EP-1-2:灰色の夢、紫水晶の痛み
軋む音は、骨の悲鳴に似ていた。
ルシアン・フォルトは、背を焼く板の硬さに意識を浮上させた。ここはもう、あの古びた孤児院の、仲間たちと身を寄せ合った寝床ではない。薄汚れた天井の染みが、無慈悲な現実を叩きつけてくる。窓枠の隙間から滑り込む朝の光は、部屋に舞う無数の塵を黄金の粒子に変え、新しい一日という名の刑の始まりを告げていた。九歳になったばかりの痩躯に、独立という名の鉛が重く食い込む。
覚醒の瀬戸際、魂に突き刺さった異物のような夢の残滓が、思考の表面で揺らめいていた。
――天を穿つ灰色の尖塔群。窓ひとつない無機質な壁が、どこまでも続く絶望の森。その壁に嵌め込まれた黒曜石の板の上で、無数の赤光が、心臓の鼓動のように規則正しく、それでいて狂気的に明滅を繰り返している。
理解を超えた光景。だが、その光景を知っている、という確信だけがあった。既視感という生易しいものではない。まるで、あの赤い点滅の一つ一つに、かつて自分が扱っていたはずの膨大な情報が圧縮されているかのような、異質な感覚だけが胸に残った。
「……行かなきゃ」
誰にともなく零れた声は、掠れて乾いていた。
昨日着たきりの粗末なシャツとズボンに、冷えた四肢を押し込む。寝台の脇に置かれた荷物が、彼の世界のすべてだった。
最初に手に取ったのは、鈍い光を放つ一枚のブリキ板。冒険者ギルドから与えられた身分証。
『ルシアン・フォルト / ランク:F(見習い)』
刻まれた文字は、奴隷の焼印にも似て、彼の価値を冷徹に定義していた。昨日、孤児院の院長から渡された最後のお守りである紹介状を握りしめ、震える足でギルドの扉を叩いた。受付の女性――ラインと名乗った――の事務的な優しさが、今は遠い。ここが彼の居場所であり、戦場だった。
次に、壁に立てかけた短い剣。これもまた、ギルドからの貸与品という名の枷。鞘から抜き放てば、現れた刀身は無数の傷に覆われ、切っ先は使い古されて丸まっていた。何人もの見習いの夢と絶望を吸い込み、吐き出してきた鉄の塊。未熟な腕にはあまりに酷なその重みが、生存の唯一の保証だった。ルシアンは剣を鞘に戻し、革帯で腰にきつく縛り付けた。
最後に、小さな革袋。孤児院から与えられた、なけなしの銅貨。指先で探れば、三十と少し。命の瀬戸際を告げる三十の音。寮の部屋代、最低限の食費。一枚でも無駄にすれば、その先にあるのは飢えと野垂れ死にだ。稼がなければ、明日はない。
「……よし」
覚悟を喉の奥に押し込み、ルシアンは立ち上がった。窓の外から、街が覚醒する音が流れ込んでくる。石畳を削る荷馬車の車輪、商人たちの怒声にも似た呼び声、遠くで響く鍛冶場の槌音。そのすべてが、世界が彼を待ってはくれないのだと急き立てていた。
理由のわからない喪失感。生まれた時に、魂の半分をどこかに置き忘れてきたような、根源的な欠落。だが、感傷は贅沢品だ。今日この瞬間から、彼は冒険者ルシアン・フォルトとして、この世界でたった一人、歯を食いしばって生きていく。
部屋の扉に手をかけ、ルシアンは一度だけ、深く息を吸った。
未知へ、戦場へ、そして、生きるために。
***
朝の静謐な光が、壁一面を埋め尽くす魔導書の背表紙を神々しく照らし出していた。インクと古羊皮紙の禁欲的な香りに満ちたその部屋は、九歳の貴族令嬢が住まうにはあまりに厳格で、まるで時を止めた賢者の書斎そのものだった。ミリア・レーンフェルは、机上の古代語文献から顔を上げた。窓の外では、学院の庭師が手入れする木々の葉が、風に囁き合っている。
その、瞬間だった。
何の予兆もなく、灼けつくような激痛が彼女の胸を貫いた。
「……っ!」
咄嗟に胸元を押さえるが、それは肉体の痛みではなかった。もっと深い、魂の核が断裂するような感覚。そして痛みと同時に、奔流のような感情が彼女の内側から溢れ出した。
――焦がれるほどの、郷愁。
なぜ? 何に?
ミリアは柳眉をひそめた。彼女の九年間の人生は、論理と知識で編まれた完璧なタペストリーだった。両親の顔さえおぼろげで、物心ついた時からこの学院という知性の城塞で、魔法理論と古代史だけを友としてきた。愛情や郷愁といった不確かな感情は、書物の中の記号としてしか知らない。
だが、今この胸を締め付けているのは、記号ではない。紛れもない、原初の情動そのものだった。
まるで、永劫の昔に分かたれた半身が、世界のどこかで自分を呼んでいるような。会ったこともないはずの誰かを、心の奥底から、どうしようもなく愛おしいと感じているような。
矛盾した感覚の奔流に、ミリアの整然とした思考が崩壊していく。この感情は何だ? この痛みの正体は? どの魔導書にも、どの歴史書にも、この現象を説明する記述は存在しない。
「……理解、不能」
呟きは、静寂に虚しく吸い込まれた。彼女はふらつく足取りで窓辺に寄り、ガラスに映る自分の姿を見る。いつもと変わらぬ、人形のように整った顔。銀糸の髪、感情の機微を映さぬ紫水晶の瞳。だが、その瞳の奥で、今まで知らなかった何かが、確かに亀裂を生んでいた。
失われた何かを取り戻さなければならないという、静かだが抗いがたい衝動。
それは飢えや渇きといった本能的な欲求とは次元が違う、魂そのものの渇望だった。
ミリアは、窓の外に広がる王都の街並みを、ただ茫然と見つめていた。この世界のどこかにいる、名も顔も知らぬ「誰か」。その存在を、彼女の魂が確かに感知している。
その感覚は、耐え難いほどの痛みでありながら、救いのように温かく、そして――ひどく、満たされない、寂しさだけがあった。
***
軋む樫の重い扉を押し開けると、むわりとした熱気がルシアンの顔を殴りつけた。エールと汗、そして微かな血の匂いが混じり合った獣の呼気。朝とは思えぬ喧騒と混沌の渦が、幼い侵入者を飲み込もうとしていた。屈強な冒険者たちの野太い笑い声、武具が擦れ合う無神経な金属音、床に叩きつけられる杯の音。孤児院の静寂とは隔絶された、生命力が剥き出しでぶつかり合う空間。
ここが、今日から彼の生きる場所だ。
ルシアンは、巨木のような冒険者たちの脚の間を、物陰に潜む小動物のようにすり抜けていく。九歳の彼の頭は、周囲の大人たちの腰にも届かない。誰もが自分の欲望と明日の稼ぎに夢中で、足元をうろつく小さな影に気づきはしない。無関心は、ここでは生存のための盾となる。
カウンターの向こうでは、受付嬢のラインが忙しなく手を動かしていた。依頼の受付、報酬の支払い、報告書の処理。彼女の笑顔は、殺伐としたこの場所で唯一、秩序を体現しているかのようだったが、その前には長い行列ができている。彼女の時間を奪うことは、この世界のルール違反だ。
目的の場所はすぐに見つかった。壁の一角に設けられた依頼掲示板。ランクごとに分けられたコルクボードに、羊皮紙の依頼票が墓標のように隙間なく突き立てられている。ルシアンは迷わず、自身の階級を示す『F』の文字が刻まれた、一番下の掲示板へと歩み寄った。
「さて……」
***
インクの滲んだ羊皮紙に顔を寄せ、ルシアンは覚えたての拙い文字を必死で拾っていく。一つ単語を解読するごとに、息が詰まるような集中を要した。背伸びで軋む背骨の痛みも、周囲の冒険者たちの喧騒も、今は意識の外にある。
『依頼:下水道の巨大ネズミ討伐。報酬:銅貨五十枚。条件:毒耐性のある者推奨』
――澱んだ水路の悪臭と、闇に光る無数の赤い目が脳裏をよぎり、即座に候補から外す。
『依頼:街の猫探し。報酬:銅貨十枚。依頼主:マチルダ夫人』
――子供の使い走りにも等しい。これでは明日のパンすら買えるかどうか。
『依頼:ゴブリン斥候一体の討伐。場所:東の森。報酬:銀貨一枚』
その四文字が、飢えた瞳に焼き付いた。銀貨一枚。銅貨百枚の価値。ギルドの寮費、数日分の黒パンと塩漬け肉。それでも、余る。一瞬、心臓が大きく跳ね、乾いた喉が鳴った。だが、次の瞬間には氷水を浴びせられたように思考が冷える。ゴブリン。最下級とはいえ、人を殺すことに何の躊躇いもない魔物。斥候ならば尚更、俊敏で、狡猾で、闇に紛れて子供の喉笛を掻き切ることを厭わないだろう。無謀は死だ。そして死は、すべての終わりを意味する。
生き汚く、生き延びる。それが、この世界で彼が己に課した唯一つの掟だった。
理由の分からぬ記憶の残滓――灰色の塔が林立する世界で、自分はただ座り、指先だけを動かしていた、という奇妙な確信だけが、彼の肉体を縛り付けていた。あの頃の自分は、絶望的なまでに無力だった。その感覚が、無謀な賭けを許さない。
掲示板の隅へ、さらに視線を滑らせる。そして、見つけた。
『依頼:月光草の採集。場所:ギルド指定薬草園。数量:籠いっぱい。報酬:銅貨六十枚』
月光草。夜の帳が下りると、月光を吸ったように青白い光を放つ薬草。ポーションの触媒となる。ギルドが管理する薬草園ならば、魔物との遭遇率は限りなく低い。報酬はゴブリン討伐の三分の一にも満たないが、確実な実入りだ。今日の夕食と、明日のための僅かな希望。今の自分には、これ以上望むべくもない。
ルシアンは決意を固め、依頼票を留めている古びた鋲に指をかけた。冷たい鉄の感触。この一枚の紙片が、彼の始まりになる。
鋲を引き抜き、依頼票を掴み取った、まさにその刹那。
「あ、それ! 俺が狙ってたやつだ!」
すぐ背後から、自分とさして変わらない高さの視線から、声が弾けた。
驚きに心臓が跳ね、反射的に振り返る。そこに立っていたのは、赤茶けた癖っ毛に、顔中に散ったそばかすが印象的な少年だった。歳は自分と同じか、一つ上か。何よりも目を引くのは、好奇心の光で満たされた、大きく快活な瞳だった。
「……悪い。俺が先だ」
警戒心を声に滲ませ、ルシアンは短く応じる。依頼は早い者勝ち。この世界の鉄則だ。奪われるわけにはいかない。
ルシアンが依頼票を強く握りしめるのを見て、少年は悪びれもせず、にかっと太陽のように笑った。
「だよな! ちくしょう、タッチの差かよ! お前、名前は? 俺はカイル」
「……ルシアン」
「ルシアンか! よろしくな! もしかして、お前も今日が初仕事?」
矢継ぎ早に放たれる言葉の礫に、ルシアンは戸惑いを隠せない。孤児院では、誰もが他人の領域に踏み込むことを避けていた。生きることに必死で、他者に関わる余裕も、その意思さえも削ぎ落とされていたからだ。
「……ああ」
「やっぱそうか! 俺もなんだよ。昨日登録したばっかでさ。親方から薬草採集が一番安全だって聞いて来たんだけどな……」
カイルは心底残念そうに、空になった掲示板の一角を見上げた。
「他にマシなのが残ってねえ。ネズミは臭そうだし、猫探しなんてやってられるかよ」
その時、何か閃いたようにカイルの顔が輝き、真っ直ぐにルシアンを見据えた。
「なあ、ルシアン!」
「……なんだ」
「その依頼、一緒にやらねえか?」
思考の範疇を超えた提案に、ルシアンは思わず目を見張った。
「一緒に?」
「おう! 報酬は山分けになるが、二人でやれば倍の速さだ。それに、薬草園っつっても何が起こるか分かんねえだろ? 一人より二人。絶対安全だって!」
カイルの言葉は、単純だが揺るぎない説得力を持っていた。安全な場所にこそ、油断という名の魔物が潜む。リスクを減らせるなら、報酬が半分――銅貨十五枚になっても悪くない。それだけあれば、硬いパンと薄いスープの食事を二日は凌げる。
何より、とルシアンは思う。このカイルという少年から、不思議なほど悪意や計算が感じられない。ただ、曇りのない好意だけが、その瞳から真っ直ぐに届いていた。
孤独は覚悟の上だ。だが、孤立は違う。利用できるものは利用し、協力できる相手とは協力する。それこそが生存戦略。
ほんの僅かな逡巡。胸の奥深く、あの喪失感がちりりと疼いた。魂のどこかが、他者との繋がりを渇望しているかのような、微かな痛み。だが、感傷はすぐに意志の力で捻じ伏せる。
「……いいだろう。組む」
ルシアンが頷くと、カイルの顔が破顔した。
「マジか! よっしゃあ! これで俺たちもパーティだな!」
「大げさだ」
「いーんだよ、形から入るのが大事なんだ! ほら、受付行くぞ。さっさと受理してもらわねえと」
そう言うと、カイルはルシアンの背中を気安くぽんと叩いた。不意の接触に肩が揺れる。だが、ルシアンは何も言わず、ただ小さく頷いた。
初めての依頼。そして、初めての仲間。
二人の少年は、喧騒の中を並んで歩き出す。まだ閑散としている受付カウンターを目指して。
---
***
受付の女性は手慣れた様子で二人のギルド証を受け取り、依頼書に『受理』の印を無愛想に押し付けた。手続きはそれで終わり。この依頼が完了するまでの、仮初めのパーティが成立した瞬間だった。
「よし、行こうぜ、ルシアン!」
カイルがギルドの重い樫の扉を押し開けると、外の世界の光と音が洪水となって流れ込んできた。彼の背を追い、一歩外へ踏み出す。眩い陽光と街の喧騒が、奔流となってルシアンを打ちのめした。石畳を駆ける荷馬車の車輪がけたたましい音を立て、露店の商人たちのダミ声が空気を震わせる。薄暗く、汗と安いエールの匂いが染みついたギルド内部とは、なにもかもが違っていた。
「薬草園は『始まりの森~薬草園地区~』って場所だ。西門から街道を半刻も歩けば着く。地図によると、な」
カイルは依頼書の余白に描かれた粗末な地図を一度だけ確認すると、もう迷いはないとばかりに歩き出した。ルシアンは黙ってその後に続く。
街の目抜き通りは、生命の活気で満ち溢れていた。パン屋の石窯から漏れ出す焼きたての小麦の香り。鍛冶場から響く、規則正しくも力強い鉄を打つ音。井戸端で交わされる、女たちの甲高い笑い声。そのすべてが、ルシアンの五感を鋭く刺激する。孤児院の灰色の日々には存在しなかった、生命の色と音だった。街に出ることはあっても、それは使い走りか、施しを乞うための卑屈な行いでしかなかったのだから。
やがて二人は巨大な西門をくぐる。城壁の内と外とでは、空気の匂いすら違っていた。人の往来はまばらになり、代わりに道の両脇には、風にそよぐ広大な麦畑がどこまでも続いていた。
***
「なあ、ルシアン」
街道の砂利を踏む音に混じり、隣を歩くカイルが屈託のない声を投げかける。
「お前、どこから来たんだ?」
「……フォルティアだ」
「へえ、奇遇だな! 俺もだ。どこの区だ? 俺は職人区の生まれで、親父が鍛冶屋なんだ」
「…………」
ルシアンの脳裏に、孤児院があった区画の光景が過る。汚泥の臭い、ぬかるんだ路地、淀んだ空気。貧民区、という言葉を口にすること自体が、何かを削り取られるような感覚を伴った。答えに詰まるルシアンを、しかしカイルは気にも留めない。
「まあ、いいか! それより、なんで冒険者になろうと思ったんだ? 金か? 名声か?」
「……生きるためだ」
あまりに削ぎ落とされた答えに、カイルは一瞬、目を丸くした。だが、すぐに太陽のような笑顔で力強く頷く。
「だよな! 結局はそこだ! 俺も同じさ。親父の稼ぎだけじゃ、妹たちに腹いっぱい食わせてやれねえ。冒険者で一発当てて、家族みんなででっかい家に住むんだ!」
固く握られた拳。未来の栄光だけを映す、真っ直ぐな瞳。その横顔から放たれる希望という光は、影の中で生きてきたルシアンには、目を焼くほどに眩しかった。
どれほど歩いただろうか。舗装されているとはいえ、果てなく続く緩やかな登り坂が、容赦なく体力を奪っていく。ルシアンの足が鉛を呑んだように重くなり、呼吸が喉に絡みついた。額から噴き出した汗が、顎を伝ってぽたぽたと落ちる。
(なぜだ……? なぜ、ただ歩くだけで、これほどまでに消耗する……?)
肺が灼けるような苦しさの中で、彼は自問した。孤児院での日々は、水汲みや掃除、下の子供たちの世話と、労働の連続だった。だが、それはあくまで囲われた敷地の中でのこと。一つの目的地を目指し、大地を踏みしめて歩き続けるという行為は、記憶のどこを探っても馴染みがなかった。
奇妙な違和感が、肉体の芯を蝕んでいた。この身体は九年の歳月を生きているはず。なのに、まるで生まれたての赤子のように、長距離歩行という単純な運動を知らない。疲労した脳が、不意にノイズの混じった映像を幻視する。
――灰色の塔、塔、塔。等間隔で明滅する、冷たい赤色光。大地を踏むという感覚が、致命的に欠落した無機質な光景。
「おい、ルシアン? 大丈夫かよ、顔真っ青だぞ」
いつの間にか立ち止まっていたルシアンを、カイルが心配そうに覗き込んでいた。
「……なんでもない」
「なんでもないって顔じゃねえよ。ほら、水だ」
差し出されたのは、使い込まれて艶の出た革の水筒。差し出された施しを、無警戒に受け取ることへの躊躇いが、ルシアンの指をこわばらせる。だが、喉の渇きという本能には抗えなかった。
「……すまない」
受け取った水筒を傾け、生温い水を喉に流し込む。乾ききった身体の細胞一つ一つに染み渡っていく感覚が、わずかに意識を覚醒させた。
「気にすんな。借り物のパーティでも、仲間は仲間だろ?」
カイルはにかっと笑い、ルシアンから水筒を受け取って自らの口を潤した。その気安さが、ルシアンの世界の法則を静かに乱していく。
***
そこからさらに半刻ほど歩き、ようやく森の輪郭が見えてきた。風雨に晒され、文字の掠れた立て札には『始まりの森 ~薬草園地区~』とある。その名の通り、新米冒険者の最初の試練にふさわしい、穏やかな気配を纏った森だった。木々の葉を透かした光が、翠の斑模様を地面に描き、森の胎内は外界の喧騒を遮断する聖域めいた静けさに満ちていた。
「よし、着いたな! やるぜ!」
すっかり息を吹き返したカイルが、腕をまくって気合を入れる。周囲には同じ依頼書を握りしめたであろう若者たちの姿がちらほらと見え、誰もが緊張と期待の入り混じった表情をしていた。
森へ一歩踏み入れると、ひやりとした大気が肌を撫でた。土と腐葉土の濃密な匂い。鳥のさえずり。危険な魔物の気配は、今のところ感じられない。
「ええと、依頼の『リフレ草』は……青みがかった緑の葉、縁がギザギザ……これか」
カイルが依頼書の図解と地面を見比べ、すぐに目当ての薬草を見つけ出す。
「あった! これだろ!」
指さす先には、図解通りの特徴を持つ草が数本、健気に群生していた。
「よし、手分けして探すぞ。日が傾く前に三十本、集めちまおう」
「……ああ」
ルシアンも頷き、腰の革袋を確かめて屈み込む。リフレ草はありふれているらしく、注意深く探せばあちこちに見つかった。根を傷つけぬよう、指先で慎重に土を掻き分け、一本、また一本と引き抜いていく。ひたすらに地道で、思考を麻痺させるような作業だった。
やがて、蔓植物が密集する開けた場所に出た。目的の薬草が、その蔓の下に隠れるように生えている。
「ちっ、こいつが邪魔くせえな」
カイルは舌打ちすると、背負っていたロングソードを抜き放った。ルシアンが借りた物より一回り大きく、厚みもある。使い古されてはいるが、刃は鋭く研ぎ澄まされ、陽光を鈍く反射していた。
「親父のお下がりだ。手入れだけは毎日欠かさねえ」
誇らしげに呟き、カイルは剣を振るう。風を切る音と共に、邪魔な蔓が一息に両断された。乾いた切断音が心地よく響く。
それを見て、ルシアンも腰のショートソードに手を伸ばした。ギルドから貸与された、飾り気のない量産品の鉄塊。柄の革は擦り切れ、鞘は無数の傷で覆われている。誰かの手垢に汚れた、ただの道具だ。
抜き放ち、カイルの動きを拙く模倣して蔓に斬りかかる。
ガッ、という鈍い手応え。刃が蔓の繊維に食い込み、途中で止まる。鈍い衝撃が手首を打ち、腕まで痺れた。
「っ……!」
想定外の抵抗に体勢が崩れる。腕力任せに振り回したせいで、刃に力がまったく伝わっていない。何度か無様に剣を振るい、ようやく一本を断ち切ったが、その断面はささくれ立ち、カイルの仕事とは比べるべくもなかった。
「ははっ、ルシアン、剣は初めてか?」
カイルが悪気なく笑う。
「……見ての通りだ」
「だよな。焦んなって、最初はそんなもんさ。貸してみろ」
自分の剣を鞘に戻し、カイルはルシアンの隣に立つ。
「剣ってのはな、腕力じゃねえ。こう、腰を捻るんだ。剣の重さを、身体全体に乗せてやる感じでな」
手本を示すように、カイルが滑らかに素振りをする。その動きには一切の滞りがなく、剣がまるで身体の一部であるかのようだった。
「親父に散々叩き込まれたんだ。まあ、俺もまだまだだけどな」
道具を、武器を、正しく扱うための知識と身体。それもまた、この世界で生き抜くための技術。孤児院では、誰も教えてくれなかったことだ。
「……やってみる」
カイルの言葉を反芻し、足の位置を定め、腰の回転を意識して剣を振るう。先ほどよりは幾分、刃がスムーズに走った。
「おう、今のは悪くねえぞ! その調子だ!」
励ますように、カイルが背中を叩く。その単純な賞賛と、手のひらの温もりが、今はなぜか、強張っていたルシアンの心をわずかに解かした。
***
***
絡みつく蔦を鉈で断ち、湿った腐葉土の匂いと共に顔を覗かせたリフレ草を、これで十数本。目標の半分に届こうかというところで、二人は苔むした切り株に腰を下ろした。
「ふう……見かけによらず、骨が折れる」
カイルが額の汗を革の手甲で拭う。
「お前、よく平気な顔してられんな。俺はもう腕が棒だぜ」
「……慣れてるだけだ」
ルシアンは短く応じた。嘘だった。腕も脚も、まるで鉛を詰め込まれたかのように重い。だが、ここで弱音を吐くのは、己の脆弱さを認めてしまうことと同義に思えた。
「そっか。やっぱ、森で育った奴は違うな」
カイルはそう言うと、腰に差したロングソードの柄を、まるで恋人を慈しむかのように撫でた。
「こいつで、いつかドラゴンを屠るのが夢なんだ。……馬鹿げてるって、笑うだろ?」
「……馬鹿げている」
躊躇なく事実を告げると、カイルは「だよな!」と歯を見せて笑った。その屈託のなさが、ルシアンには眩しく映る。
「でもな、夢はでかい方がいいだろ? そうすりゃ毎日が楽しくなる。今日こうやって薬草採ってんのも、そのための第一歩だと思えば、なんだか力が湧いてくるんだ」
その底抜けの明るさを前に、ルシアンは返す言葉を見失った。ただ、胸の奥で常に疼いていた空虚な喪失感が、ほんの僅か、和らいでいることに気づく。独りが当たり前だった。誰かと目的を共有するなど、考えたことすらなかった。だが、隣で響く他人の笑い声が、これほどまでに心を落ち着かせるものだとは知らなかった。
奇妙な安堵。それは、長く凍てついていた何かが、陽光に触れて融け出す瞬間に似ていた。
「……行くぞ」
感傷を振り払うように、ルシアンは唐突に立ち上がった。今は依頼をこなす。それだけだ。
「お、おう。そうだな! ドラゴン退治の第一歩、まずは薬草採集からだ!」
カイルも威勢よく立ち上がり、腰の剣をぱん、と軽く叩く。その単純さが、今は少しだけ羨ましかった。
森の奥へ分け入ること半刻。木漏れ日が斑模様を描く、少し開けた場所でルシアンの足が止まった。他の植物とは一線を画す、青みを帯びた銀色の葉。それが、苔むした岩の陰にひっそりと群生していた。葉の縁は絹のように滑らかで、宿した朝露が宝石のように煌めいている。
「……これか」
依頼書に描かれた拙いスケッチと、目の前の植物を照らし合わせる。特徴は完全に一致していた。
「おい、本当だ! 月光草じゃねえか! やるな、ルシアン!」
駆け寄ってきたカイルが、発見者のように声を弾ませる。
「夜に淡く光るから月光草。昼間はまず見つからねえってのに、お前、目敏いな」
「……たまたまだ」
ルシアンは素っ気なく答え、その場に屈み込むと、根を傷つけぬよう慎重に月光草を摘み始めた。これで依頼は達成だ。カイルも隣に並び、二人はしばし無言で作業に没頭した。
最後の数本を摘み取ろうと、ルシアンが岩の根元、湿った土に指を伸ばした、その時だった。
指先が、冷たく、滑らかな何かに触れた。
土に半ば埋もれた、掌に収まるほどの黒い石。森に無数に転がる石ころの一つ。そう見えるはずなのに、何故か視線が縫い付けられる。彼は土を払い、その石をそっと掘り出した。
表面は驚くほどに平滑で、まるで悠久の時をかけて水に磨かれたかのようだ。だが、目を凝らせば、そこに自然界の法則を無視した微細な溝が、複雑な幾何学模様を描いて走っているのが分かった。
ルシアンがそれを拾い上げた、瞬間。
——トン。
胸の奥深く。凍てついた湖の底で何かが微かに身じろぎするような、異質な脈動があった。心臓が一度だけ、大きく、不自然に跳ねる。痛みではない。内側から誰かに指で突かれたような、冷たい衝撃。呼吸が、一瞬だけ止まった。
「……っ」
声にならない呻きが漏れ、彼は石を握ったまま、もう片方の手で自らの胸を押さえた。ドクン、ドクンと、今度は警鐘のように速くなった鼓動が、掌に直接伝わってくる。なんだ、これは。
「どうした、ルシアン? 顔色が紙みたいだぞ」
隣のカイルが、異変を察して顔を上げた。その声が、水中にいるかのように遠い。ルシアンの意識は、手の中の石と、胸の奥で鳴り響く奇妙な共鳴に囚われていた。
「……いや、なんでもない」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。カイルは訝しげな視線を送ったが、ルシアンがすぐに立ち上がったのを見て、「そうか? 無理はすんなよ」とだけ言った。
ルシアンはカイルに背を向けるようにして、その黒い石を衝動的に革ズボンのポケットへと滑り込ませた。何故そうしたのか、自分でも分からなかった。ただ、これを手放してはならない、誰にも見せてはならないと、魂の奥深くで何かが叫んでいた。ポケットの中で、石の冷たさが太腿の熱を奪っていく。だが、胸の奥で生まれた熱だけは、燻るように消えなかった。
「よし、これで全部だな! 依頼達成だ!」
カイルが薬草で膨れた革袋を高々と掲げる。その快活な声で、ルシアンはようやく現実へと意識を引き戻された。
「……ああ」
「やっぱ二人だと早いな! 一人だったら日が暮れてたぜ。お前、意外と役に立つじゃんか」
軽口を叩きながら、カイルがルシアンの肩を力任せに叩く。その衝撃に、体が少しぐらついた。
「……お前が騒がしいだけだ」
「なんだと!?」
憎まれ口を叩きながらも、ルシアンの意識はポケットの中の石に向いていた。あの共鳴は、一体何だったのか。そして、この胸の奥で疼く感覚は。それは、今まで感じていた漠然とした喪失感とは、明らかに質が違っていた。失われた過去を嘆く虚無ではない。これから始まる何かを予感させる、静かな、しかし確かな胎動だった。
「さあ、ギルドに戻って報告だ! 報酬は山分けだからな!」
カイルが先頭に立ち、来た道を引き返し始める。その背中を追いながら、ルシアンはそっとポケットに手を入れた。指先が、滑らかな石の表面をなぞる。そこに刻まれた微かな溝は、古代の文字か、あるいは未知の地図のようにも思えた。
始まりの森の木々の隙間から、傾き始めた陽光が黄金の槍となって差し込んでいる。鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけが響く静寂の中を、二人の少年が歩いていく。一人は初めての依頼達成に心を弾ませ、もう一人は、誰にも言えぬ秘密と、胸に宿った新たな謎の重みを確かめながら。
この小さな黒い石が、彼の、そして世界の運命を揺るがす最初の楔となることを、今はまだ、彼自身も予想だにしていなかった。
***
***
森を抜ける。木々の黒い影が途切れた瞬間、臓腑を抉るような茜色の夕陽が、丘の下に横たわる街の骸を炙り出していた。フォルティア。赤煉瓦の屋根は乾いた血のように連なり、家々の窓には死者の魂にも似た灯りがぽつり、ぽつりと灯り始める。低い石壁に囲われたその中心、ひときわ大きく聳える三角屋根の建物こそが、彼らの目的地――**冒険者ギルド・フォルティア支部**だった。
「見ろよルシアン、ギルドだ! もう腹ペコだぜ。とっとと報告済ませて、併設の『黄昏の酒杯』で祝杯だ!」
カイルの声が弾んでいた。森での緊張から解放されたその足取りは、獣のように軽い。初めての依頼達成という熱が、彼の疲労を焼き尽くしている。
「……ああ」
ルシアンは短く応え、無意識にズボンのポケットを探った。指先が、ひやりと滑らかな石の肌に触れる。森を出てなお、胸の奥で燻る微かな熱は消えない。まるで心臓と共鳴する異物。それは彼の血肉の一部であるかのように、その存在を執拗に主張し続けていた。
ギルドの石段には、仕事を終えた者たちが煙草を燻らせていた。血の染み付いた鎧の戦士、闇色の外套を纏った斥候、瞳の奥に魔力の残滓を揺らめかせる魔術師。彼らが吐き出す呼気は、鉄と汗と倦怠の匂いがした。ルシアンはその空気に肌を焼かれ、思わず足を止めかける。だがカイルは意にも介さず、分厚い樫の扉を戦斧でも振るうかのように押し開けた。
途端、音と熱と匂いの奔流が二人を殴りつけた。
「ただいま戻ったぜ!」
カイルの快活な声は、怒号と笑い声、エールが満たされたジョッキがぶつかり合う音の渦に、一瞬で掻き消される。むせ返るような酒と脂の焼ける匂い、そして人いきれの熱気。夕食時でごった返す酒場は、欲望の坩堝そのものだった。ルシアンは眉根を寄せ、その混沌から逃れるようにカイルの背中を追ってカウンターへ向かった。
カウンターの向こうで、受付嬢のラインが山積みの羊皮紙を捌いていた。栗色の髪をひとつに束ねた彼女は、カイルの姿を認めると、その喧騒の中にあって奇跡のような静かな笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、カイルさん。そして……ルシアンさん。ご無事で何よりです。依頼の首尾は?」
「おう、見ての通りさ!」
カイルは誇らしげに革袋をカウンターに叩きつける。ドン、と鈍い音が響き、薬草の青い香りが微かに漂った。
ラインは微笑を崩さぬまま、手慣れた仕草で袋の中身を検分する。
「月光草……ええ、量、質ともに申し分ありません。依頼達成、おめでとうございます」
彼女はそう言うと、白く細い手を差し出した。「ギルドカードを」
カイルに続き、ルシアンも懐から真新しい木製のカードを取り出す。刻まれた名は『ルシアン・フォルト』。その下には、最下級を示す『F』の烙印。ラインはカードを受け取ると、カウンターの下から古びたスタンプを取り、依頼達成欄に力強く押し付けた。
ガチャン、と鉄の塊が木を打つ無骨な音。
「はい、どうぞ」
返されたカードには、ギルドの紋章――酒杯の印が、黒いインクでくっきりと刻まれていた。冒険者としての、これが最初の一歩。ルシアンは指先でその小さな印をなぞる。感慨と呼ぶにはあまりに無機質で、だが、何かが決定的に始まってしまったという確かな手応えがあった。
「そして、こちらが報酬です」
ラインが置いた二つの革袋が、チャリン、と乾いた音を立てた。
「お二人、報酬は均等割りで三十枚ずつ。ご確認ください」
カイルがひったくるように袋を掴む。ルシアンもそれに倣った。ずしりとした重み。それは孤児院で施されるパンやスープの重さとは全く違う、自らの危険と引き換えに掴み取った、冷たい現実の重さだった。彼は硬貨の詰まった袋を、祈るように強く握りしめた。
「へへっ、やったな! これで新しいダガーが買えるぜ!」
カイルの無邪気な声に、ルシアンは思考の淵から引き戻される。
「お疲れ様でした。次の依頼も期待しています」
ラインの営業用の声に、カイルは「任せとけ!」と胸を叩いてみせた。
受付を離れ、再びホールの喧騒に身を浸す。
「で、どうする? 何か腹に入れないか? 銅貨三枚までならおごってやるぜ!」
カイルが数えたての銅貨を揺らしながら言った。
「……いらない。部屋に戻る」
「ちぇっ、付き合いの悪いこった。まあいい」肩をすくめたカイルは、ふと思い出したようにルシアンの顔を覗き込んだ。「そういやお前、森で急に黙り込んだろ。顔、真っ青だったぜ。どうかしたのか?」
その言葉に、ルシアンの心臓が喉の奥で凍りついた。ポケットの中の石が、彼の嘘を咎めるようにじくりと熱を帯びる。
「……少し、疲れただけだ」
か細い声が、自分でも驚くほど弱々しく響いた。
「ふーん? まあ、初陣にしちゃ上出来だ。薬草を見つけるのも早かったしな。また組んでやってもいいぜ」
ぶっきらぼうな口調に滲む、不器用な賞賛。
「……頼んでない」
「んだと、この可愛げのねえ奴!」
カイルは笑ってルシアンの頭を乱暴にかき混ぜると、「じゃあな! 俺は酒場で武勇伝でも語ってくるわ!」と叫び、人の波に溶けていった。
一人、取り残される。陽気な笑い声も、ジョッキを打ち鳴らす音も、まるで分厚いガラスを隔てた向こう側のように遠い。この熱狂の中で、誰一人として彼の存在など気にも留めていない。その絶対的な孤独が、今は奇妙な安堵と、胸を締め付けるほどの寂寥感をもたらしていた。
ルシアンは再びポケットに手を入れる。石は彼の体温を吸い、微かに温もりを宿していた。
これは、自分だけの秘密だ。
喧騒を背に、ギルドの奥にある階段を上る。二階と三階は、冒険者たちのための寮だった。軋む床板の一歩一歩が、彼を現実から引き剥がしていく。一番奥の、自分の部屋。古びた扉に鍵を差し込み、中へ滑り込むと、世界から切り離されたような静寂が彼を包んだ。
バタン、と扉を閉める。ホールの狂騒が嘘のように遠ざかった。
部屋は独房のように狭く、簡素だった。硬いベッド、小さな机と椅子が一つ。窓の外は夜の闇に沈み、痩せた月が投げかける光が、埃の舞う床を淡く照らしている。それがこの部屋の全て。
だが、ここがルシアンにとって、生まれて初めて手に入れた自分だけの聖域だった。
***
オイルランプの芯を爪先で整え、火打石を打つ。硬質な火花が散り、じわりと芯に炎が灯った。琥珀色の光がちろりと揺れ、息を殺していた部屋の闇を壁際へと追いやる。ルシアンはようやく安堵の息を吐き、汗で張り付いたポケットから、慎重に例の黒い石を取り出した。
ランプの震える光に翳す。森の木漏れ日の中で見たときよりも、その表面を走る紋様は遥かに禍々しく、そして精緻だった。雷光をそのまま封じ込めたかのような、あるいは深淵を覗き込む者の精神を模したかのような、無数の線がフラクタルの迷宮を形成している。人の手による彫刻にしてはあまりに複雑で、自然の造形にしてはあまりに意図的だった。
指先で、その溝をなぞる。吸い付くように滑らかな感触。森で拾い上げた瞬間の、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が蘇る。ドクン、と、あの時と同じ魂に響く残響が、胸の奥で一度だけ鳴った。
あの感覚は、幻ではなかった。
この石が内包する何かが、自分を呼んだのだ。それは疑いようのない、確信に満ちた予感だった。
ルシアンは石を机に置き、今度は報酬の革袋を掴んだ。逆さにすると、硬質で無慈悲な音が響き、三十枚の銅貨がランプの光を鈍く反射しながら転がり出た。彼はそれを一枚ずつ、祈るように数え始める。一枚、二枚、三枚……。
十にも満たぬ少年が、己の力のみで稼いだ三十枚の銅貨。それはパンであり、寝床であり、この過酷な世界で明日を迎えるための、ささやかだが絶対的な権利そのものだった。
胸の奥に澱のように溜まる、漠然とした喪失感。自分という存在から、何か決定的なものがごっそりと抜け落ちているという感覚。それは今も消えない。だが、今日、彼は二つのものを手に入れた。一つは、血の滲む労働で勝ち取った未来への糧。
そして、もう一つは――。
彼の視線が、銅貨の山の傍らに鎮座する黒い石へと吸い寄せられる。
――失われた自分を解き明かす、最初の鍵となるかもしれない、謎の欠片。
ルシアンは銅貨を再び袋にしまい、黒い石を握りしめた。ひんやりとした感触が、熱を持った思考をわずかに冷ましてくれる。
自分の足で立つと決めた。ならば、進むしかない。
彼は石を握ったまま、軋むベッドに身体を投げ出した。慣れない労働で酷使した全身が、鉛のように重い。服を脱ぐ気力もなく、そのまま目を閉じる。
意識が闇に溶ける寸前、彼はまた、あの夢を見ていた。
灰色の墓標のように林立する、無機質な塔の世界。空はなく、鉛色の天蓋がどこまでも続いている。その中で、自分はひたすら何かを打ち続けていた。指が裂け、血が滲む感覚だけがやけに生々しい。
視界の端で、神経を苛むように赤い警告灯が明滅する。耳慣れない甲高いノイズ。そして、窓の外を、鉄の獣が轟音と共に大地を揺るがして走り去っていく。
それが何なのか、彼には分からない。だが、ひどく懐かしくて、そしてどうしようもなく息が詰まる光景だった。
この喪失感は、この忌まわしい夢と繋がっているのか。
答えを見つける前に、彼の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。
***
死んだような静寂が、学院の尖塔を支配していた。
骸のような月光だけが高い窓から滑り込み、磨き上げられた床に冷たい幾何学模様を描いている。無数の書架に囲まれたその部屋は、聖域であり、同時に檻でもあった。
その中央、月明かりの牢獄に、ミリア・レーンフェルは一人佇んでいた。
彼女の前に置かれた銀の水盤が、静止した水面で月を映し込んでいる。彼女はその縁に白魚のような指を滑らせ、懐から取り出した「青い魔石」を、そっと水底へと沈めた。
チャプン、と。静寂を破る唯一の音が、厳かな室内に響いた。
「……ウルティ……イクシ……ロトゥ……」
古語の祝詞が、彼女の唇から紡がれる。一音一音が世界の法則を解きほぐす鍵となり、注がれた魔力に呼応して水面が微かに震え始めた。
水に映る月が歪み、光の粒子が乱舞して像を結ぶ。
そこに映し出されたのは、どこかの粗末な一室。硬いベッドで眠る少年の、無防備な横顔だった。
今日一日、彼女の意識を捉えて離さなかった存在。
「……眠って……いる」
ミリアは彼を見つめながら、無意識に自分の胸元を強く掴んだ。
夜になり、世界の雑音が消え失せたせいか。昼間とは比較にならないほど強く、鮮明な「侵食」が彼女を襲っていた。
ドクン、ドクン、と。
彼女自身の心臓とは異なる、異質な脈動が、彼の方から伝わってくる。まるで、自分の胸にもう一つの心臓が宿ったかのように。
「……これは……何?」
ミリアは苦痛に眉を顰めた。
これまでの観測ではありえなかった、魂の深い部分に触れるような異様な「重み」。彼が森で拾った「黒い石」。あれが忌まわしい共鳴器となり、彼と彼女の魂の経路を強制的に、そして暴力的に繋げてしまっている。
本来、遠隔視の魔法越しにこれほどの干渉はありえない。だが今の彼女には、彼が枕元に置いた石の冷たささえ、幻肢痛にも似た確かな感触として、自分の指先に伝わってきていた。
***
疼くような痛み。けれど、それを溶かすように沁み渡る熱。
矛盾した感覚の波紋に、ミリアの唇からか細い呼気が漏れる。彼女の渇ききった魂の器へ、その繋がりを通じて、一雫の「満たされる」という感情が注がれる。
幻視にも似て、彼が今日勝ち得た微かな高揚が、仲間と交わした無言の信頼が、波紋のように伝播してくるのだ。
理解は及ばない。だが、この繋がりだけは、決して手放してはならない。本能が、存在の総てが、そう警鐘を鳴らしている。
「……おやすみ」
月影を映す水盤。その中で揺らめく影へ、彼女が落とした言葉は祈りそのものだった。
その名を知らぬ。貌さえ、記憶の輪郭は朧だ。
だというのに、魂の最深部が共鳴している。彼こそが、自らの失われた片割れなのだと。
蒼月が天頂に座し、その光は地上へ静かに降り注ぐ。二つの離れた魂を、等しく祝福するように。
静寂が夜を支配する。だが、水面下では既に、抗えぬ運命の奔流が、その向きを定め始めていた。
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ルシアンの冒険、そして謎の「黒い石」との共鳴。物語はここから加速します。
次回は、武器についての話。
命を預ける「鉄」の声が、少年の運命を変えます。
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