のように並ぶ武具。流麗な死を約束するロングソード、骨を砕く重鈍な輝きを秘めたバトルアクス、月光を盗み鍛えたかのようなミスリル銀のダガー。その一つ一つに付いた値札が、昨夜稼いだ銅貨の山を嘲笑うかのように、無慈悲な数字を刻んでいた。
それでも、足は止まらない。その輝きを瞼に焼き付けるだけなら、金はかからない。いつか、この中のどれか一つを、いや、これら全てを凌駕する一振りをその手に握る。虚ろな胃の腑に、焦燥という名の熱い鉄が注ぎ込まれる。だがそれは絶望の熱さではなかった。これから挑むべき絶壁の高さを、己の魂に寸分違わず測らせるための、冷徹な観測だった。
光と喧騒の川であった大通りを離れ、都市の呼気が湿り気を帯び、重くなる路地裏へ。そこでルシアンは、時が止まったかのような一軒の店を見つけた。豪奢な新品の店とは真逆に、そこにあるのは死線から生還した沈黙の歴戦兵だけだった。掠れた看板に『中古武具・研磨』。軒先に立てかけられた盾には、持ち主の命を救ったであろう深い斬撃の記憶が刻まれ、槍の穂先は敵の鎧を貫いた代償にわずかに欠けている。新品の武具が持つ傲慢なまでの輝きとは違う、血と泥に塗れ、なお生き永らえた者だけが放つ凄みが、そこにはあった。
まるで鉄の霊廟に引き寄せられるように、ルシアンは店の前に立つ。ガラスのない窓枠から覗き込むと、雑然と、しかしある種の秩序を持って並べられた剣の森が広がっていた。錆びついたもの、柄が朽ちかけたもの、そして、主を失ってなお手入れを待つかのように鈍い光を宿すもの。玉石混淆の鉄屑の中で、彼の魂が渇望する何かを探していた。
「――そいつが、悲鳴を上げている」
鉄を削るような低い声が、背後から突き刺さった。
弾かれたように振り返る。いつからそこにいたのか、腕を組んだ男が立っていた。五十がらみか。陽に焼かれ、深い皺が刻まれた顔。油と煤に汚れた革のエプロン。だが何よりルシアンを射抜いたのは、その眼光だった。まるで鋼の魂までも見定め、その価値を冷酷に断じるかのような、鋭利な瞳。
男の視線は、ルシアンではない。その腰に佩びた、ギルド貸与のショートソードに注がれていた。
「悲鳴……?」
思わず声が漏れる。昨夜、眠い目をこすりながら懸命に手入れをしたはずだ。刃こぼれを均し、油も引いた。このなまくらに、これ以上何をしろと。
「ああ。鉄が泣いているのが聞こえんか」男は吐き捨てた。「無理やり研がれ、歪みを無視され、ただ形だけ刃をつけられただけの代物だ。そんなもん、いざという時にてめえの腕ごとへし折られるのが関の山。死にたくなきゃ、そんな鉄屑はさっさと溶鉱炉にでも放り込むこったな」
言葉の刃が、寸分の狂いもなくルシアンの自尊心を抉る。侮辱への怒りよりも、真実を暴かれた羞恥が、喉を焼いた。この男には全て見えているのだ。昨夜の自分の稚拙な手入れも、この剣が元来持つ質の低さも、何もかも。
唇を強く噛む。ここで虚勢を張ることに、何の意味もない。この男の瞳の前では、どんな嘘も瞬時に剥がされてしまうだろう。ルシアンは、子供じみたプライドの残骸を静かに飲み込み、真っ直ぐに男の目を見返した。
「……ギルドの貸与品です」
自分でも驚くほど、声は凪いでいた。
「自分の剣を買う金が、ないんです」
それは弁解ではなかった。恥を晒すのでもなく、ただ冷徹な事実を告げただけだ。金がない。だから、この『悲鳴を上げる鉄屑』に命を預けるしかない。それが今の自分の全てなのだ、と。
その答えは、男には予想外だったらしい。厳めしい眉が、わずかに動いた。鋼を断じる瞳の奥に、刹那、異質な光が混じる。興味か、あるいは感心か。
男は組んでいた腕を解くと、ぬっとルシアンに顔を寄せた。鉄と油の、そして長年火と向き合ってきた男の匂いが鼻をつく。
「……ふん。餓鬼のくせに、妙に据わってやがる」
男は唸り、無骨な指で顎をしゃくった。「抜け。そいつを、見せてみろ」
言われるがまま、ショートソードを抜き放つ。朝の光を浴び、鈍く淀んだ光を返す刀身。男はそれをひったくると、指先で刃をなぞり、光に透かし、何度も角度を変えて歪みを検める。長年連れ添った生き物を診る医者のように、その動きに一切の無駄がなかった。
「……ひでえもんだ。量産品の中でも最底辺の屑鉄だな。だが」
男は一度言葉を切り、ルシアンの目を射抜いた。
「手入れをしようとした、その気概だけは褒めてやる。やり方は、まるでなってねえがな」
男は近くの木箱にどかりと腰を下ろし、剣の柄をルシアンに突き返した。
「いいか、小僧。まず砥石を当てる角度だ。てめえは刃を立てようと必死で、角度をつけすぎてる。これじゃあ刃先が脆すぎて、硬いもんにぶつかれば一発で欠けちまう。もっと寝かせろ。鋼の理に沿うように、ゆっくり、同じ力で滑らせるんだ」
ぶっきらぼうな口調で、だが恐ろしく的確な助言が飛ぶ。
「刃こぼれは下手に削り取るな。全体の肉厚が変わって、バランスが崩れる。まずは傷の周りを滑らかに均し、そこから亀裂が広がらねえようにするだけでいい。貸与品ならそれで十分だ」
「それから油だ、馬鹿者。塗りすぎだ。埃を呼び寄せて錆を育てるだけだぞ。布に染ませた油を、ごく薄く、鋼の表面に膜一枚を作るように引き伸ばせ。湿気から守る、ただそれだけでいい」
矢継ぎ早に叩き込まれる言葉は、ルシアンが知る由もなかった真理だった。見よう見まねの我流が、いかに無意味で、危険でさえあったかを骨身に染みて理解する。彼は男の一言一句を脳に刻み込むように、全神経を耳に集中させた。
一通り語り終えると、男は「分かったら、もう一度自分でやってみろ。今よりはマシな声で鳴くはずだ」と言って、剣を完全に返した。
「……あの」
ルシアンは、受け取った剣を握りしめたまま、問いかけた。
「どうして、俺に……?」
見ず知らずの、金もない子供に、なぜこれほどまでに。その問いに、男は心底面倒くさそうにガシガシと頭を掻いた。
「勘違いするな。てめえのためじゃねえ」
男は立ち上がり、店の奥の暗がりへ戻りながら、背を向けたまま言った。
「俺はただ、鉄が泣き喚くのが気に食わんだけだ。どんななまくらだろうと、一度打たれて世に出たからにゃ、そいつなりの役目がある。それを使い手の未熟さで果たさせもせずに壊されるのは、反吐が出る」
そして、ちらりとルシアンを振り返る。その瞳に、再びあの冷徹な光が宿っていた。
「……それに、その眼だ。その年で、それだけ真っ直ぐに鉄の魂を見据える餓鬼は、そうはいねえ」
それだけ言うと、男は今度こそ店の闇へと溶けていった。
後に残されたルシアンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。手の中にあるショートソードが、先ほどまでとは全く違う存在に感じられる。もはや、ただの貸与品でも、鉄屑でもない。己がどう向き合うべきか、その道を示された、最初の相棒。
彼の心の中で、男の言葉が反響する。指先に、砥石を滑らせる幻の感触が蘇る。布に染みた油の、微かな重みが。職人の言葉が、彼の血肉となり、確かな技術へと変わっていく。ルシアンは、静かに剣を鞘に納めると、一度深く、長く息を吐いた。
***
魂核に、熾火が燻っていた。
ただの鉄塊ではない、己が魂を預けるべき片割れ。それを手にするという渇望が、ルシアンという存在そのものを変質させる、灼熱の起点だった。所有するだけでは意味がない。その本質を識り、真の主となるに足る資格を、この身で証明せねばならない。
ルシアンは、鍛冶師が消えた工房の入り口へ、深く、一度だけ頭を垂れた。それは無言の誓いだった。
踵を返し、冒険者ギルドへ向かう。
石畳を蹴る足音は、もはや迷いを知らない。彼の世界を規定していた境界線が、音を立てて融解していく。夜明けの陽光がその背を焼き、覚悟の影を前へ、前へと長く突き刺していた。
これにて、前編(Part 1)は終了です。
少年は選んだ。
安寧(ぬるま湯)の死ではなく、渇望という名の業火を。
その背中を焼く朝日は、祝福なのか、それとも審判の光なのか。
歯車は軋みを上げて回り出した。もう、誰にも止められない。




