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アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜  作者: アズマ マコト
第1章

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EP1-10:純白の静寂

 親指の腹に食い込む羊皮紙の縁が、現実を突きつけてくる。

 粗悪な紙質のざらつき。乾ききっていないインクの刺激臭。それが鼻腔の奥にこびりついている鉄錆のような血の味――常にルシアンの喉元にある『内燃』の予兆――と混ざり合い、胃の腑をねじ切るような吐き気を催させていた。


 ルシアンは掲示板の前で硬直していた。

 視界の端で、煤けたランプの灯火が揺れる。夕暮れの冒険者ギルドは、死地から生還した荒くれ者たちの熱気と体臭、エールの匂いで飽和していた。ジョッキが砕けんばかりにぶつかり合う音、下卑た哄笑、軋む床板。それら生命の喧騒すべてが、分厚い防音ガラスの向こう側にある出来事のように、ひどく遠く、くぐもって聞こえる。


 暖炉の薪が爆ぜた。

 その破裂音に、ルシアンの心臓が不快に跳ねる。床に伸びた自分の影が歪み、足首に絡みつくのを視界の隅で捉えた。

 この場所の「暖かさ」は、もはや自分のものではない。自分はここにいる人間とは違う、別の生き物になってしまったのだ。


 視線は、紙面の下部に記された小さな但し書きの一行に焼き付いていた。


『――ただし、魔力制御(内燃抑制)に関する特別補習の受講を条件とする』


 合格通知。その事実よりも、「条件付き」という文字の冷たさが、鉛となって内臓を冷やしていく。

 やはり自分は欠陥品なのだ。体内に爆弾を抱えた、制御不能の廃棄物。それが公的な文書として証明されたに過ぎない。指先から滲み出る冷や汗が羊皮紙を汚すのを恐れ、ルシアンは無意識に指の力を緩めた。


「おい、見たぞルシアン!」


 背中に走った物理的な衝撃に、肺の空気が強制排出された。

 咳き込みながら振り返ると、そこにはカイルが立っていた。入念に磨き上げられた胸当てがランプの光を反射し、網膜を焼くほどに眩しい。

 カイルは屈託のない笑みを浮かべ、大きな手でもう一度、今度は骨が鳴るほどの強さでルシアンの肩を叩いた。


「やったじゃねえか! 『合格』だろ? これでお前も、あのでかい門をくぐれるってわけだ」


 カイルの声は大きく、よく通る。その陽性の響きは、周囲に淀む鬱屈とした空気を一瞬で払い除ける力を持っていた。

 だが、ルシアンにとってその光は、直視するにはあまりに強すぎる。カイルの瞳には一点の曇りもなく、純粋な祝福の色だけが浮かんでいる。その無邪気さが、ルシアンの胸の奥で燻る劣等感を鋭利な刃物のように抉った。


「……ああ、うん。ありがとう、カイル」


 喉に焼け焦げた砂が詰まったような、擦れた声が出た。

 頬の筋肉を引きつらせて笑おうとしたが、表情が正しく機能した自信はない。カイルには、この通知書の「条件」が見えていないのだろうか。それとも、そんな些細な傷など気にする必要もないほど、彼が見ている世界は輝いているのか。


「俺も負けてらんねえな。剣の腕なら誰にも遅れをとるつもりはねえけど、お前が先に行くってんなら、俺も全力で追いかけるさ」


 カイルは拳を突き出し、ルシアンの胸骨を軽く小突いた。それは戦友に向ける信頼の証であり、同時に「俺たちは対等だ」という宣言でもあった。

 ルシアンは胸に残る拳の感触に、微かな痛みを覚えた。対等なんかじゃない。自分はただ、血管の中を流れる火薬が爆発しないように、薄氷の上を歩いているだけの怪物だ。


「……あんまり、浮かれるなよ」


 喧騒を切り裂くように、低く、冷ややかな声が落ちてきた。

 カイルの背後、柱の影にエルナが立っていた。彼女は歓喜の輪には加わらず、腕を組んでルシアンを見据えている。その視線は、ルシアンが必死に隠そうとしている通知書の但し書きを、正確に射抜いていた。


 カイルが不思議そうに振り返る。「なんだよエルナさん、水差すなよ。めでたい話だろ?」


「事実を言っただけだ」

 エルナは表情を凍らせたまま、ルシアンへと歩み寄る。彼女が近づくと、周囲の気温が数度下がったような錯覚を覚えた。彼女はルシアンの目の前で立ち止まり、視線を合わせる。その瞳は深海のように静かで、底が見えない。


「その紙切れ一枚で、何かが保証されたわけじゃない。お前がこれから行く場所は、ここみたいにぬるい酒も、甘い言葉も出ないぞ」


 エルナの言葉は、詩的な比喩ではなかった。

 物理的な寒気。肌を刺すような冬の風の予感。

 彼女はルシアンが抱える「後ろめたさ」も、自身の内側にある破壊衝動への恐怖も、そしてこれから直面する世界の冷徹さも、すべて理解した上で告げているのだ。


「……わかってる」


 ルシアンは、ようやくそれだけを絞り出した。自分の声が、他人のもののように頼りなく響く。


「外は寒いぞ、ルシアン」


 エルナは短くそう言い捨てると、踵を返して喧騒の中へと消えていった。

 カイルは「相変わらず愛想がねえな」と苦笑し、再びルシアンの背中を叩いて、仲間たちの呼ぶ方へと戻っていく。


 取り残されたルシアンの周りだけ、音が吸い込まれたような空白が生まれた。

 握りしめた羊皮紙の感触だけが、唯一の現実だ。

 暖炉の火はまだ燃えているはずなのに、ルシアンの指先は凍えるように冷たく、もう二度とこの場所の熱を感じることはできないのだと、身体が理解していた。


 ***


 糊の効きすぎた純白の襟が、喉元に冷たい刃物のように食い込んでいた。


 袖を通したばかりのフォルティア魔法学院の制服。それは、この掃き溜めには存在しないはずの「異界の鎧」だ。生地は拒絶的に硬く、関節を曲げるたびに皮膚を擦る。これまで身に纏っていた、油と泥と鉄錆の染み込んだチュニック――あの皮膚の一部と化したような親密な柔らかさは、もうどこにもない。

 ルシアンは、ひび割れた姿見の前で、借りてきた猫のように強張っていた。鏡の中の少年は、高価な包装紙に包まれた紛い物のようで、ひどく滑稽に見える。


 三階の個室。窓板の隙間から、朝の光が細い筋となって差し込んでいる。

 それは希望を象徴するような黄金色などではない。部屋中を浮遊する埃を白々と暴き立てる、病的なまでに乾いた光だった。光の筋の中で、微細な塵が泳いでいる。使い古されたベッドの縁、床にこびりついた正体不明のシミ、壁に刻まれた無数の傷。それらが、この朝の薄明かりの中でだけ、妙に生々しく主張していた。


(……息が、詰まる)


 ルシアンは胸元のボタンに触れた。指先が微かに震えている。

 この部屋の空気には、階下から昇ってくる安酒の残り香と、建材の湿った黴の臭い、そして男たちの汗が発酵したような饐えた体臭が染み付いている。以前なら顔をしかめていたかもしれないその悪臭が、今は暴力的なまでの「生存の熱」として肺を満たした。

 ここは、掃き溜めだ。けれど、凍える夜に身を寄せ合う獣の巣のような、確かな熱があった。

 これから向かう場所には、この熱はない。


 ルシアンは足元の鞄を拾い上げた。中には、母の形見である古びた本と、着替えのシャツ、そしてあの奇妙な黒い石が入っている。

 そして鞄の脇には、先日の依頼で亀裂が入った貸与品のショートソードが、ボロ布に包まれて括り付けられていた。荷物は少ないはずなのに、指に食い込む革の持ち手は、鉛を詰め込んだように重かった。


 部屋を出て、軋む階段を降りる。

 一段降りるたびに、背中の後ろで「過去」という名の水門が一つずつ閉ざされていく錯覚を覚えた。


 一階の酒場兼共有スペースは、まだ夜明け前の静けさと、昨夜の喧騒の残滓が混ざり合っていた。

 早起きの数名が、木製の長テーブルに突っ伏して眠っているか、気怠そうに水差しを煽っていた。ルシアンの足音が響くと、数人の視線が彼に向く。

 その視線は、異物を見る目だ。この薄汚れた空間に、真新しい制服はあまりにも白く、浮いていた。


「……へっ、馬子にも衣装だな」


 しわがれた声がした。

 カウンターの隅で、二日酔いの頭を抱えていた古参の冒険者が、顔も上げずに吐き捨てた。

 ルシアンが足を止めると、男はようやく顔を上げ、充血した目でルシアンをねめ回した。嘲笑ではない。値踏みするような、それでいてどこか諦めを含んだ目だった。


「おい」


 不意に、背後から衝撃が走った。

 誰かに背中を思い切り叩かれたのだ。肺の空気が強制的に吐き出され、ルシアンはよろめいた。

 振り返ると、顔に大きな傷を持つ戦士が立っていた。ギルドでも一、二を争う荒くれ者だ。彼はルシアンが痛みに顔を歪めるのを見て、鼻を鳴らした。


「背筋伸ばせ、ガキ。そんなツラで歩いてたら、初日で食い殺されるぞ」


 男の掌は分厚く、硬く、そして熱かった。叩かれた背中のジンジンとした痛みが、皮膚の下で熱源となって広がる。

 それは激励のエールではない。

「ここにはもう戻れないと思え」という、手荒な引導だった。


「……分かって、ます」


 ルシアンの声は、喉の渇きで掠れていた。

 男は無言で、ルシアンの胸に何かを押し付けた。油紙に包まれた、歪な塊だ。中身が何であるかは分からない。干し肉か、あるいは彼らが魔除けと信じている獣の骨か。

 油紙の感触はべたついていて、指先に不快な脂を残す。その汚れは、純白の制服にとって致命的な汚点になりかねない。だがルシアンはそれを拒まず、その「汚れ」こそが彼らの体温そのものであるかのように、強く握りしめた。


「さっさと失せろ。シケた面を見せるな」


 男はそれだけ言うと、もうルシアンに興味を失ったように背を向け、仲間の方へ歩き出した。

「あいつ、泣いてんじゃねえか?」「賭けはどうする、三日で逃げ帰るに銀貨一枚だ」

 下卑た笑い声が聞こえる。彼らは決して「頑張れ」とは言わない。「待っている」とも言わない。

 ただ、その乱暴な振る舞いの裏側に、べっとりと湿った情愛がへばりついているのを、ルシアンは痛いほど感じ取っていた。


 胸の奥に、重く熱い塊が沈殿していく。

 それは喜びではない。鈍痛だ。

 彼らの期待、あるいは「俺たちのようにはなるな」という無言の祈りが、ルシアンの足首に絡みつく鎖となって食い込む。

 愛されるということは、これほどまでに苦しいことなのか。

 この痛みは、逃げ道を塞ぐ錨だ。これからどんなに冷たく、理不尽な世界に放り込まれようとも、この背中の痛みがある限り、自分は安易に膝をつくことすら許されない。


 ルシアンは鞄を持ち直し、彼らの背中に向かって小さく一礼した。

 言葉は出なかった。何か言えば、決意の形をした仮面が崩れ落ちそうだったからだ。


 ギルドの重厚な扉の前に立つ。

 ノブは冷たく、手汗で少し滑った。

 背後には、澱んだ空気と、男たちの体臭と、息苦しいほどの温もりがある。

 前方には、まだ見ぬ冷徹な世界がある。


 ルシアンは息を止め、ノブを回した。


 蝶番が断末魔のような軋みを上げ、重い扉が開く。

 途端、剃刀のような外気が吹き込んだ。

 頬を切り裂くような冷たさに、ルシアンは思わず身を強張らせる。

 寮の中の温まった空気が、外気と触れて白く煙り、あっという間に霧散していく。


「……っ」


 その温度差こそが、境界線だった。

 ルシアンは制服の襟をかき合わせることなく、その寒さを全身で受け止める。

 背後の温もりを断ち切るように、彼は重い扉を背中で押し閉め、色のない朝の通りへと一歩を踏み出した。


 ***


 フォルティア魔法学院、講堂。

 その空間を支配していたのは、酸素ではなく、肺を焼くような甘ったるい粘性の霧だった。


 天井は遥か高く、極彩色のステンドグラスが天蓋のように世界を塞いでいる。そこから降り注ぐ光は、本来ならば温かな祝福であるはずだった。だが、ルシアンの網膜には、それは冷たく研磨された「黄金の針」として突き刺さる。


 光は、参列する貴族の子息たちが纏う絹や、首元で冷笑するように輝く宝石に反射し、鋭利な輝きとなってルシアンの視界を白く焼く。

 肺を満たすのは、幾重にも塗り重ねられた香油の悪臭だ。花々の芳醇さを煮詰め、腐敗する寸前で凝固させたようなその香りは、呼吸をするたびに肺胞の裏側にべっとりと張り付く。


 ルシアンは、無意識に喉元へ手を伸ばしかけ、その指を硬直させた。

 着ているのは、支給されたばかりの真新しい制服だ。だが、この場においては、それは衣服とさえ呼べない。周囲の生徒たちが纏う、個別に仕立てられたであろう流麗なローブに比べれば、量産品のそれはただの布切れのようだった。糊のききすぎた襟が、首筋にやすりをかけるように擦れる。その不快な感触だけが、ここが現実であるという残酷な証明だった。


 波のように押し寄せる、無機質な絹鳴りの連鎖。

 それは、ルシアンという異物を拒絶するために張られた結界のノイズのように鼓膜を叩く。


(場違いだ)


 思考の奥で、過熱した警鐘が鳴り止まない。

 極彩色の毒蛇の巣に、ただ一匹放り込まれた鼠。いや――宝石箱に紛れ込んだ、**泥だらけの不発弾**。それが今の自分だ。胃の腑が縮み上がり、内臓が冷たい手で鷲掴みにされているような吐き気を覚える。逃げ出したいという衝動が、足の筋肉を強張らせる。だが、靴底が床に溶接されたように動かない。


 そのときだった。

「黄金の針」と「毒の霧」の向こう側から、視線を感じた。


 それは、周囲の貴族たちが向ける、汚物を見るような侮蔑の目とは違っていた。

 もっと無機質で、透明で、それゆえに底知れない「何か」だ。


 ルシアンは、恐る恐る顔を上げた。

 人垣の隙間、特等席に近い場所に、銀色の髪が揺らめいているのが見えた。


 ミリア・レーンフェル。

 彼女は、そこにいた。


 目が合った、と思った。

 だが、すぐにその感覚が誤りだと悟る。

 彼女の瞳は、あまりにも透き通っていた。美しいが、そこには温度がない。まるで精巧に磨き上げられた硝子玉か、あるいは顕微鏡のレンズだ。

 彼女はルシアンを見ているのではない。ルシアンという輪郭の内側にある、数値や構造、あるいはエラーデータを読み取ろうとしている。


 瞬きひとつしない凝視。

 好意も、悪意も、興味さえもない。ただ「在る」ものを「観測」するだけの、空虚な瞳孔。

 背筋を、氷柱でなぞられたような悪寒が走った。物理的な距離はあるはずなのに、心臓の鼓動を直接指で触れられているような、不気味な感覚。


「……おや」


 不意に、優雅で、しかし毒を含んだ声が近くで落ちた。

 豪奢な金糸の刺繍が入ったローブを纏う二人の男子生徒――ウォルフとリードが、扇で口元を隠しながらルシアンを見下ろしている。


「どこの馬の骨とも知れぬ者が、美しい空気を濁していると思っていたが……」


 ウォルフが、わざとらしく鼻の前で手を振った。その仕草は、路端の汚泥を避ける時のそれだ。隣に立つリードが、薄い唇を歪めて追従する。


「全くだね、ウォルフ。清浄なる学び舎に、野良犬が迷い込むとは。……だが、見給え」


 リードの視線が、ルシアンを通り越し、その向こうにいるミリアへと注がれる。


「あのお人形・・・が、反応しているよ」


「ほう?」


 ウォルフの瞳に、残酷な好奇心の色が灯った。

 彼らはルシアンを人間として認識し直したのではない。ミリアという「希少な観測機器」が針を振れた対象として、ルシアンという「検体」に価値を見出したのだ。


「あの感情のないミリア嬢が、あそこまで凝視するとはね。……おい、君」


 ウォルフがルシアンに声をかける。名前を呼ぶつもりなど毛頭ない、道具への呼びかけ。


「せいぜい、壊れないように踊ってみせたまえよ。我々の退屈しのぎくらいには、なるかもしれないからな」


 くすり、と上品な笑い声が漏れる。

 それは周囲の衣擦れの音と混じり合い、ルシアンの周囲に不可視の壁を形成していく。


 ルシアンは唇を噛んだ。鉄の味がした。

 ミリアの無機質な視線は、まだ外れない。

 冷たく硬い光の下、ルシアンは自らの影が、床の闇に飲み込まれていくのを感じていた。


 ***


 その様子を、遥か高みから見下ろす視線があった。

 講堂の二階、特別観覧席。そこに、学院の威信を背負う二人の男の姿があった。


「……珍しいですね。あの『氷の令嬢』が、特定の個人にあそこまで執着を見せるとは」


 低い声で呟いたのは、若き実技教官、ヴァンス(・・・・)だ。鋭利なナイフのような美貌を持つ彼は、手すりに肘をつき、眼下の光景――ルシアンとミリア、そして彼らを取り巻く貴族たちの喧騒を、冷ややかな瞳で分析していた。


「……ふむ」


 重厚な頷きを返したのは、学院長アルフレッド・ライムベルク。

 白髪混じりの髪を撫でつけ、彫りの深い顔に厳格な影を落とした老紳士は、その鋭い鷲のような眼光で、ルシアンという異物を射抜いていた。


「今年度の『特待枠』……魔力炉の出力だけなら、過去十年で五指に入る。だが、制御系が壊滅的だ。本来なら、この清浄なる学び舎に入れるべきではない劇薬だよ」


 アルフレッドの声には、苦渋と、そして微かな期待が混じっていた。

 彼は知っている。この平和に見える学院が、一皮剥けばどれほど危うい均衡の上に成り立っているかを。そして、あの少年がもたらすものが、破滅か、それとも革新か。


監視対象マークですね」

「ああ。特に、ミリア嬢との接触は注視しなさい。……おかしな化学反応が起きなければ良いが」


 アルフレッドの懸念は、講堂のざわめきに吸い込まれて消えた。


 ***


 天井の光源は、太陽の慈悲など微塵も持ち合わせていなかった。

 手術台を照らす無影灯のごとき青白い光が、石造りの試験場を冷徹に暴き立てている。床も壁も、継ぎ目のない灰色の素材で塗り固められ、塵ひとつ落ちていない。その病的なまでの清潔さは、有機的な生命の「体温」を拒絶する、一種の暴力性を孕んでいた。


 大気は異常なほど乾いていた。

 呼吸をするたびに喉の奥が張り付き、肌の表面では静電気が見えない刺となって粟立つ。古びた羊皮紙やインクの匂いなど、ここには存在しない。鼻腔を焼くのは、研磨された金属同士が擦れ合い、オゾンが焦げ付いたような、鋭利で人工的な臭気だけだった。


 この完全なる無菌室において、ルシアンという存在だけが明らかな異物エラーだった。

 凍てつくような静寂の中で、彼だけが荒い排気音のような息を吐き、過剰な熱を放射している。全身の毛穴から滲み出る脂汗は、オーバーヒートした機械から漏れるオイルのように頬を伝う。肋骨の檻の中で暴れる心臓の鼓動が、部屋の空気を物理的に振動させている錯覚さえ覚えるほどだ。


「課題番号、一〇四。基礎術式『火球』の生成」


 この測定・・・・は、単なる合格・不合格の判定ではない。

 生成された火球の大きさ、熱量、そして安定性。それらを数値化し、生徒たちの「器」としてのランクを決定する選別儀式だ。この結果が、これからの学院生活における待遇――クラス分けや、寮の部屋割りまでも決定する。

 優秀な「燃料」には快適な保管庫(個室)が、そうでない者には相応の雑居房が与えられる。実に合理的で、残酷なシステムだった。


 試験官の声には、感情というノイズが一切混じっていなかった。人間というよりは、この冷たい部屋に備え付けられた音声装置の一部だ。彼は手元のクリップボードに視線を落としたまま、氷の刃で空気を切り裂くように淡々と告げる。


指定手順プロトコルに従い、励起を開始せよ。第一段階、対象座標における大気中水分の凝集。第二段階、マナ干渉による分子結合の乖離。水素と酸素の分離比率は二対一を維持すること」


 ルシアンの喉が、渇きで痙攣した。

 虚空を睨みつける視界が、熱波のせいで歪んでいる。

 彼という器に搭載された「魔力炉」は、燃料さえ注げば爆縮を起こし、破壊的な推力を生む単純かつ凶悪な構造をしていた。だが今、彼に求められているのは、その唸りを上げる魔力炉を稼働中に解体し、ピンセットで部品を並べ替えるような繊細で狂気じみた作業だった。


「第三段階、静電界の形成による点火トリガーの構築。尚、周囲への熱拡散は三パーセント以内に抑制すること」


 言葉の羅列が、ルシアンの脳内で異物となって転がり回る。

 生理的な拒絶反応が胃の腑からせり上がった。内臓の位置が強引にずらされたような不快感。本能が「その手順は間違っている」と警鐘を鳴らす。火とは、熱とは、もっと直感的で、溢れ出し、すべてを喰らい尽くすものではないのか。


「赤き熱よ、集いてつぶてとなれ……! 《Ignisイグニス……Convergeコンバージ……Sphaeraスフィア……》」

 ルシアンは震える右手を突き出した。

 意識を集中させ、体内の魔力回路を開放する。堰を切って溢れ出そうとする奔流を、理性という名の脆い壁で無理やり押し留め、試験官の言う「極細の管」へと誘導しようと足掻く。


(凝集……乖離……比率……)


 思考が泥沼に沈むように重い。

 指先が痙攣し、視界の端で青白い光が明滅を始めた。それは照明の不調ではない。視神経が過負荷に耐えきれず、悲鳴を上げているのだ。

 限界水圧がかかったダムの放水口を、たった一本の指で塞ごうとしている――そんな絶望的な閉塞感。逆流した魔力が血管の内壁を削り取りながら暴れ回る。


「励起反応、不安定。第四工程への移行を確認できず」


 試験官の声が、分厚いガラス越しのように遠く、鈍く響く。

 ルシアンの奥歯が、砕けんばかりに噛み締められた。

 思考回路そのものが、熱した鉄板の上で焦げ付くような激痛。計算ではない。理解不足でもない。規格外の巨大な部品を、繊細な時計仕掛けの中に無理やりねじ込まれた機械が、軋みを上げて崩壊していく物理的な苦痛だ。


 脳髄の奥底に、鋭利な針を突き立てられたような高周波の耳鳴りが走った。

 眼球の裏側が焼ける。

 制御しきれない魔力が、行き場を失って体内を荒れ狂う。思考を繋ぎ止めていたヒューズが焼き切れ、意識が唐突な暗転を迎えた。


「ぐ、ぅ……ッ!」


 苦悶の唸り声と共に、ルシアンの突き出した掌から、不吉な煙が漏れ出した。

 炎は生まれなかった。

 ただ、不完全燃焼を起こした黒い煤が、窒息したように立ち上り、乾燥した空気に吸われて消えただけだった。


 試験官はペンを走らせる音さえ立てず、ただ無機質な瞳でルシアンを見下ろした。

 ルシアンは膝から崩れ落ち、乾いた咳を吐き出す。

 口の中に広がるのは、濃厚な鉄錆の味。鼻腔からあふれ出た重く熱い液体が、粘度を持って垂れ落ち、床の無機質な灰色の上に、鮮烈な赤の染みを作る。


 それは、あまりにも無様で、痛々しい「不適合」の証明だった。


 ***


 世界の色が、死んだ。


 夕暮れが帯びていた朱も、石畳の冷ややかな灰色も、すべてが極限の熱量によって漂白され、視界は露出過多の写真のように白く飛びかけている。


 鼓膜の内側で、あるいは血管の深奥で、血液そのものが沸騰する微細な破裂音が絶え間なく響いていた。

 呼吸ができない。肺腑に取り込むべき酸素は、喉を通る刹那に熱で焼き尽くされ、灰になっている。鼻腔を犯すのは雨上がりの土の匂いなどではない。高濃度のオゾンと、錆びた鉄、そして生物が炭化する寸前に放つ甘ったるい警告臭だ。


(あ、だめだ)


 思考が、飴細工のように熱で溶け落ちていく。

 そこに怒りや恐怖といった感情の居場所はない。あるのは、自身の肉体という脆弱な「器」が、内側から膨張する臨界のエネルギーに耐えきれず、メキメキと亀裂を走らせていく感覚だけだ。

 指先の感覚はとうに消失し、視界は急速に狭まるトンネルと化し、その切断面で白光が渦を巻いている。


 制御など、最初から叶うはずもなかった。

 教官の説く優雅な理論も、教科書の整然とした術式も、この圧倒的な熱暴走オーバーヒートの前では燃えカスの紙屑に過ぎない。

 ルシアンの体内にあるのは、清らかな魔力の泉ではない。世界そのものを薪にくべて燃え上がる、排気口のない溶鉱炉だ。

 逃げたい。この呪われた出力から、この場所から、自分自身という牢獄から。

 だが、足は地面に溶接されたかのように動かない。いや、石畳の方が溶解し、ルシアンという熱源を飲み込もうとしているのか。


「あ、ぐ……ぅ、あ……ッ」


 喉から漏れ出たのは、言葉の体をなさない気泡のような音だった。

 内臓が裏返るような嘔吐感。けれど吐き出すものはない。代わりに、魂の底から汲み上げられた破壊の衝動だけが、食道を焼き爛れさせながらせり上がってくる。

 境界線が消失する。

 ルシアンという個体の輪郭が崩れ、ただの「爆心地」へと変質していく。

 その絶望的な白色化ホワイトアウトが、臨界点を超えようとした――その刹那。


 灼熱の炉心に、巨大な氷柱が突き刺さったような衝撃が走った。


「――ッ!?」


 背中。

 燃え盛るルシアンの背に、何かが激突していた。

 物理的な重み。そして、皮膚が悲鳴を上げるほど鋭利で、暴力的なまでの「冷たさ」。


 誰かの腕が、ルシアンの胴を万力のように締め上げていた。

 肋骨がきしむほどの強さで。決して逃がさない、とでも言うように。

 背中に押し付けられた衣服の感触、その奥にある華奢な肉体の硬質な感触。

 そして、耳元で聞こえる、早鐘のような心臓の鼓動。


「……じっとして」


 鈴を転がすような、しかし感情の色が完全に抜け落ちた声。

 ミリアだ。

 なぜ彼女がここにいるのか、どうやってこの致死的な熱量の中に飛び込んできたのか、思考する余裕などない。

 ただ、彼女が触れている接触面から、ルシアンの体内へ、異質な何かがねじ込まれてくる感覚だけが鮮明だった。


 それは、沸騰した血管に冷たい水銀を無理やり注入されるような、重苦しく、それでいて劇薬のような異物感だった。

 ルシアンの中で暴れ狂う、形を持たない膨大な熱量。

 そこに、ミリアという精緻な「回路」が、強引に接続レゾナンスされる。


 錆びついた歯車が無理やり噛み合うような、耳障りな不協和音が頭蓋骨を揺らした。


 魂と魂が直接擦れ合い、互いの輪郭を削り取るような、不快で、それでいて身震いするほどの高揚感。

 ルシアンという「燃料」を、ミリアという「機関」が飲み込み、咀嚼し、形を与えていく。

 回路が焼き切れる寸前のきしみ、あるいは奥歯が砕けそうなほどの圧力が脳髄を駆け巡る。

 痛い。熱い。冷たい。苦しい。

 けれど、拡散して霧散しようとしていた意識が、その鮮烈な痛みによって現実に縫い留められる。


(彼女が、燃えてしまう……!)


 ルシアンの恐怖が、自身の崩壊から彼女の安否へと向いた瞬間、体に回された腕がさらに強く食い込んだ。

 彼女は離れない。

 むしろ、その冷徹な魔力を、ルシアンのコアへと深く、深く突き刺してくる。


出力レート、同調。座標、固定』


 彼女の思考が、言語を介さず直接脳幹に焼き付けられた。

 瞬間、全方位へ拡散しようとしていた「死の白」が、銃口を絞るように、ただ一点、前方へと収束する。


 暴発ではない。

 これは、指向性を持った捕食だ。


 ルシアンの喉から、獣の咆哮が迸る。

 同時に、突き出された両掌から、世界を塗り潰す光が放たれた。


 音は、置き去りにされた。

 あまりのエネルギー密度に、大気が振動する暇さえ与えられなかったのだ。

 青を超え、紫を超え、色彩の概念すら焼き尽くした「純白」の奔流。

 それは訓練場の標的を、背後の防壁を、そしてその先にある空間そのものを、ただ静かに、しかし絶対的な拒絶をもって消滅させた。


 網膜が白く焼かれる。

 永遠にも思える数秒の後、光が唐突に途切れた。


 残されたのは、抉り取られた地面と、赤熱し陽炎のように揺らぐ大気。

 そして、鼓膜が痛くなるほどの圧倒的な静寂だった。


 ルシアンは膝から崩れ落ちた。

 全身の筋肉が断裂したかのような脱力感。

 だが、倒れる寸前で、背中の「錨」が彼を支えていた。


「……は、ぁ……っ、は……」


 過呼吸のような喘鳴だけが、静まり返った訓練場に響く。

 ミリアの腕が、ゆっくりと拘束を緩めた。けれど、まだ離れない。

 彼女の額が、ルシアンの汗ばんだ背中に押し付けられているのがわかる。

 彼女もまた、呼吸を乱し、小刻みに震えていた。


 周囲にいた教官や、他の参加者たちは、誰一人として声を上げなかった。

 悲鳴すら上がらない。

 彼らの表情に張り付いているのは、優れた魔法を見た時の賞賛ではない。

 生物として、決して触れてはならない「禁忌タブー」を目撃してしまった者の、原初的な畏怖だった。


 あまりにも静かで、あまりにも白い、死の残滓。

 ルシアンの視界が、ゆっくりと暗転していく中で、背中にへばりつく温もりだけが、彼がまだ人であることを繋ぎ止めていた。

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