EP-1-3 (前編)『深淵からの胎動』
夜の死骸を引き摺る黎明の冷気が、皮膚を刺す。
窓の亀裂から滲む光は、まだ血の気のない病人のように白々しく、部屋の塵を銀の胞子に変えて、停滞した時間の中を漂わせていた。ルシアンは、石のように硬い寝台の上で、鉛の瞼をこじ開けた。
意識を現実へと引きずり上げたのは、全身を苛む軋みだった。昨日の薬草採取で断末魔を上げた筋肉繊維が、九歳の骨格の上でささやかな反乱を起こしている。特に肩甲骨のあたりには、熱を持った鉄の楔でも打ち込まれたかのような、鈍く、しかし執拗な痛みが巣食っていた。だが、この痛みこそが、かつて夢の底で知っていた無感覚の肉塊と、今の自分を分かつ唯一の証だった。痛みは、生存の対価だった。
部屋は、独房と呼ぶ方が相応しい。染みの地図が描かれた石壁、一本脚のぐらつく木机、そして彼の身体を受け止める、スプリングの死骸が突き出す寝台。それが、ギルドが彼に与えた世界のすべて。
無意識に、指が枕の下を探る。
触れたのは、生命の熱を拒絶する、墓石のような冷たさ。昨日、『始まりの森』の苔の褥から拾い上げた、あの黒い石。鶏卵ほどの大きさで、その濡れたような表面には、凝視せねば知覚できぬほど微細な幾何学文様が、まるで凍りついた回路のように走っている。夜の虚無そのものを盗んで結晶させたかのような、冒涜的なまでの静謐。
それを掌に載せると、奇妙な冒涜感が全身の神経を逆撫でした。
冷たい。だが、それは物質の冷たさではない。自らの体温が、その底なしの闇へと一方的に奪われ、喰われていくような、熱の略奪。そして冷たさの芯に、脈動とも振動ともつかない、微かな『何か』の胎動を感じる。それは音ではない。魂の弦に、異質の指が触れるような、冒涜的な交感。
安らぎとは程遠い。それは、足元の世界が崩落し、奈落を覗き込む瞬間の眩暈。自己という輪郭が、その闇に融解していくような、抗いがたい引力だった。この石は、世界の理から逸脱した『誤り』だ。その直感が、ルシアンの胸に氷の杭を打ち込んだ。
霧のような不安が、思考の隙間を埋めていく。
この感覚を振り払え。思考を、感情を、制御可能な『今』へと引きずり戻さねば。さもなくば、呑まれる。
彼は、獣が跳ねるように身を起こした。錆びついたスプリングが、断末魔の悲鳴を上げる。
視線が、壁に立てかけたギルド貸与の装備に突き刺さる。使い古されたショートソード。継ぎ接ぎだらけの革鎧。それこそが、彼が唯一掌握できる「日常」であり、この世界で正気を保つための「秩序」だった。
ルシアンは黒い石を机に置くと、まるで神官が祭具を扱うように、手入れ道具を手に取った。
まず、ショートソード。安物の砥石で、刃こぼれを丁寧に均していく。一度、二度、三度。刃の腹から切っ先へ、切っ先から刃の腹へ。病的なまでに正確な反復。窓から射す光を刃に受け、角度を変え、一点の曇りも許さない。鉄の無機質な輝きだけが、そこにあるべき唯一の真実だと、自らに宣告するように。
次に革鎧。硬化した革の表面を指でなぞり、僅かなささくれも見逃さず削り取る。ベルトの金具を磨き上げ、革紐の結び目を解き、寸分の狂いもなく左右対称に結び直す。古びた革と汗の匂いが、彼の意識を現実の座標へと強く引き戻す。これは、身を守る道具。昨日も、今日も、明日も、彼の命を繋ぎとめる、確かな物理法則の塊。
ブーツの裏にこびりついた泥を、ナイフの背で削ぎ落とす。土塊が床に落ちる乾いた音が、静寂を小さく切り裂いた。
反復。確認。修正。
その無心にして無機質な工程だけが、心の侵食を押し留める防波堤だった。机の上の黒い石が放つ、あの不気味な『交感』への、彼の唯一の抵抗。手の届く範囲の秩序で世界を塗りつぶし、心の平衡を必死に保つための儀式。
やがて、すべてが終わった。
ショートソードは鈍い銀の光を湛え、革鎧は完璧な状態で主を待つ。部屋に、再び静寂が降りる。だが、もはやそれは安らぎではなかった。
視線を上げると、机の上の黒い石が、まるで待ち構えていたかのようにそこにあった。
朝の光はその曲面を滑り、光を一切吸い込む底なしの闇を際立たせる。ルシアンが懸命に構築した矮小な秩序を嘲笑うかのように、それは静かに、そして絶対的な存在感でそこに在った。
彼は石から目を逸らし、壁に掛けた一冊の古書に視線を逃がす。母の形見。脆く、儚い、唯一の『過去』。
だが、視界の端で、黒い石の無言の引力が彼を捉えて離さない。
日常と非日常の境界線が、この小さな独房の中で陽炎のように揺らめいていた。
沈黙は思考を腐らせる。
ルシアンは、冷水に頭を突っ込んだかのように、はっと息を呑んだ。石が示す『未知』と、本が示す『過去』。その二つの引力の間で引き裂かれそうになる意識を、彼は意志の刃で断ち切った。
動け。今日の糧を得るために。この場所で、生きるために。
それだけが、今の彼に許された、揺るぎない現実だった。
彼は黒い石に背を向け、それを革の小袋に乱暴に押し込むと、口を固く縛った。視界から消す。それだけでは足りない。意識からもだ。小袋を背嚢の最も深い底に埋め、その上に予備のシャツを被せた。まるで、禁忌の遺体を土深く埋葬するように。
装備を纏う。病的なまでに手入れされた革鎧が、彼の小さな身体に吸い付く。ベルトを締め、ブーツの紐を結び、ショートソードを腰に差す。一つ一つの動作を確かめる、最後の儀式。彼はもはや、ただのFランク冒険者、ルシアン・フォルトだ。
軋む扉を開けると、寮のむわりとした生活臭が彼を迎えた。埃と汗、安物のエールが発酵した酸っぱい匂い。三階の廊下はまだ薄暗く、いくつかの扉の向こうからは、獣じみた鼾が漏れ聞こえる。だが、階下からは既に、ざわめきと活気が床を伝い、微かな振動となって足裏をくすぐっていた。
日常が、そこにある。
ルシアンはそれに安堵し、同時に、その濁流の中心にありながら一枚の薄氷を隔てて浮いているような、奇妙な孤立感を覚えた。
階段を降り、一階のホールに足を踏み入れると、喧騒は一気に彼を呑み込んだ。
焼けたパンの香ばしさ、獣の血の鉄臭さ、鎧が擦れる不協和音、依頼に向かう男たちの野卑な笑い声。巨大な暖炉では薪が爆ぜ、その炎が屈強な冒険者たちの顔に深い陰影を彫りつけている。ここは欲望と生存本能が渦を巻く、彼の戦場だった。
「おーい、ルシアン! こっちだ!」
***
汗とエール、安酒の酸っぱい匂い。いくつもの武具が擦れ合う金属音と、荒くれ者たちの野太い笑い声。冒険者ギルドのホールは、生命力の濁流で満たされていた。
その喧騒の渦を、場違いなほどに澄んだ声が切り裂いた。
「ルシアン! こっちだ!」
声の主を探す必要はない。ホールの中心、長テーブルの一角で、太陽を溶かし込んだような赤茶色の髪を揺らす少年が、ちぎれんばかりに腕を振っていた。カイル。ギルドで出会ったばかりの、鍛冶屋の息子。ルシアンと同じ日に登録した、数少ない同年代。その絶望を知らない無垢な笑顔の前には、硬い黒パンと湯気の立つスープの皿が置かれている。
ルシアンが近づくと、カイルは口いっぱいにパンを詰め込んだまま、もごもごと不明瞭な音を発した。
「おせーぞ! 目ぼしい依頼、なくなっちまうだろ!」
慌ててスープで流し込み、彼は目を輝かせる。
「今日は一発デカいのをやる。昨日稼いだ銅貨、全部つぎ込んで新しいダガーを買うんだ」
「……そうか」
ルシアンは短く応えると、カイルの向かいの席には目もくれず、壁際の依頼掲示板へと視線をやった。すでに数人の冒険者が、獣のように依頼書を品定めしている。
「なんだよ、付き合い悪いな。朝飯は?」
「後でいい」
「ふーん。まあ、昨日もそんな感じだったもんな」
カイルは悪びれもなく笑い、残りのパンを一口で胃に収めると、弾かれたように立ち上がった。その全身から発散される、影を焼き払うような生命の輝き。それは、ルシアンの魂の底に澱む冷たい泥とは、あまりにも対照的だった。
二人は掲示板の前に並び立つ。様々なインクで書かれた羊皮紙が、所狭しと壁を埋め尽くしていた。
『近郊の森・ゴブリン斥候の討伐(推奨ランクE)』
『商業路の護衛(パーティ推奨)』
『鉱山への薬品配達』
どれもFランクの駆け出しには分不相応なものばかりだ。
「お、これ見ろよ!『迷いの森の薬草採取』。珍しい光苔を見つけりゃ、銀貨一枚だ!」
カイルが興奮に声を弾ませ、一枚の依頼書を指差す。その瞳は、銀貨という報酬の輝きに完全に心を奪われている。
だが、ルシアンの虚ろな視線は、その依頼を一瞥しただけで、別の場所を彷徨った。
『始まりの森』。
昨日の場所。あの石を拾った場所だ。脳裏に、指先から生命を吸い上げるような、底なしの冷たさの記憶が蘇る。彼は無意識に、革袋の底に押し込んだ石の存在を確かめるかのように、自身の脇腹に手をやった。そこにあるはずのない冷たい幻肢が、肌を粟立たせる。
駄目だ。今は、予測不能な要素を排除しろ。思考を乱すな。制御可能な、単純な作業に没頭しろ。昨夜、武具の手入れに心を無にした時のように。
彼の視線は、掲示板の最も隅、誰もが見向きもしない場所に打ち捨てられた、汚れた紙片に吸い寄せられた。インクは滲み、何度も画鋲を刺された四隅はみすぼらしくめくれている。
『都市区画・下水道の清掃及び害獣駆除』
「……これにする」
ルシアンの呟きが、カイルの熱狂に冷水を浴びせた。
「はぁ!? 下水道だぞ! 臭くて汚ねえし、報酬だって銅貨三十枚がいいとこだ! そんなんで、いつになったら借金が返せるんだよ!」
ギルドへの登録料と装備のレンタル代。ささやかだが、子供には重い負債。カイルの焦りは当然だった。
「確実だ」ルシアンは、感情の温度を失くした声で言った。「街の下水道なら、ギルドの未成年規定に抵触しない。危険度も最低。やるべきことは決まっている。鼠を殺し、汚泥を浚う。それだけだ」
それはまるで、彼自身に言い聞かせるための呪文のようだった。単純作業の反復。それこそが、今の彼が求める唯一の鎮静剤だった。
「でもよぉ……」
なおも食い下がるカイルに、ルシアンは静かに視線を向けた。その瞳は、カイルの楽観を拒絶する底なしの闇を湛えていた。年齢不相応な、冷え切った光。
「夢を見て死ぬより、泥水を啜って生きる方がいい」
その言葉の重みに、カイルは喉を詰まらせた。
彼はルシアンの横顔を盗み見る。いつも何を考えているか分からない奴だとは思っていた。だが今日の彼は、まるで分厚い氷の壁に閉ざされているかのように、近寄りがたい。
「……わーったよ。お前がそう言うなら、それでいい」
カイルは、わざと作ったような明るい声で両手を頭の後ろで組んだ。「二人でやりゃ、昼までには終わるだろ! そしたら、余った銅貨で美味い串焼きでも食いに行こうぜ!」
その屈託のない言葉に、ルシアンの胸の奥で張り詰めていた氷が、ほんのわずかに音を立てて緩んだ。
彼がいなければ、自分はとっくにこの喧騒と内なる闇の間で圧し潰されていただろう。
ルシアンは小さく頷き、依頼書に手を伸ばした。
羊皮紙を画鋲から引き抜く、乾いた音が響く。
彼はその紙片を手に、受付カウンターへと歩き始めた。カイルが慌ててその背中を追う。
太陽のように眩しい友の隣で、ルシアンは誰にも共有できぬ秘密の重さを噛みしめていた。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。
カイルの存在は救いであると同時に、灰色の塔の悪夢に囚われた自分が、決して彼と同じ場所に立てないという事実を、残酷なまでに浮き彫りにする。
革袋の底で、あの黒い石が、まるで心臓のように、微かな、しかし確かな脈動を始めた気がした。脳裏にノイズが走る。灰色の塔。明滅する赤い光。
気のせいだ、と彼は打ち消す。足を止めず、ただ前だけを見て、受付に立つラインの姿へと向かっていった。
***
鉄格子の向こうは、光の届かぬ完全な闇だった。
じっとりとした湿気が、腐敗と黴、そして汚泥の澱んだ甘さが混じり合った悪臭を運び、鼻腔を刺す。カイルの威勢の良さは、すでに地下の淀んだ空気に吞まれかけていた。
「うへぇ……噂以上だぜ、この臭い……」
松明の頼りない光を掲げ、濡れた石段を慎重に降りながらカイルが顔をしかめる。壁からは絶えず水が染み出し、黒い苔をぬらぬらと光らせていた。水滴が水面に落ちる、粘り気のある水音が、閉塞した静寂の中で不気味に響き渡る。
ルシアンは黙って彼の後に続いた。
ブーツがぬかるみに沈み、ぐちゃり、と粘性の高い音を立てる。その不快な感触も、肺を満たす悪臭も、今の彼にとってはむしろ慰めだった。内側で渦巻く正体不明の恐怖を、強烈な外的刺激が麻痺させてくれる。
思考を必要としない、単純な肉体労働。
この強烈な不快こそが、今の彼が唯一求めることのできる救いだった。
***
「これでも喰らえ、闇虫どもめ」
低く唸るようなカイルの声が、湿った石壁に反響した。通路の鉄製燭台に松明の一本を突き立てると、揺らめく炎が彼の粗野な横顔を深紅に染め上げる。もう一本が、放物線を描いてルシアンへと放られた。
「そっちは任せたぞ、ルシアン」
危なげなくそれを受け取り、反対側の燭台へと歩む。二つの光源が、悪臭の淀む円形の広間の輪郭を、頼りなげに闇から引き剥がした。
幾本もの水路が合流するこの場所は、分厚く堆積した汚泥によってその流れを完全に塞き止められている。依頼は単純。このヘドロを浚い、そこに巣食う害獣を根絶やしにすること。月光草の採取から数えて、これが二人の二度目の仕事だった。
「よし、景気付けだ! さっさと終わらせて、昼飯の串焼きと果実水にありつこうぜ!」
カイルがシャベルを肩に担ぎ、意気揚々と汚泥に足を踏み入れる。その背中を眺めながら、ルシアンは腰のギルド貸与品――安物のショートソードの柄にそっと手を置いた。害獣駆除。それが彼の役割だ。
その時。
キ、キィィィィ、と鼓膜を直接削るような甲高い音が、闇の深淵から響き渡った。一つではない。無数の鳴き声が不協和音となってうねり、空間を圧し潰さんと殺到してくる。松明の光が届かぬ漆黒の向こうで、数えきれないほどの赤い光点が、病んだ星々のように瞬き始めた。
ドブネズミの群れ。通常種より一回りは大きく、飢えと疫病に精神を侵され凶暴化した、この地下世界の忌まわしき主。
「うおっ、出やがった! ルシアン、頼む!」
粘つく汚泥に長靴を取られながら、カイルが叫ぶ。
ルシアンは無言で頷き、鞘から剣を引き抜いた。ひやりとした鉄の感触が、汗で湿る九歳の子供の掌にはあまりに重い。彼はゆっくりと息を吸い、押し寄せる赤点の波濤と対峙した。
汚水を跳ね上げ、黄色い牙を剥き出しにした獣の群れが、一斉に殺到する。
ルシアンは剣を構え、踏み込んだ。
だが、その動きはあまりに拙劣で、ぎこちなかった。
剣が、ただの鉄の塊としか思えない。頭の中で描く理想の剣閃とは裏腹に、振り下ろされた刃は鈍重な軌跡を描き、俊敏なネズミを捉えきれずに硬い石畳を打った。火花が散り、耳障りな金属音が虚しく響く。
(違う……! こうじゃない!)
焦りが胸を焼く。思考だけが、子供離れした成熟を持っているがゆえに、あまりに先行しすぎている。この幼く未発達な肉体は、彼の意思に絶望的なまでに追いつかない。筋肉は脆弱で、神経伝達はあまりに鈍い。思考と肉体の致命的な断絶が、彼の動きを滑稽な人形劇のように歪めていた。
一匹が、その隙を突いて足元に躍りかかる。
咄嗟に振るった剣は浅く、硬い毛皮の上を滑っただけだった。傷を負って逆上した獣が、さらに甲高い憎悪の叫びを上げて喉笛に食らいつこうとする。
「おい、ルシアン! しっかりしろ!」
カイルの悲鳴じみた声が、遠くに聞こえる。
まずい。このままでは殺される。こんな、冒険者ですらない子供でも容易く屠れるはずの、ただの獣に。
死ぬ。
その二文字が脳を灼いた瞬間、世界から一切の音が消え失せた。
時間の流れが、まるで粘度の高い液体の中のように引き伸ばされる。
眼前に迫るネズミの、牙の先に粘る唾液の糸の一本一本までが見える。飛び散る汚水の一粒一粒が、宙に縫い止められたかのように網膜に焼き付く。
そして、頭蓋の内側に、氷のように冷徹で無機質な「思考」が響き渡った。
それは声ではない。感情の介在を一切許さない、純粋な戦術的思考。紛れもなく、彼自身の思考だった。
――無駄が多い。
――剣を大振りしすぎだ。筋力で劣るなら、速度と精度で殺せ。
――踏み込みはあと指三本分、深く。体重を乗せるな。軸足の回転運動を、遠心力として刃先に収束させろ。
――狙うは急所のみ。眼球。頸動脈。それ以外への攻撃は時間の浪費と知れ。
焦燥も、恐怖も、急速に凍てついていく。
後に残ったのは、眼前の「標的」を、最も効率的に「処理」するための、研ぎ澄まされた殺意の最適解だけだった。
ルシアンの肉体が、その思考に導かれるように動く。
あれほど重かった剣が、まるで腕の延長のように馴染む。半歩踏み込むと同時に、体を独楽のように鋭く回転させた。手首の鞭のようなしなりを利かせた一閃が、水平に空間を薙ぐ。
それは、力任せに振り回すのとは次元が違う、洗練の極みにあった。
シュッ、と肉を断つ湿った音が、三つ、寸分の狂いなく同時に重なった。
ルシアンの眼前で、三匹のネズミが悲鳴を上げる間もなく絶命していた。首から鮮血を噴き上げ、痙攣しながら汚泥の中へと崩れ落ちる。
思考は止まらない。
――次。右後方、二匹。距離、三歩。
――左足で壁を蹴り、瞬時に距離を詰めろ。着地と同時に逆袈裟に斬り上げる。
――一匹目の顎を砕き、その勢いを殺さず、返す刃で二匹目の腹を裂け。
命令通りに、体が動く。
壁を蹴った反動で舞い、血飛沫を浴びながら、流れるような動作で二匹を同時に屠る。頬に付いた生温かい血の感触など、気にもならなかった。
それはもはや、戦闘ではなかった。
命を刈り取るという、単純極まる作業の反復。
一匹、また一匹と、ネズミの骸が積み上がっていく。
ルシアンの動きに、躊躇や迷いは一片もなかった。最短の動作、最小の力で、最大の殺傷力を生み出す。まるで、何万回と繰り返してきたかのような、手慣れた死の舞踏。
その瞳から、九歳の少年が宿すべき光は完全に消え失せていた。そこに映るのは、標的の弱点だけを映し出す、硝子玉のような無感情な光だけだ。
そして、最後の一匹が断末魔を上げた時、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
引き伸ばされていた時間の感覚が、凄まじいGと共に現実へと引き戻される。
耳に返ってきたのは、静寂に支配された下水道に響く、自分の荒い呼吸音と、肋骨を内側から激しく叩く心臓の鼓動だけだった。
ルシアンは、死骸の山の中で立ち尽くしていた。
松明の炎が、足元に転がる無数の骸を揺らめき照らす。腐臭に混じり、噎せ返るような血の匂いが鼻腔を刺した。
その手には、まだ温かい獣の血でぬらぬらと濡れた剣が握られている。
ぽた、ぽた、と切っ先から滴り落ちる赤黒い雫が、汚水に小さな波紋を描いては消えていく。
「……す、げぇ……」
呆然としたカイルの声が、沈黙を破った。シャベルを握りしめたまま、目の前で起きた殺戮が信じられないという顔でルシアンを見ている。
「なんだよ、今のは……お前、いつの間にそんな剣を……」
その言葉は、ルシアンの耳には届いていなかった。
彼は、自分の手を見つめていた。この小さな、まだあどけなさの残る手。この手が、たった今、十数匹の命を、何の感慨もなく、ただの作業として効率的に奪い去ったのだ。
(今のは、なんだ……?)
全身から、急速に血の気が引いていく。
あの冷徹な思考は、どこから来た?
あれは、本当に「俺」の思考だったのか?
もしそうなら、俺は一体、何なのだ。
ぞわり、と背筋に得体の知れない悪寒が走った。
自分の内側に、自分ではない「何か」がいる。
命を奪うことに、何の躊躇も、痛みも感じない、冷たい機械のような何かが。
その正体不明の存在が、今、確かにこの肉体を乗っ取って剣を振るったのだ。
「……おい、ルシアン? 大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
心配そうにカイルが駆け寄ってくる。
ルシアンは、カハッ、と喉の奥から空気が漏れる音を立てた。呼吸の仕方が、分からない。剣を握る手が、カタカタと小刻みに震え始める。
カシャン、と甲高い音を立てて、血塗れの剣が手から滑り落ちた。
手が、震えているのは誰なのか。
ルシアン・フォルトという少年の内側に眠っていた「何か」が、今、その瞼を開きました。
下水道の暗闇で彼が振るった剣は、生存への渇望か、それとも破壊への純粋な効率か。
その答えはまだ、汚泥の底に沈んだままです。
しかし、一度目覚めた怪物は、もう二度と眠ることはないでしょう。
彼が落とした剣の音が、静寂を切り裂く合図となります。
続く後編では、その「覚醒」がもたらす冷え切った現実と、もう一人の「欠落者」の孤独が交錯します。
どうぞ、その深淵の続きを覗き込んでください。




