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アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜  作者: アズマ マコト
第1章

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EP1-13:四つ葉の密約

【首都の路地裏・会員制バー『四つ葉の隠れ家』】


 琥珀色の液体が、クリスタルグラスの中で揺らめいている。

 首都の路地裏、選ばれた者だけが足を踏み入れることを許される会員制酒場の一室。重厚なオーク材の扉によって隔絶されたこの空間には、静謐な空気が澱んでいた。壁に埋め込まれた魔石ランプが淡い光を投げかけ、紫煙がけだるげに天井へと昇っていく。


 その中央、革張りのソファに深く身を沈める老紳士の姿は、まさに絵画から抜け出した賢者のようであった。

 アルフレッド・レイン。フォルティア魔法学院の長にして、当代きっての大魔導師。

 白く整えられた髭を指で撫で、憂いを帯びた瞳で虚空を見つめるその横顔は、世界の命運を憂う哲人の如き深みを湛えている。


 だが、その実態は――脳内で繰り広げられる悲鳴にも似た緊急会議の真っ最中であった。


(……やってしまった。完全に、勢いだけで頷いてしまった)


 アルフレッドは眉間にしわを寄せ、苦渋の表情を作る。周囲から見れば、難解な魔術式に頭を悩ませているように映るだろう。しかし、その内面では冷や汗が滝のように流れていた。


(ヴァンスの奴め、あそこまで強く押してくるとは……。「学院長、これは千載一遇の好機です」などと熱弁を振るうものだから、つい「うむ、良かろう」などと威厳たっぷりに許可を出してしまったが……どうするんだ、これ)


 グラスを傾け、強い酒精で喉を焼く。だが、胃の腑に落ちた熱さも、胸中に渦巻く不安を焼き払うには至らない。

 脳裏に浮かぶのは、あの異様な少年――ルシアンと、彼に執着するミリア・レーンフェルの姿だ。


(そもそも、あの氷の令嬢ともあろうミリア君が、なぜあそこまであの少年に固執する? まるで磁石が引き合うかのような異常な執着だ。理解できん!)


 アルフレッドは無意識にグラスを握る手に力を込めた。

 ミリアからの提案は、正気の沙汰とは思えなかった。『同室にしてくれたら絶対暴走させない』。そんな条件を、侯爵家の令嬢が、しかも学院きっての天才が口にするなど、前代未聞である。


(技術的な観点から言えば、確かに興味深い。彼女の特異な魔力特性が、あの少年の暴走を抑制する安全弁になり得るという理論は魅力的だ。だが、男女が同室? しかも一方は貴族の令嬢だぞ? 実家の許可は取り付けたとはいえ、万が一間違いでも起きれば、私の首が飛ぶどころの騒ぎではない!)


 学院長としての責任と、研究者としての好奇心、そして何より事なかれ主義の平穏を愛する心が、激しくせめぎ合っていた。

 アルフレッドは深く息を吐き、また一口、酒を煽る。その所作はあくまで優雅で、老練な魔術師の風格を崩さない。


(……いや、待てよ。今回の件を主導したのはヴァンスだ。私はあくまで、副学院長の熱意にほだされて最終承認印を押したに過ぎない。そうだ、そうに決まっている)


 暗闇の中に一筋の光明が見えた気がした。


(何かあったら、**全部ヴァンスのせいにしよう**。あいつが責任を取ればいい。私は知らん顔で「遺憾である」と言えば済む話だ。うむ、それがいい)


 卑小な結論に達し、ようやくアルフレッドの心に一時の安寧が訪れようとした、その時だった。


 バンッ!


 静寂を愛する個室の扉が、何の前触れもなく、乱暴に押し開かれた。

 廊下の喧騒と共に、小柄だが岩のように頑強な影が転がり込んでくる。


「おう、一番乗りか」


 ドワーフ族特有の野太い声が、湿った空気を振動させた。

 鍛冶師ガンダル。煤と鉄の匂いを纏ったその男は、アルフレッドの対面にどっかりと腰を下ろすと、勝手知ったる手つきで卓上のボトルを掴み取った。


 アルフレッドは眉一つ動かさなかった。驚きもせず、咎めもせず、ただ静かに瞼を閉じ、再び自らの内面世界へと没入しようとする。あくまで「孤独と静寂を愛する孤高の賢者」という仮面を被り続けるつもりだ。


「……」


 無言のまま、琥珀色の液体を見つめ続けるアルフレッド。

 その横顔は、俗世の雑音など耳に入らぬとばかりに超然としている。


「ケッ、かっこつけてんじゃねーよ」


 ガンダルが鼻を鳴らし、ラッパ飲みしたボトルを乱暴に置いた。


「聞こえてるぞ、お前の心の叫びがよ。『うるさいのが来た、せっかく責任転嫁の算段がついたところだったのに』って顔に書いてあるぜ?」


「……ぶっ」


 アルフレッドは危うく酒を吹き出しそうになり、咳き込んで誤魔化した。

 看破された。いや、長年の腐れ縁であるこのドワーフには、アルフレッドの「渋い演技」など通用しないのだ。

 アルフレッドは観念して目を開き、ジロリと無礼な友人を睨みつけた。


「……相変わらず無粋な男だ、ガンダル。人が思索の海に沈んでいるというのに」


「思索だァ? どうせまた、くだらねえ保身の計算だろ。んで、今回の脳内一人会議のお題はなんだ?」


 ガンダルはニヤニヤと笑いながら、燻製肉を素手で掴んで口に放り込む。

 アルフレッドはため息をつき、グラスの中で氷がカランと音を立てるのを聞いた。これ以上隠しても無駄だ。この男の前では、賢者の仮面もただの薄っぺらな紙切れに過ぎない。


「……うむ。一人の特待生の入学を許可したのだ」


 アルフレッドは声を落とし、再び渋い表情を作って語り出した。そこには、真実の懸念も少なからず含まれている。


「その子供は類まれな魔力量の放出を可能とするが、制御能力が皆無に等しいのだ。まるで、栓の抜けた樽のように魔力を垂れ流す。そんな危険因子を、学び舎に招き入れてしまった……」


「ほう?」


 ガンダルが興味深げに身を乗り出した。濃い髭の奥で、職人の目が怪しく光る。


「おいおい、そんなの入学させて大丈夫なのかよ。歩く爆弾みたいなもんじゃねえか」


「まさにその通りだ。だが、私の部下がどうしてもと言うものでな……」


「へえ、そいつは面白えな」


 ガンダルは口元の脂を手の甲で拭い、ニヤリと笑った。


「実はな、俺の工房にも最近、同じようなヤツが来たんだよ。魔力の通り道がガタガタで、ちょっと負荷をかけりゃ自壊しちまいそうな危なっかしいガキがな」


 アルフレッドは眉をひそめた。ガンダルの工房に出入りするような荒事師の中に、魔力制御の未熟な者がいるとは珍しい。だが、まさかそれが自分の悩みの種である特待生と同一人物だとは、夢にも思わなかった。


「奇遇だな。最近の若者は、基礎を疎かにして力ばかりを求める傾向があるのか」


「いやいや、あいつはそんな単純なもんじゃねえよ。素材としては極上だ。だから、ちょっと実験をしてやろうと思っててな! 店で埃を被ってた『呪いの剣』が、あいつの体でどう反応するか……ククッ、楽しみで腕が鳴るぜ」


「……貴様、また人道に悖るような実験を企てているのではないだろうな」


「人聞きが悪いこと言うなよ。あいつも納得済みだ。……たぶんな」


 ガンダルは豪快に笑い飛ばし、再びボトルを煽る。

 アルフレッドは呆れ顔で首を振った。この男の「実験」に巻き込まれる若者に、心の中で同情を捧げる。自分の抱える問題児も厄介だが、ガンダルの玩具にされるよりはマシかもしれない。


 ふと、ガンダルが視線をアルフレッドに戻し、意地の悪い笑みを浮かべた。


「ってかよ、いつまでカッコつけてんだよ! セシリアはまだきてねーぞ」


 その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、アルフレッドの背筋に電流が走った。

 維持していた「渋い老紳士」のポーズが、音を立てて崩れ去る。


「っ! セ、セシリアがどうとかではない! やめんか!」


 アルフレッドは素っ頓狂な声を上げ、慌てて居住まいを正した。顔が一気に赤くなるのが自分でもわかる。

 今日、この場に集まる予定のもう一人の友人――かつて共に冒険し、今なおアルフレッドが密かに想いを寄せ、かっこいい姿を見せたいと願っている女性の名を出されるのは、彼にとって最大の急所だった。


「ギャハハハ! お前、何十年経っても変わんねえな! 『やめんか!』ってなんだよ、その反応!」


 ガンダルが腹を抱えて大笑いし、テーブルをバンバンと叩く。

 アルフレッドは咳払いをし、乱れた襟元を直しながら、恨めしげにドワーフを睨みつけた。


「……貴様にはデリカシーというものが欠片もないのか」


「あるわけねえだろ。ドワーフだぞ?」


 開き直った友人の笑顔に、アルフレッドは深い溜息をついた。

 だが、不思議と胸の内の重圧は少しだけ軽くなっていた。ヴァンスへの責任転嫁も、ミリアの不可解な行動も、この騒がしい友人の笑い声の前では、些細な喜劇の一部のように思えてくるから不思議だ。


「……まったく。酒が不味くなる」


 そう憎まれ口を叩きながらも、アルフレッドは自らのグラスに、新たな酒を注ぎ足した。

 個室の外では夜が更け、運命の歯車は彼らの知らぬところで、静かに、しかし確実に回り始めていた。


 ***


 琥珀色の液体がグラスの中で揺れ、蝋燭の灯火を映して煌めく。アルフレッドがその輝きに視線を落とし、ささくれ立った心を鎮めようとした、まさにその時だった。


 重厚なオーク材の扉が、音もなく滑るように開かれた。

 廊下から流れ込む空気と共に、華やかで甘い香気が個室の淀んだ酒の匂いを塗り替える。


「そんなに大きな声で言い合いをしてると、個室の外まで全部筒抜けですよ。また私の話で盛り上がってたのかしら?」


 鈴を転がすような、それでいてどこか艶を含んだ声が響く。

 アルフレッドは弾かれたように顔を上げた。

 そこに立っていたのは、豪奢なドレスを纏った一人の女性だった。歳月という概念を置き去りにしたかのような若々しい美貌。豊かな金髪は緩やかに波打ち、知性を湛えた碧眼がいたずらっぽく細められている。

 光輪教会司教、セシリア・ローレンス。かつて共に死線を潜り抜けた戦友であり、アルフレッドがいまだに心を囚われている想い人である。


 彼女の登場に、アルフレッドは反射的に背筋を伸ばし、顎を引いて、鏡の前で幾度も練習した「憂いを帯びた賢者」の表情を作ろうとした。眉間にしわを寄せ、遠くを見つめるような深遠な眼差し――そのはずだった。


「ククッ……いや、アルフレッドがよ、セシリアがいつきても良い様に必死こいてキメ顔作ってるのが面白くてよ」


 横から飛んできた無粋な一言が、アルフレッドの努力を粉々に打ち砕いた。

 ガンダルがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、髭についた酒の雫を手の甲で拭っている。


「やっ、別に、き、キメてはおらんだろ! いつもどおりだ! 私は常に学園長としての威厳を……」


 アルフレッドは裏返った声で弁明し、泳ぐ視線を彷徨わせた。顔が熱い。長年の付き合いであるガンダルには、自分の浅ましい見栄など全てお見通しなのだという事実が、今はただただ恨めしかった。


「ふふ、相変わらず仲が良いのね」


 セシリアはクスクスと笑いながら、絹擦れの音をさせて部屋の中へと進み出た。その所作の一つ一つが洗練されており、まるで社交界の舞踏会にでも現れたかのような優雅さを漂わせている。

 彼女は円卓の空いている席――アルフレッドとガンダルのちょうど中間――に腰を下ろした。背筋はスッと伸び、指先の角度まで計算されたかのような完璧な淑女の佇まいだ。


「それで、なんのお話をしてたのかしら?」


 問いかけながら、彼女は入店時に受け取ってきたであろう自分用の大ジョッキを、片手で優雅に掲げた。

 その動作のあまりの自然さに、アルフレッドは一瞬、彼女が持っているのが優美なワイングラスか何かだと錯覚しかけた。だが、現実には、ドワーフの頭ほどもある無骨な木樽ジョッキだ。中には並々とエールが注がれている。


「あら、二人とももう始めてるじゃない。それじゃあ失礼して、私も」


 セシリアは愛らしい微笑みを浮かべると、そのまま巨大なジョッキを口元へ運んだ。

 次の瞬間、物理法則を無視したような光景が展開された。

 喉が鳴る音すらさせず、呼吸をするかのような滑らかさで、琥珀色の液体が彼女の唇の奥へと吸い込まれていく。それはまるで、砂漠が雨を飲み込むかのようであり、あるいは底なしの深淵が海を呑み干すかのようだった。


 カッ、と乾いた音がして、ジョッキがテーブルに置かれる。

 ものの数秒。

 アルフレッドが瞬きをする間に、あふれんばかりだったエールは一滴残らず消滅していた。


 セシリアは優雅な手つきで口元を拭うと、何事もなかったかのように卓上の呼び出し魔導具へ指を伸ばし、涼しい顔でボタンを押した。即座に店員へおかわりを要求するその手際の良さは、熟練の冒険者すら舌を巻くレベルだ。


「……ぷはっ。やっぱり仕事の後のエールは格別ね」


 吐息のように漏らされた感想に、淑女の仮面の下に潜む豪傑の素顔が垣間見える。


「ギャハハハ! あいかわらず勢いが良いねえ、やっぱり女はこうじゃなくっちゃな! なあアルフレッド!」


 ガンダルが膝を叩いて大笑いした。

 アルフレッドは引きつった笑みを浮かべ、なんとか頷く。セシリアの前で「大人の男」としての余裕を見せたいという欲求と、目の前の現実とのギャップに脳が追いつかない。


「う、うむ。素晴らしい飲みっぷりだとも。我々も盛大に飲もうではないか」


 アルフレッドは努めて声を低くし、重々しい口調を選んだ。グラスを掲げ、貴族的な乾杯を演出しようとする。

 だが、ガンダルはそれを許さなかった。


「『ではないか』ってなんだよ! お前、無理すんなって! 腹痛てえ!」


 ドワーフの爆笑が個室の壁を揺らす。

 アルフレッドはグラスを持ったまま硬直した。せっかく作った雰囲気が、ガンダルの無遠慮な笑い声によって木っ端微塵に吹き飛ばされていく。セシリアの前で、威厳ある指導者としての自分を確立したいだけなのに、なぜこの髭達磨はこうも邪魔をするのか。


 店員が新たな大ジョッキを運んできた。

 セシリアはそれを受け取りながら、ニコリと微笑んだ。

 その笑顔は、春の日差しのように温かく、同時に絶対零度の氷原のように冷徹な圧力を孕んでいた。


「ガンダルもそれくらいにしなさいね。アルフレッドも、昔と同じように話しましょうね?」


 柔らかい口調だが、拒否権は存在しない。

 彼女の碧眼の奥には、「これ以上私の酒の席を騒がしくするなら、**聖竜術でそのあごの関節を外して差し上げますわよ**」という無言のメッセージが込められているように見えた。


 ガンダルの笑い声がピタリと止まる。歴戦の戦士である彼も、かつて彼女の『破壊即再生』の拳を食らい、**「健康になりながら殴られ続ける」**という地獄の無限ループを味わった恐怖が、骨身に染みているのだ。


「お、おう。……悪かったな、アルフレッド」


 ガンダルはバツが悪そうに鼻を鳴らし、ニヤニヤとした笑みを引っ込めた。

 アルフレッドは深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。これ以上、無駄な抵抗を続けても傷口を広げるだけだ。セシリアに見透かされている以上、道化を演じる意味もない。


「……ああ、もう良い。ちょっとここでも威厳を出してみたかっただけだ」


 アルフレッドは苦笑交じりに呟き、仮面を外した。

 老成した賢者の表情は消え、そこにはかつて彼らと共に荒野を旅した、実直で少し不器用な青年の面影が戻っていた。


「ふふ、そうよ。ここは学院でも教会でもないもの。ただの腐れ縁の集まりだわ」


 セシリアは満足げに目を細め、その様子を眺めた。

 そして、会話が途切れた一瞬の隙に、いつの間にか二杯目の大ジョッキを空にしていた。

 彼女は流れるような動作で再び呼び出しボタンを押し、まるで紅茶のおかわりを頼むかのような軽やかさで店員を待つ。


 その底知れぬ酒豪ぶりに、アルフレッドとガンダルは顔を見合わせ、呆れと親愛の情を込めて小さく笑った。

 夜はまだ始まったばかりだ。古き友人たちとの宴は、首都の喧騒から切り離されたこの小さな個室で、静かに、もとい激しく更けていくことだろう。


 ***


 琥珀色の液体が満たされたグラスの表面に、揺らめくランプの灯火が映り込んでいる。アルフレッドはそれを一息に呷ることはせず、指先で弄びながら、ようやく落ち着きを取り戻した店内の空気を肺腑に吸い込んだ。


 ガンダルの馬鹿笑いは収まり、セシリアも三杯目のジョッキを優雅に、しかし恐るべき速度で傾けている。かつての仲間たちが醸し出す空気は、学院の執務室にある張り詰めた緊張感とは異なり、古びた革のようによく馴染む安らぎがあった。


「……それで、ガンダル。先ほどの話の続きだが」


 アルフレッドは話題を戻すことにした。このままではただの酒盛りで終わってしまう。彼には、ガンダルが口にした「興味深い客」の話が、どうしても頭の片隅に引っかかっていたのだ。


「お前の店にやって来たという、その変わった人物とは何者だ?」


 ガンダルは髭についた泡を手の甲で乱暴に拭い、ニヤリと笑った。


「ああ、そうだったな。いや、何者かっつーと……」


 ドワーフが口を開きかけたその時、個室の扉が軽やかな音を立てて開いた。


「皆、お待たせ。いやーー疲れた疲れた、書類仕事は嫌だねーー」


 飄々とした声と共に現れたのは、ひょろりとした長身の男だった。くたびれたローブをだらしなく羽織り、目元には常に眠たげな隈を浮かべている。

 第四の男、ライナス・グラベルである。


 彼は入室した時点で既に、その右手に琥珀色の液体が波打つグラスを握りしめていた。この店は入店時に注文し、自ら席まで運ぶのが流儀だ。ギルドの激務で乾ききった喉を少しでも早く潤したかったのだろう。


「遅かったじゃない、ライナス」


 セシリアが咎めるような視線を送るが、声色は弾んでいる。


「面目ない。だがまあ、こうして役者は揃ったわけだ」


 ライナスは空いている椅子に滑り込むように座ると、持参したグラスを高々と掲げた。アルフレッド、ガンダル、セシリアもそれに倣い、それぞれの酒器を持ち上げる。


「四つ葉の永光クローバー・エバーライト全員揃った所ですので」


 ライナスは芝居がかった口調で、かつてのパーティ名を口にした。それは遠い昔、彼らがまだ若く、世界が無限に広がっていると信じていた頃の名前だ。


「我らが再会と、これからの平穏……いや、さらなる波乱にか? まあとにかく、弥栄いやさかを祈念して!」


「乾杯!」


 四つの器がぶつかり合い、硬質な音が個室に響いた。

 それはフォルティア共和国の歴史を裏から支える重鎮たちの、極めて私的で、ささやかな宴の始まりだった。


 喉を潤し、ひと心地ついたところで、アルフレッドは改めてライナスに向き直った。


「それで、ギルド長殿が直々に書類仕事とは珍しい。何かトラブルか?」


「トラブルというか、まあ、新人の尻拭いさ」


 ライナスは肩をすくめ、大げさに溜息をついてみせた。


「ある新人が初仕事で『ワイルドボア討伐』をやってのけてね。それ自体は結構なことなんだが、あいつはまだ登録したてで『三ヶ月間の戦闘行為禁止』の保護観察期間中だったんだよ。本来ならギルドから永久除名クラスの違反行為だ。それをどうにか書類上の不備ってことにして揉み消すための『温情措置』に追われてたってわけさ」


「ワイルドボアか。新人にしては骨のある獲物を選んだものだ」


 ガンダルが感心したように頷く。


 セシリアがふと、遠くを見るような目で呟いた。


「あら、奇遇ね。私の所……教会の孤児院からも一人、冒険者になると言って巣立っていった子がいたのよ。あの子も無茶をしていないと良いのだけれど」


 彼女の声には、母親のような慈愛と一抹の不安が滲んでいた。セシリアにとって孤児院の子供たちは、血の繋がった家族以上の存在なのだろう。


「ふん、若い冒険者ってのは無茶をするもんだからな」


 ガンダルはジョッキを揺らし、琥珀色の渦を見つめながら鼻を鳴らした。


「俺の店に来た客もそうだ。……実はな、最初はギルドの貸与品を持ち込んできやがった。刃こぼれが酷くて研ぎ方を教えてやったんだが……次に来た時、その剣は内側から弾け飛んで死んでた」


「弾け飛んだ?」


 アルフレッドは眉をひそめた。剣が折れることはあっても、弾け飛ぶとは穏やかではない。


「ああ。外からの衝撃じゃねえ。持ち主の出鱈目なマナの『内燃』に耐えきれず、鉄が悲鳴を上げて破裂したんだ」


 ガンダルの職人としての目が、鋭く光った。それは戦場での彼と同じ、獲物を見定める捕食者の目だ。


「普通の剣じゃあ、あいつの魔力には耐えられねえ。だから俺は、店で埃を被ってた『呪いのバスタードソード』を押し付けてやった。使い手のマナを喰らい尽くす悪食な剣だが……あの坊主の無尽蔵な熱量を逃がす『放熱板』には丁度いいだろ?」


 その言葉に、アルフレッドの脳裏に電流のような閃きが走った。

 内燃。マナの暴走。鉄をも砕く熱量。

 それはつい先日、学院の入学試験会場で彼が目撃した光景と、奇妙なほどに符合する。


「……似たようなものだ」


 アルフレッドは無意識のうちに呟いていた。


「私の所にも、入学試験の魔力測定で、測定器を爆砕しおった受験生がいた。……言ってみれば『歩く自爆術式』だ。測定器の許容量を一瞬で超えるマナを流し込み、内部機構を焼き切ってしまった」


 場の空気が、奇妙な静寂に包まれた。

 それぞれが持ち寄った、別々の場所、別々の時間の出来事。

 だが、その中心にある「異質さ」は、まるで同じ根を持つ大樹の枝葉のように似通っていた。


 ライナスがグラスを置く手が止まる。彼の切れ長の瞳が、探るように細められた。


「……ん? 親父さん、その剣を持ち込んだ子供って、まさか……」


 ガンダルは怪訝そうに眉を寄せ、記憶を手繰るように天井を仰いだ。


「おう、珍しい黒髪の坊主だったぞ。目つきの悪い、愛想のねえガキだ」


「黒髪……!」


 セシリアがハッとして息を呑んだ。その優雅な手から、カトラリーが滑り落ちそうになる。


「やっぱり、あの子だわ! 孤児院を出ていった、あの子……!」


 アルフレッドもまた、目を見開いてガンダルとセシリアを交互に見やった。試験会場で見た、あの異質な存在感を持つ少年。黒い髪、黒い瞳。そして測定不能なほどの魔力。


「黒髪……剣の破裂……魔力過多……ワイルドボア……」


 ライナスが指折り数えながら、楽しげに口角を吊り上げる。


 パズルのピースが、カチリと音を立てて嵌まった。

 首都という広大な盤上で、彼ら四人がそれぞれ別個に関わった、たった一人の特異点。


 四人の視線が交差する。そこにあったのは驚きであり、呆れであり、そして何よりも抑えきれない愉快さだった。


「「「同じやつだ!!」」」


 声が重なり、個室の空気を震わせた。

 一瞬の空白の後、堰を切ったように爆笑が弾けた。


「ぶはははは! なんだそりゃ! まさか俺たちが寄ってたかって、同じガキの面倒を見てたってのか!」


 ガンダルがテーブルを叩いて笑い転げる。


「傑作だねえ! 書類不備の新人君が、まさか親父さんの店で剣を買って、セシリアの孤児院出身で、アルフレッドの学校を受験してたとは!」


 ライナスも腹を抱えて笑っている。


「ふふ、あの子ったら……。首都に来て早々、こんな大物たち全員に目をつけられるなんて」


 セシリアは目尻に涙を浮かべながら、クスクスと上品に、しかし止まることなく笑い続けた。


 アルフレッドもまた、威厳などかなぐり捨てて笑った。肩の荷が下りたような、清々しい笑いだった。

 運命とは、時にこうも悪戯好きなものなのか。

 かつて世界を救った英雄たちが、今は一人の少年の軌跡に翻弄され、こうして酒の肴にしている。


「まったく……とんでもない『新人』が来たものだ」


 アルフレッドは笑い涙を拭いながら、空になったグラスに新たな酒を注いだ。

 夜はまだ長い。そして彼らの物語もまた、新たな世代を巻き込んで続いていくのだという予感が、心地よい熱となって胸の奥に灯っていた。


 ***


 ひとしきり続いた哄笑が凪ぐと、個室には心地よい疲労感と、それとは裏腹な、奇妙な熱気が澱んでいた。

 琥珀色の液体が揺れるグラスを見つめながら、四人の伝説たちはふと真顔に戻る。

 それは戦場における殺気とは違う。だが、ある種の獲物を見つけた狩人のような、あるいは難解な古文書を前にした学者のような、純粋で強烈な探究心の輝きだった。


 誰からともなく、その沈黙は破られた。


「……しかし、そのような無茶な魔力放出を続けていれば、遠からず身体が壊れますわ」


 セシリアが憂いを帯びた溜息をつく。だがその瞳の奥には、慈愛だけではない、聖職者としての厳格な光が宿っていた。


「あの魔力量は天賦の才。けれど、器が未熟なまま中身だけが溢れ出している状態です。自滅する前に、わたくしが『聖竜術』による身体強化の基礎を叩き込む必要がありますね。『四つ葉の永光』随一の徒手空拳の使い手として、マナの流し方、循環の呼吸……教えるべきことは山積みです」


「待て、セシリア」


 重厚な声が、彼女の言葉を遮った。アルフレッドが腕を組み、不服そうに眉間へ皺を刻んでいる。


「あやつはヴァンスが連れてきた、我が学院の生徒となるべき者だ。部外者は勝手に手出しをすることは認めん。まずは私が『戦う魔導師』としての基礎を教える。魔力制御も、戦術理論も、すべては学院のカリキュラムの中でこそ体系的に学べるのだ」


「ああん? カリキュラムだあ?」


 ガンダルが鼻を鳴らし、空になったジョッキをテーブルに叩きつけた。その振動で、卓上の燭台が微かに揺れる。


「学校のお勉強で、あの剣が扱えるようになるかよ。俺のところの剣を買ったんだ、あいつは俺の客だぞ! あの剣の重み、重心の癖……そして何より、鉄に己を乗せる『纏』の極意。アイツの目なら、俺の技を継げるかもしれねぇんだ」


 鍛冶師としての、いや、かつて戦場を駆け抜けた戦士としての本能が疼いているのだ。ガンダルは太い指でテーブルの木目をなぞりながら、ニヤリと笑った。


「素材は極上だ。変な手癖がつく前に、俺が鍛え直してやるのが一番だろ」


「いやいや、皆さん。少々熱くなりすぎじゃありませんか?」


 ライナスがひらひらと手を振り、軽薄な笑みを浮かべて割って入る。だが、その糸のように細められた瞳は、決して笑ってはいなかった。


「魔術だの剣技だの、立派なことですがね……死んだらおしまいでしょう? 彼はまだ雛鳥だ。私が直々に『回避』と『相棒の守り方』を教えますので。戦場で生き残るための泥臭い知恵こそ、今の彼には必要なんですよ」


 四人の視線が空中で交錯し、火花を散らす。

 誰も譲らない。

 かつて背中を預け合い、世界を救った仲間たちが、今や一人の少年を巡って子供のようなマウント合戦を繰り広げている。それはさながら、親バカたちが我が子の進路を巡って代理戦争を始めたかのようだった。


「わたくしの聖竜術が最も安全です」

「いや、学院での規律こそが彼を育てる」

「実戦で使えるのは俺の剣だ」

「生き残れなきゃ意味がないと言っているんです」


 議論は平行線を辿り、着地点を見失ったまま旋回する。

 やがて、ふと誰かが吹き出し、再び部屋の空気が緩んだ。自分たちの必死さが、急に滑稽に思えてきたのだ。


「……まったく。我々も焼きが回ったものだな」


 アルフレッドが苦笑し、首を振る。


「ああ。だが、悪くない気分だ」


 ガンダルが満足げに頷く。


 ライナスがグラスに残った氷をカランと鳴らし、悪戯を思いついた子供のような顔で提案した。


「では、こうしましょう。我々は『四つ葉の永光クローバー・エバーライト』として、陰ながら彼を助ける。表立って我々全員がルシアン君を取り囲めば、一般生徒や他の冒険者から妬みを買いますし、彼自身の成長を阻害しかねない」


 それはもっともらしい建前だった。

 だが、全員がその提案に頷いた理由は、別のところにある。


「……ふふ。そうね。その方が、あの子がどう育つか……楽しみが増えるというものですわ」


 セシリアが口元を扇子で隠しながら、艶然と微笑む。


「(その方が面白そうだから)」


 四人の本音は完全に一致していた。

 完成されたレールを走らせるよりも、荒野を行く少年の背中を、茂みの陰からこっそりと押し、時に小石を取り除き、時に試練を与える。その方が、彼らの退屈な余生を彩る極上の娯楽になるだろうという、極めて身勝手で、しかし愛情深い結論だった。


「決まりだな」


 アルフレッドが宣言し、最後の杯を掲げた。


「我々は影となり、次代の光を見守る。……乾杯」


「乾杯!」


 グラスが触れ合う清らかな音が、夜の静寂に溶けていく。


 店を出る頃には、東の空が白み始めていた。

 首都の街並みはまだ深い群青色の眠りの中にあり、石畳を渡る風が酔った頬に心地よい冷たさを運んでくる。


「じゃあな。俺は店に戻って、あいつのための剣の手入れ道具でも見繕っておくか」


 ガンダルが大きく伸びをし、巨体を揺らして路地へと消えていく。


「わたくしも教会へ戻ります。……あの子がいつ訪ねてきてもいいように、万全の準備をしておきませんと」


 セシリアは朝霧の中へ、幻のように優雅に姿を消した。学院の熾烈な競争に身を置く彼が、ふと安らぎを求めて教会の門を叩いた時、最高のお茶と説教を用意して迎えるために。


「やれやれ、徹夜は肌に悪いんですがね。……さて、ギルドの依頼掲示板でも細工しておきますか」


 ライナスは軽やかな足取りで、闇に溶け込むように去っていった。


 一人残されたアルフレッドは、杖を突き、黎明の空を見上げた。

 フォルティア魔導学院の尖塔が、朝焼けを受けて微かに輝き始めている。

 かつて世界を背負った肩の重みは、今はもうない。代わりに、新たな希望という種を育てる庭師のような、静かな高揚感が胸を満たしていた。


「ルシアン・フォルト……か」


 彼は独りごちて、石畳を踏みしめ歩き出す。

 その背中は、老境の寂寥を感じさせるものではなく、新しい遊びを見つけた少年のように弾んでいた。

 夜が明ける。

 彼らの、そして黒髪の少年の物語が、ここからまた新しく動き出そうとしていた。


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