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アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜  作者: アズマ マコト
第1章

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EP1-12:黄金の粒と夜の底

 夜の闇を冒涜するかのように、フォルティア国立魔法学院の広場は人工的な祝祭の光に満たされていた。


 宙に浮かぶ無数の魔術灯が、星々の慎ましやかな瞬きを無遠慮に塗り潰し、極彩色の輝きを石畳に撒き散らしている。頭上からは、雷雨の後のような特有のオゾン臭が漂い、強烈な電場が肌をチリチリと刺激する。

 クラス配属を待つ新入生たちの歓声は、さながら見えない壁となって空間を圧迫していた。誰もが紅潮した頬を緩ませ、未来への希望という名の甘美な果実を貪っている。その光景はあまりにも眩しく、そしてルシアン・フォルトにとっては暴力的ですらあった。


 彼はその光の洪水の中で、ひとり明確な異物として存在していた。


 背中に食い込む革ベルトの感触だけが、彼を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。背負ったバスタードソード――『鉄の墓標』と呼ぶに相応しい無骨な鋼の塊は、九歳の少年の華奢な骨格にはあまりに不釣り合いな重力を及ぼしている。冷たく、硬く、そして絶対的な質量。周囲の子供たちが手にする繊細な杖や、装飾された短剣とは決定的に異なるその鉄塊は、ルシアンの背骨を軋ませると同時に、彼の精神をこの浮ついた喧騒から冷徹に隔離していた。


 喉が焼けるように渇いていた。

 口の中に広がるのは、砂を噛んだような乾いた味だけだ。指先の感覚は鈍く、先刻までの実技測定で酷使した筋肉が、熱を持った鉛のように重い。華やかなローブを纏い、高揚した声で互いの健闘を称え合う貴族の子弟たちの群れが、まるで別世界の住人のように映る。彼らの世界は光と魔力で構成され、ルシアンの世界は鉄と汗、そして理由のわからない喪失感で構成されていた。


 夢で見る灰色の塔。どこまでも続く無機質な壁と、意味を持たない記号の羅列。

 自分はこの絵画の中に誤って落とされた一滴の黒インクなのだという感覚が、胸の奥で燻っていた。その光景が何であるのか、彼自身にも理解はできていない。ただ、この煌びやかな魔法の世界に対する違和感だけが、棘のように心臓に刺さっていた。


 ルシアンは群衆の波を避けるように、広場の隅へと足を向けた。

 肩が誰かに触れることさえ億劫だった。光の渦の中心には居場所がない。影を縫うようにして歩を進めると、掲示板の周囲に群がる人垣の、その一番端へと辿り着く。


 ざわめきが鼓膜を叩く。歓喜の悲鳴と、落胆の溜息が入り混じった不協和音。

 ルシアンは重たい鉄の剣を背負い直すと、疲弊しきった視線をゆっくりと上げた。魔法の光に照らされた羊皮紙が、審判の刻印のように目前に張り出されている。


 ルシアンはその人垣の隙間から、必死に視線を走らせた。

 そこには、今朝の魔力測定における適性クラス分けの結果が羅列されているはずだった。黒々としたインクで記された名前の数々は、彼らにとって未来への通行手形であり、生存を許された証でもある。


 だが、ない。

 上から下へ、左から右へ。何度視線を往復させても、「ルシアン・フォルト」という文字列は見当たらない。

 胸の奥に、冷たい風が吹き抜けるような空虚感が広がった。周囲の歓声が、まるで水底から聞く音のように遠く、不明瞭なものへと変わっていく。自分の存在だけが、この世界から抜け落ちてしまったかのような錯覚。


 その時だった。視界の隅、配属リストのさらに下段に、異質な一枚がピンで留められているのに気づいたのは。

 他の羊皮紙とは異なり、そこには装飾も何もない。ただ、事務的で冷淡な筆致が、鋭い刃物のように突き刺さってきた。


『ルシアン・フォルト:至急、教官室へ出頭せよ』


 心臓が、早鐘を打った。

 配属先すら記されていない。ただの呼び出し。それも「至急」という言葉が付随している。

 思考が急転直下し、最悪の想像が脳裏を黒く塗りつぶしていく。なぜだ? 何か不始末をしでかしただろうか。


 ルシアンの意識は、背負っているバスタードソード――あの無骨な「鉄の墓標」へと向かった。

 今朝の実技測定での振る舞いが過剰だったのか。それとも、身の丈に合わない武器を校内に持ち込んだこと自体が、学院の安全規定に触れたのかもしれない。

「至急」という言葉の響きが、ただの呼び出しではないことを告げている。もし不合格どころか、危険分子として断罪されれば、冒険者としての資格さえ剥奪されかねない。

 恐怖が、胃の腑を冷たい手で鷲掴みにする。

 ルシアンは無意識のうちに右手を握りしめようとして、顔をしかめた。包帯の下で砕けた指骨が軋み、鋭い痛みが脳髄を走る。その痛みだけが、浮足立ちそうになる意識を現実に繋ぎ止めていた。


 広場の喧騒を背に、ルシアンは重い足取りで本校舎の奥へと進んだ。

 極彩色の光に満ちた屋外とは異なり、教官室や資料室が並ぶ管理棟の回廊は、冷ややかな静寂に包まれている。石造りの床を叩く自分の靴音だけが、やけに大きく響いた。

 窓から差し込む魔術灯の人工的な光さえ、今の彼には尋問室の灯りのように冷たく感じられる。

 すれ違う職員の視線が、まるで罪人を見るかのように突き刺さる気がした。もちろん、それは過剰な自意識が生み出した幻影に過ぎないのだろうが、不安は影のように足元にまとわりついて離れない。


 教官室は、この回廊の突き当たりにある。

 一歩進むごとに、心臓の鼓動が耳の奥で轟音を立てた。まるで処刑台へと続く階段を上っているような心地だ。

 退学。契約解除。その言葉が呪いのように頭の中で反響する。


 もし剣を取り上げられたら、自分には何が残るだろう。

 前世らしき記憶の残滓にある「灰色の塔」や「鉄の馬車」のイメージが、一瞬だけ脳裏を過った。体を動かさず、ただ無機質な光を見つめていたあの感覚。今の自分には、剣の重みを感じること以外に、生きている実感を得る術がない。


 突き当たりの重厚な木の扉が見えてきた。

 ルシアンは一度立ち止まり、深く息を吸い込む。肺に満ちた空気は、恐怖を薄めるにはあまりにも少なかったが、それでも彼は震える足を叱咤し、その扉の前へと進み出た。


 重厚なオーク材の扉が、ルシアンの前に立ちはだかっていた。

 その厚みをもってしても遮蔽しきれない怒声が、廊下の静寂を震わせている。


「正気か! 彼はまだ九歳だぞ! 『歩く災害』とレーンフェル令嬢を同室にするなど、教育者のすることではない!」


 机を拳で叩く鈍い音が響く。担任であるクラウスの、悲鳴にも似た抗議だった。ルシアンはノブにかけた手を止める。


「教育? 勘違いをしてもらっては困るな、ハインリヒ先生」


 答える声は氷のように冷ややかだ。ヴァンス教官の、嘲るような響きが扉越しにも伝わってくる。


「これは兵器運用テストだよ。規格外の出力を持つ『欠陥品』と、制御不能な『氷の城』。混ぜ合わせればどうなるか、興味深いとは思わんかね?」


「貴様ッ……生徒をモルモットにするつもりか!」


「感情論は不要です」


 三つ目の声が、熱を帯びた空気を断ち切った。研究員のイリスだ。彼女の声には人間らしい抑揚がなく、ただ数式を読み上げるような無機質さだけがあった。


「データは嘘をつきません。彼の常軌を逸した異常な魔力量を完全に抑え込む彼女の精密な制御の術を研究し、その一端でも学院の糧とする事ができるならば暴走事故は確実に減るでしょう。生存率の向上こそが最優先事項。違いますか?」


 ルシアンは息を吐き、意を決して重い扉を押し開けた。


 蝶番が軋む音と共に、室内の空気が一気に流れ込んでくる。

 古びた紙とインクの匂い。そして、張り詰めた弓弦のような緊張感。

 赤面して肩を怒らせるクラウス、優雅に脚を組んで薄笑いを浮かべるヴァンス、そして分厚い資料の束を抱えた白衣のイリス。三人の視線が、入室した異分子――背丈ほどもある大剣を背負った、冒険者姿の少年へと突き刺さる。


 だが、ルシアンの肌を粟立たせたのは、彼らの視線ではなかった。


 部屋の隅。

 学術書が積み上げられた本棚の陰、窓際にそれは「置いて」あった。


 少女だった。

 豪奢な学院の制服に身を包んでいるが、その佇まいは人間というよりも、精巧に作られたビスクドールのようだった。色素の薄い銀髪が、窓から差し込む魔術灯の人工的な光を浴びて透き通るように輝いている。

 彼女は外界の喧騒など存在しないかのように、虚空を見つめていた。


 ルシアンが一歩、足を踏み入れた瞬間だ。


 カチリ、と。

 少女の首が、精密な時計仕掛けのように正確な角度で回った。


 青紫ブルーバイオレットの瞳が、ルシアンを捉える。

 夜明け前の深い空の色、あるいは底知れぬ深海の色。そのガラス玉のように美しい双眸が彼を映した瞬間、ルシアンの胸の奥で、心臓が早鐘を打った。恐怖ではない。敵意でもない。ただ、巨大な運命の歯車が噛み合ったときのような、根源的な圧迫感。


 ミリア・レーンフェルの瞳孔が、顕微鏡のレンズが焦点を合わせるように微かに収縮する。

 彼女の色彩のない世界において、彼だけが鮮烈な輪郭を持って浮かび上がっていた。

 思考の空白地帯に、説明のつかない電流が走る。それは失われた半身を見つけたような、あるいは遠い昔に置き忘れた記憶が、泥の中から輝きだしたような――理解不能な胸の痛み。


「……あ」


 少女の唇が微かに動き、音にならない呼気が漏れる。

 その瞳の奥底で明滅する光の意味を、ルシアンはまだ知る由もなかった。


 激論の嵐が過ぎ去り、教官室には鉛を溶かし込んだような重苦しい沈黙だけが澱んでいた。革張りの椅子がきしむ微かな音が、張り詰めた空気を震わせる。


 部屋の最奥、重厚な執務机の向こうに座る学院長アルフレッドが、組んだ指の上に顎を乗せたまま、ゆっくりと口を開いた。その灰色の髪は、彼が長きにわたり積み重ねてきた知恵と、それに伴う冷徹な判断の歴史を物語っているようだった。


「……退学させれば、この幼子は野垂れ死ぬ。あるいはその身に余る『鉄塊』に振り回され、力を制御できずに自滅するのが関の山だ」


 アルフレッドの声は低く、古びた羊皮紙が擦れるような乾いた響きを持っていた。彼はルシアンの背負うバスタードソード――身の丈に合わぬ『鉄の墓標』を一瞥し、再び少年の瞳を覗き込む。そこには教育者の慈悲というよりも、未知の現象に対する学者の計算高い色が浮かんでいた。


「特例として、一般教養科への仮入学を認める。魔力を持たぬ者が魔術の実技を行えるはずもないからな」


 ルシアンの胸の奥で、安堵とも落胆ともつかない息が漏れる。冒険者ギルドの片隅、硬いベッドとカビの臭いが染みついた安宿を生活の場とする彼にとって、学院という場所はあまりに眩しく、そして異質だった。だが、学院長の言葉はそこで終わらなかった。


「ただし、条件がある」


 アルフレッドが引き出しから一本の鍵を取り出し、机の上に滑らせる。真鍮の鍵が鈍い音を立ててルシアンの目の前で止まった。その鍵には、学院の隅に建つ古い塔――『特別隔離棟』の刻印があった。


「ルシアン・フォルト。君は特別寮の最上階、ミリア・レーンフェルと同室に入れ」


 同室。その単語が意味するところを咀嚼するより早く、学院長は淡々と、判決文を読み上げるように続けた。


「これは相互監視、並びに『リミッター』の運用実験だ。彼女にとっても、君にとってもな」


 実験。

 その言葉が、ルシアンの心臓に冷たい棘のように突き刺さった。

 異性の少女と同じ空間に置かれるという事実への驚きよりも先に、その無機質な響きが彼の内側にある空虚な部分を揺さぶったのだ。自分は生徒として迎え入れられるのではない。観察すべき検体として、檻に入れられるのだという事実が、肌を粟立たせる。九歳の少年にとって、それは「生活」の提案ではなく、「収容」の宣告に等しかった。


「……実験、ですか」


「不服かね? ならばこのまま荒野へ帰り、その剣と共に朽ちるがいい」


 拒否権など端から存在しなかった。ルシアンは唇を噛み、机上の鍵に手を伸ばす。指先に触れた真鍮は氷のように冷たく、ずっしりとした質量を持って掌に収まった。それは新たな世界への切符ではなく、逃れられぬ鎖の重さのようにも感じられた。


「彼女を連れて、速やかに向かえ」


 アルフレッドは既に興味を失ったかのように手元の書類に視線を落とし、無造作に手を振った。


「下がっていい。……励むことだ、特例生」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ルシアンの脇を涼やかな風が通り抜けた。

 ミリアだ。

 彼女はルシアンにも、教官たちにも一瞥さえくれず、音もなく扉へと向かう。その背中は、ここにいる誰のことも認識していないかのように冷ややかだった。

 ルシアンは慌てて一礼すると、逃げるように踵を返した。掌の中の冷たい鍵を強く握りしめ、彼は実験動物モルモットとしてあてがわれた「檻」へと導く、銀色の背中を追った。


【学院本校舎・回廊】


 重厚な樫の扉が背後で閉ざされると、教官室の澱んだ空気は断ち切られたが、肌にまとわりつくような不快な湿り気は消えなかった。

 夜の帳が下りた回廊は、石造りの冷気と静寂が混じり合い、奇妙な静謐さを湛えている。窓から射し込む魔術灯の光は、冷たい青と、夜の深さを告げる紫が混濁した無機質な色で、足元に長い影を落としていた。


 先を行くミリア・レーンフェルの足取りは、氷の上を滑るように滑らかで、かつ無機質だった。

 彼女が踏み出すたびに、磨き上げられた石床が微かな冷気を帯びるような錯覚を覚える。銀色の髪が薄暗い廊下で唯一の光源のように揺らめき、その背中は拒絶と孤高の城壁を築いていた。会話はない。ただ、二人の足音だけが、規則的な律動を刻んで高い天井へと吸い込まれていく。


 すれ違う生徒たちの反応は、異様としか言いようがなかった。

 談笑しながら歩いてきた数人のグループは、ミリアの姿を認めた瞬間に彫像のように硬直し、次いで弾かれたように壁際へと退いた。まるで不可視の刃が空間を切り裂き、彼らの生存本能を直接撫でたかのように。

 囁き声すら凍り付き、視線は地面へと縫い付けられる。誰も彼女を見ようとしない。あるいは、見てはいけないものを前にした時のように、畏怖と恐怖がない交ぜになった敬意を払って道を空ける。

 それはまさに、荒れ狂う海が神の御業によって割れる光景に似ていた。彼女が歩くその一点だけが、真空の静寂に包まれている。


 ルシアンはその「空白」の中を、彼女の影を踏まないように一定の距離を保って歩いた。

 背中に突き刺さる生徒たちの視線は、ミリアへの恐怖と、その後ろを平然と歩く「異物」であるルシアンへの困惑を含んでいた。だが、ルシアンの胸中を占めていたのは、周囲の反応への関心よりも、もっと根源的な違和感だった。

 なぜ、彼女の背中を見ていると、胸の奥底がざわつくのか。

 恐怖ではない。教官室で感じたあの圧迫感とも違う。それは、忘れかけた夢の続きを見せられているような、あるいは失くしたはずのないものがポケットから消えていることに気づいた時のような、正体不明の喪失感だった。


 ふと、背後の闇から風の音が響いた気がした。

 遠ざかる教官室の方角。閉ざされた扉の向こう、あるいは開け放たれた窓辺から漏れ出た独り言が、石の回廊を伝って鼓膜を微かに震わせる。


 ――壊さないでくれよ、お姫様。


 それは幻聴に近い、低く粘着質な響きだった。意味を成さない音の羅列としてルシアンの意識を掠めたが、振り返った時にはもう、長い廊下には誰もいなかった。ただ、魔術灯に照らされた石柱の影が、魔物の爪のように長く伸びているだけだ。


「……遅い」


 ミリアが立ち止まりもせず、氷の欠片のような声を投げかけた。

 ルシアンは思考を振り払い、早足でその背中を追う。回廊の尽き当たり、本校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下が、巨大な怪物の喉元のように暗い口を開けて待っていた。


 渡り廊下を抜けた先、旧校舎の空気はさらに淀んでいた。

 かつては生徒たちで賑わったであろう寮の廊下は、今は埃と静寂に支配されている。壁の燭台には蝋すら残っておらず、ミリアの足音だけが空虚に反響した。

 彼女は迷うことなく奥へと進み、突き当たりの一室の前で足を止める。


 軋んだ蝶番が悲鳴を上げ、重たい木製の扉が内側へと開かれた。

 途端、乾いた空気と共に、積もり積もった歳月の匂いが鼻腔をくすぐる。

 埃と古い木材、そして湿った石の香り。そこは、人が住むための部屋というよりは、主を失った屋敷の遺構のようだった。広さは無駄にあるが、調度品は最低限しか残されていない。

 窓から差し込む青白い魔術灯の光が、宙を舞う無数の塵を白く浮かび上がらせていた。


 ルシアン・フォルトは足を踏み入れ、板張りの床を軋ませた。

 部屋の奥には、煤けたレンガ造りの暖炉が冷たい口を開けており、その左右に質素な木製ベッドが二つ、対になって配置されている。片方のベッドにはシーツすらかかっておらず、もう片方もかろうじて寝具としての体を成している程度だ。


 静寂が、澱のように部屋の隅々にまで満ちている。

 広場の方角から微かに響く喧騒も、ここまでは届かない。世界から切り離されたような静けさが、今のルシアンには何よりも相応しい「檻」のように思えた。


 彼は部屋の中央まで進むと、肩に食い込んでいた革帯に手をかけた。

 背負っているのは、九歳の少年の体躯にはあまりに不釣り合いな鉄塊だ。身の丈ほどもあるバスタードソード。刃は潰れ、赤錆が浮きかけた、剣と呼ぶには無骨すぎる代物。だが、その質量だけは裏切らない。

 革帯を緩め、慎重に、しかし最後は重力に任せるようにして、それを部屋の隅へと下ろした。


 ――ゴォン。


 床板を震わせ、重く鈍い音が響き渡る。

 それは金属がぶつかる鋭い音ではなく、もっと腹の底に響くような、岩が落ちたような音だった。埃がふわりと舞い上がり、部屋の停滞した空気を揺らす。


 ルシアンは大きく息を吐き出し、強張っていた肩を回した。

 背中から重圧が消えると、身体がふわりと浮き上がるような錯覚に襲われる。だが同時に、皮膚の一部を剥ぎ取られたような心細さが胸を過った。

 彼は床に鎮座する「鉄の墓標」を見下ろした。

 変わり者の鍛冶屋から実験と称して託された、古びた鉄塊。魔力も才能も持たぬ自分が、この理不尽な世界で唯一頼れる物理的な質量。

 その冷たく黒ずんだ表面は、何も語らない。けれど、この圧倒的な重さだけが、ルシアンの存在をこの世界に繋ぎ止めるいかりのように感じられた。


「ここが……俺の部屋……」


 呟いた声は、驚くほど吸い込まれるように消えた。

 壁に染み付いた静寂が、彼の声を優しく飲み込んでいく。


 コツ、コツ。


 不意に、背後から硬質な足音が響いた。

 ルシアンが振り返るより早く、銀色の風が彼の横を通り過ぎる。ミリアだ。

 彼女は部屋の惨状など意に介する様子もなく、埃を被ったもう一つのベッド――シーツすらない方へと、ためらいなく座り込んだ。

 まるで、最初からそこが自分の定位置であったかのように。

 窓から差し込む青い光が、彼女の白磁のような横顔を照らし出す。その瞳は何も映しておらず、ただ虚空を見つめていた。


 ルシアンは息を呑んだ。

 これから、彼女と二人。この「檻」で暮らすことになるのだという現実が、冷たい質量を持ってのしかかってくる。

 だが不思議と、嫌悪感はなかった。

 鉄塊の主と、氷の人形。

 ともに世界から弾き出された「異物」同士が、こうして同じ場所に吹き溜まるのは、あるいは必然なのかもしれない。






 部屋の隅で明滅する魔術灯は、その命数を悟ったかのように弱々しく、頼りない。代わってこの旧校舎の一室を支配していたのは、暖炉で爆ぜる薪の赤色だった。揺らめく炎が、粗末な石壁にルシアンの影を長く、そして不安定に引き伸ばしている。そこにあるのは放棄された廃墟の静けさではなく、誰も触れようとしなかった時間が澱のように積もった、重苦しい沈黙だった。


 ルシアンは軋むベッドの縁に腰を下ろし、懐から無造作な包みを取り出した。

 脂の染み込んだ、厚手の紙だ。指先に伝わるのは、古びた革の油と、微かに鼻を突く鉄錆めいた血の匂い。それはこのギルドという場所そのものの臭気であり、彼がこれから身を投じる世界の匂いでもあった。


 脳裏をよぎるのは、ギルドの去り際に背中を叩いてきた男の顔だ。頬から顎にかけて大きな古傷が走る、荒くれ者の戦士。

「シケた面を見せんじゃねえよ」

 吐き捨てるような言葉と共に、男はこの包みをルシアンの胸に押し付けた。その乱暴な手つきと、不釣り合いなほど僅かな重み。ルシアンは当然、それが旅の糧となる干し肉の切れ端か何かだと思っていた。生きるために噛み砕く、味気ない筋肉の繊維だと。


 だが、結び目を解く指先は丁寧だった。彼にとって、それは他者から与えられた数少ない「善意」の形だったからだ。

 紙が開かれ、中身が露わになる。

 その瞬間、暖炉の炎が琥珀色の輝きを捉えた。


「……え?」


 漏れ出たのは、音にもならない吐息だった。

 そこに在ったのは、干からびた肉ではない。蜂蜜に漬け込まれ、飴色に透き通った木の実とドライフルーツだった。とろりとした粘度を持つ黄金の液体が、頼りない魔術灯の光さえも吸い込み、まるで宝石のように濡れた光沢を放っている。


 胸の奥、心臓の裏側あたりを、見えない指で強く抓まれたような感覚が走った。

 これは保存食ではない。嗜好品だ。子供をあやすために与える、甘い菓子だ。

 あの凶相の戦士は、身の丈に合わない真新しい制服に身を包み、壊れてしまったショートソードを抱えたルシアンの中に、ただの腹を空かせた子供を見ていたのだ。

 その事実は、ルシアンの予想を裏切り、同時にどうしようもない安堵と痛みをもたらした。孤独だと信じ込んでいた灰色の世界に、蜘蛛の糸ほどの細さで、けれど確かな体温を伴った「繋がり」が垂らされている。


 遠く離れた場所、書物に埋め尽くされた静謐な学者の部屋で、ミリア・レーンフェルはその光景を「視て」いた。

 彼女の瞳は、ガラス玉のように冷徹に、ルシアンの手にある有機物を捉えている。蜂蜜の粘度、ナッツの形状、そしてルシアンの脈拍が僅かに乱れ、体温が上昇する生理反応。

 すべてはデータであり、観察対象の変移に過ぎない。

 だというのに、彼女自身の胸にも、説明のつかないさざ波が立っていた。

 それは甘美な痛みに似ていた。ルシアンが感じている戸惑いと温かさが、共鳴するように彼女の空虚な器を満たそうとする。理解できない。けれど、その琥珀色の光を見つめていると、知らないはずの記憶が呼び覚まされるような、切ない郷愁が喉元まで込み上げてくるのだった。



 ルシアンは手の中にある琥珀色の粒を見つめ、それから視線をミリアへと向けた。彼女はただそこに在るだけで、何も求めてはいない。だが、その瞳の奥にある飢餓感を、ルシアンは肌で感じ取っていた。

 彼は喉の奥で何かを飲み込み、不器用に言葉を紡ぐ。


「……一緒に食べるか?」


 それは、彼にできる精一杯の歩み寄りだった。

 ミリアの反応に躊躇いはなかった。合理的判断なのか、それとも生物としての根源的な欲求なのか。彼女は即座に、しかし静かに答える。


「頂くわ」


 彼女が手を差し出す。ルシアンがその掌に半分に割った琥珀色の粒を落とす際、指先同士がふいに触れ合った。

 ルシアンの指先は魔力の行使による余熱で熱病のように熱く、対してミリアの指は、冬の朝に触れる陶器のように冷たく硬質だった。

 極端な温度差が一瞬の火花のように神経を走り抜け、二人の間に横たわる決定的な「違い」を浮き彫りにする。


 ミリアは気にした様子もなく、固められた穀物と果実の塊を口元へ運んだ。

 カリッ、と乾いた音が室内に響いた。


 硬い触感が砕け、その内側からねっとりとした蜂蜜の濃厚な甘みが溢れ出す。

 続いて、ドライフルーツの凝縮された鋭い酸味と香りが鼻腔をくすぐり、ナッツの油分が舌の上で溶け出した。



「……甘い」


 ぽつりと、ミリアが漏らす。

 その声は物理的な音声でありながら、いつもの無機質な響きではなく、奇妙な湿度を帯びていた。

 ルシアンがふと顔を上げ、彼女を見る。

 息を呑んだ。

 ミリアの表情は変わっていない。鉄面皮のままだ。だが、その硝子細工めいた瞳が、潤んでいる。

 涙ではない。感情の発露によるものでもない。ただ、眼球というレンズの表面に水分が満ち、生体反応としての揺らぎを見せているのだ。

 彼女自身は、その変化に気づいていないようだった。ただ、口の中に広がる甘さが、かつて知っていた何かのように愛おしく、同時に、その正体が掴めないことへの空虚な欠落感だけが、彼女の胸の内に広がっていた。


 会話はそこで途切れた。

 けれど、二人の間に落ちた沈黙は、先ほどまでの重苦しいものではない。共有された静寂だった。

 パチリ、と暖炉の薪が爆ぜる音がやけに大きく響く。

 世界という巨大なシステムから弾き出された二つの「欠陥品エラー」が、この狭く薄暗い部屋でだけは、呼吸を許されている。

 静かで、暗い温かさが、夜の底に沈殿していった。

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