EP1-9:地下回廊の邂逅
【フォルティア魔法学院・地下試験場】
地下特有の湿り気を帯びた空気が、肺の奥底に重く沈殿していた。
粗削りの石壁に等間隔で掲げられた松明が、頼りない橙色の光を投げかけている。その揺らめきは希望というよりも、今にも尽きそうな命の灯火に似ていた。
「――風よ、翼なきものに慈悲を。『Haizea』」
静寂を破り、涼やかな詠唱が響く。
試験台の前、仕立ての良いローブを纏った一人の少年が、象牙の短杖を優雅に振るった。
瞬間、彼の手元に淡い緑色の光が走る。光は空中に複雑な「幾何学模様」――魔法陣を描き出し、精緻な回路となってマナを吸い上げた。
次の瞬間、重いはずの岩塊が、まるで重力という枷から解き放たれたかのように、音もなくふわりと浮き上がった。
「素晴らしい。完璧な制御だ。次!」
試験官の声とともに、岩は滑らかに台座へと着地し、魔法陣が光の粒子となって霧散する。
見守る貴族の生徒たちから、洗練された称賛の拍手が送られた。これが「正解」だ。正しい鍵(詠唱)さえ捧げれば、世界そのものが応え、幾何学の回路を開いてくれる。人々はそれを『魔法の理』と信じている。
だが――実態は違う。
彼らは知らぬままに、大気に充満する不可視のナノマシン――『人工精霊』という安全装置を利用しているに過ぎない。
システムがマナを吸い上げ、変換し、安全に現象を出力する。それが、この世界の魔法の真実であり、決して破ってはならない『安寧の揺り籠』だった。
「次。ルシアン・フォルト」
試験官の事務的な声が、石造りの空間に反響する。
ルシアンは一歩前へ出た。目の前には、子供の頭ほどの大きさがある無骨な岩塊。課題は単純だ。これを浮遊させ、十秒間維持すること。
視線が突き刺さる。
(杖も持っていないのか?)
(身なりを見ろよ。野良犬が迷い込んだようだ)
囁き声が鼓膜を撫でる。ルシアンはそれらを意識の外へと追いやり、深く息を吐き出した。
彼には、皆が当たり前に使う「魔法陣」が存在しない。契約精霊もいない。彼にあるのは、自身の血肉に宿る歪な『魔導炉』だけだ。
ルシアンは右手を岩にかざした。詠唱はない。
意識を内側へ向ける。体内に張り巡らされた血管を、鋼鉄の配管だと錯覚させる。心臓という名のポンプが、血液という燃料を過剰な圧力で指先へと送り込むイメージ。
(回れ。もっと速く、もっと熱く)
血管の内壁が軋みを上げ、悲鳴を上げる感覚。
指先から漏れ出したのは、緑色の光でも、美しい幾何学模様でもない。
ただの、陽炎だった。
ルシアンの手の周囲だけ、空間がぐにゃりと歪む。システムによる変換も冷却も経ていない、生のマナが直接大気に触れ、異常な高温を発して皮膚を焼き始めた。
「……ッ」
奥歯を噛み締める。
直後、空間そのものが破裂したかのような衝撃波が周囲の大気を叩いた。
ふわりと浮くのではない。見えない爆風によって下から乱暴に殴りつけられたように、岩塊が激しく震えながら空中に跳ね上がった。
「なんだ……あれは?」
観客席の空気が、困惑と嘲笑に染まった。
魔法陣がない。光がない。あるのは、油が焦げるような不快な臭気と、小刻みに震える岩だけ。
彼らの目には、それが「魔法」には見えなかった。
「おい、見たか? 光すら出せないぞ」
「魔法陣も描けないのか。あれでよく受験しようと思ったな」
「ただの力技じゃないか。あれなら労働者でもできる」
嘲りのさざ波が、観客席の端から端へと広がっていく。
彼らにとって、魔法とはシステムが描く「美しい幾何学」であり、ルシアンの行使しているものは、泥にまみれた野蛮な作業にしか見えていないのだ。
だが――。
「待て……! あれは……」
その嘲笑を切り裂くように、試験官席の端から鋭い声が上がった。
それまで退屈そうにしていた老齢の教官が、椅子の肘掛けを強く握りしめて立ち上がっている。その目は驚愕に見開かれ、ルシアンの手元――陽炎の向こう側にある『熱源』に釘付けになっていた。
「バカな……! 陣無しだと……!?」
教官の額に脂汗が滲む。
生徒たちには見えていない。だが、知識ある者には分かる。
あり得ない。
安全装置を介さず、生身でマナを直接鷲掴みにしている。それは人間が触れていい領域ではない。古代の神か、あるいは理性を失った魔獣だけが成し得る、禁忌の『直接干渉』だ。
(爆発するぞ……!)
教官が叫ぼうとした、その時。
「……終了!」
時間計測係の声が響いた。
ルシアンは糸が切れたように魔力の供給を断った。
支えを失った岩が、重力を取り戻して台座に落下し、鈍重な音を立てる。
拍手はない。沈黙と、正体不明のものを見た気味の悪さだけが、地下室に澱んでいた。
【学院の回廊】
ルシアンは逃げるように試験場を後にした。
背後で重厚な鉄扉が閉まると同時に、地下の喧騒と熱気が遮断される。
訪れたのは、耳が痛くなるほどの冷ややかな静寂だった。
誰もいない、薄暗い石造りの回廊。
ルシアンは壁際まで歩くと、膝から崩れ落ちるようにしてうずくまった。
酸素を渇望して痙攣する肺の音が、静寂の中で唯一の音として響く。
震える右手を目の前に掲げる。
指先は火傷で赤く腫れ上がり、爪の縁は炭化して黒く変色していた。皮膚が引きつり、脈打つたびに鈍い痛みが脳髄を刺す。
「……ぁ、……はぁ」
彼は躊躇なく、その焼け付いた手を冷たい石壁に押し当てた。
湿った石に高熱が触れ、水分が瞬時に蒸発する。
立ち昇る白煙とともに、タンパク質の焦げる鼻を突く異臭が漂った。
石の冷気が、火傷の熱を貪るように奪っていく。その急激な温度差は、安らぎというよりも鋭利な刃物のような痛みとなって彼を襲った。だが、今のルシアンには、その痛みさえもが、まだ自分が生きていることを確認するよすがだった。
試験をクリアしたという安堵感など、欠片もない。
あるのは、泥沼の底を這いずり回るような消耗感だけだ。
(あと何回、身が持つ……)
壁に押し付けた手のひらから、熱が奪われていく。
それでも、この道しか選べなかった。才能がないことも、適性がないことも知っている。それでも、この身を焦がし、削り続けることでしか、先へ進む道は拓けない。
ルシアンは暗い回廊の闇を見つめた。そこには輝かしい未来などなく、ただ延々と続く、煤と痛みに満ちた階段が見えるだけだった。
地下特有の淀んだ空気が、肌にまとわりつく。湿り気を帯びた冷気は、熱を持った傷口には慈悲となるはずだが、今のルシアンには墓所の底から吹き上げる風のようにしか感じられなかった。
天井に等間隔で埋め込まれた魔導灯が、今にも切れそうな頼りない瞬きを繰り返している。
その光は、暖炉の火のような温かみとは無縁の、病的なまでに青白い燐光だ。
光が落ちるたび、ルシアンの影は長く伸び、あるいは奇妙に縮み、まるで壁のシミが蠢いているかのような錯覚を抱かせる。
自分の顔色が、おそらくはこの照明の下で死人のように青ざめているであろうことは、鏡を見なくともわかった。
静かすぎる。
自分の足音が、湿った石畳に吸い込まれていく。
背後の暗闇から何かが這い出してくるような、あるいは頭上の配管の隙間から何者かが覗き込んでいるような、正体不明の圧迫感が背筋を撫で上げる。
神経が擦り切れ、過敏になっているせいだ。そう自分に言い聞かせ、ルシアンはまた一歩、暗闇の中へと足を踏み出した。
***
その「予感」は、あまりにも唐突に、質量を伴って実体化した。
角を曲がった刹那、ルシアンの脚が凍りついたように停止する。
そこに、誰かがいた。
足音も、衣擦れの気配さえも皆無だった。ルシアンがその角に差し掛かるコンマ一秒前まで、そこには地下の虚空しかなかったはずだ。
だが彼女は、最初からその座標に固定されていた彫像のように、あるいは空間の裂け目から滲み出した水銀のように、唐突に佇んでいた。
銀色の髪。
この陰鬱な地下回廊において、彼女だけが自ら燐光を発しているかのような、異質な存在感。
「ッ……!?」
喉が引きつり、声帯が機能を放棄する。
驚愕ではない。それは、理解の範疇を超えた現象に遭遇した生物が抱く、本能的な硬直だった。心臓が早鐘を打ち、全身の血管が収縮して悲鳴を上げる。
美しい少女だ、などという感傷は、ルシアンの意識には微塵も浮かばなかった。
目の前にいるのは、人間の形をした「何か」だ。
物理法則を無視してそこに在るという生理的な違和感が、思考を白く塗りつぶしていく。
彼女――ミリア・レーンフェルは、ルシアンを見つめていた。
いや、「見ている」という表現すら生温い。
その瞳は、深青紫。
成層圏の色よりも深く、深海の底よりも静謐なその色彩は、一切の感情を反射していなかった。
瞬きがない。
呼吸に伴う胸の起伏すら、極端に希薄だ。
彼女の視線はルシアンの表皮を透過し、その下の筋肉、骨格、そして血管内を循環する揮発性の魔力そのものを、冷徹にスキャンしているようだった。
そこに人間的な温かみはない。好意も、敵意さえもない。
あるのは、未知の魔導機構を分解しようとする技師の、無機質で残酷な好奇心だけだ。
ルシアンの唇が乾いた音を立てて震える。
何か言わなければならない。誰何しなければならない。だが、言葉は喉の奥で凍結し、形を成さない。
ミリアが、一歩近づいた。
やはり、質量を感じさせる音はしなかった。
「……あなたの共鳴音は」
極薄のガラス細工を打ち合わせたような、冷たく透明な声が静寂を切り裂いた。
「悲鳴を上げていたわ」
それは詩的な比喩ではなかった。
計測機器が数値を読み上げるような、あるいは金属疲労による歪みを指摘するような、あまりにも平坦なトーン。
ルシアンが死に物狂いで耐え抜いた燃焼の苦痛も、死の淵を覗き込んだ恐怖も、彼女にとっては単なる「観測データ」の一つに過ぎないのだという事実が、ルシアンの自尊心を容赦なく削り取る。
「な、にを……」
ようやく絞り出した声は、掠れて聞き取れないほど弱々しかった。
ミリアは首をわずかに傾げる。その仕草すら、計算された歯車の動きのように滑らかで、不気味だった。
彼女はルシアンの顔色など意に介さず、さらに一歩、距離を詰める。
冷たい香りが鼻腔を刺した。花や香水ではない。研ぎ澄まされた刃物や、冬の朝のオゾンのような、清冽で鋭利な匂い。
「構造上の欠陥? それとも、意図的な過負荷?」
彼女の青紫の瞳が、ルシアンの胸元――魔力の燃焼炉があるあたりを、無遠慮に覗き込む。
まるで、複雑な時計の蓋を開け、中の機構を検分する職人の眼差しだ。
プライバシーという概念が欠落している。
彼女の前では、衣服も、皮膚も、人間としての尊厳さえも意味を成さない。ただの「現象」として分解され、検分されている。
内臓が冷えるような感覚に、ルシアンは一歩後ずさった。
背中が冷たい石壁に当たり、逃げ場がないことを知る。
「……僕を、どうするつもりだ」
震えを殺して問うた言葉に、ミリアは無表情のまま、瞬きもせずに答えた。
「興味深いわ。その不完全な魔導炉」
彼女の細い指先が、空中で何かをなぞるように動く。
ルシアンの右腕、火傷を負い、包帯の下で脈打つその箇所を、触れもせずに指し示した。
「壊れる寸前の音がしている。……とても、純粋で、綺麗」
見えない氷柱で背骨を撫で上げられたような戦慄が走った。
「綺麗」という言葉が、これほどまでに冒涜的に響くことがあるとは知らなかった。
彼女はルシアンの破滅を、崩壊の過程を、美しいと感じているのだ。
それは、サディスティックな愉悦ではない。
星の運行や、数式の解を眺めるような、純粋で、それゆえに悪質な探究心。
この少女は、危険だ。
ルシアンの本能が、最大級の警告を発していた。
彼女はヒロインでも、学友でもない。
決して交わってはならない、深淵そのものだ。
壁に埋め込まれた魔導灯が、呼吸困難に陥ったかのように不規則に明滅している。
その光は、地上の太陽のような健全な輝きではない。古血が乾いたような、錆びついた赤茶色の光だ。頼りない照明は、対峙する二人の影を石畳の上に長く、歪に引き伸ばし、まるで別の生き物のように揺らめかせている。
地下試験場から続く石造りの回廊には、先刻までの熱狂が嘘のように冷たい沈黙が澱んでいた。
あれほど肌を焦がした魔力の暴風は、潮が引くように急速に失せている。代わりに満ちてきたのは、地下特有の湿った冷気と、古いカビの臭い。そこに、硝煙に似たオゾンの刺激臭が混じり合い、肺腑を刺すような不快な空気を醸成していた。
喧騒から断絶されたこの空間では、静寂こそが凶器だった。
鼓膜の奥で、世界そのものが軋むような高周波が鳴り響いている。それは聴覚の異常というよりは、張り詰めた閉塞感がもたらす物理的な圧迫だった。
ルシアンは、石壁に背を預けたまま、自身の肉体が鉛に変質してしまったかのような錯覚に囚われていた。
単なる疲労ではない。骨の髄、魂の芯まで重く沈み込むような倦怠感。指先ひとつ動かすことさえ、泥沼の中で藻掻くように億劫だ。
だが、その重たい肉体の中で、唯一、異様な存在感を放つものがあった。
懐のポケットの奥。
三週間ほど前、初めての依頼の最中に拾った『黒い石』だ。
もはや、それは単なる鉱物ではなかった。
薄い布一枚を隔てた心臓の鼓動に呼応し、どす黒い熱の塊となって脈動している。
まるで「着火剤」だ。ルシアンという器の中に眠る、歪な魂の炉心。その導火線に、石が強制的に火を点けようとしている。
服の上からでも火傷しそうなほどの熱量。それが肋骨の隙間から侵入し、内側の見えない回路を焼き切らんばかりに過熱させていた。
「……壊れる寸前の音がしている」
ミリアが、また一歩、距離を詰めた。
その挙動に、ルシアンは微かな違和感を覚える。
先ほどまでの彼女は、感情を持たない精巧な自動人形のように、滑らかで無駄のない動作をしていたはずだ。
だが、今の彼女は違う。
一歩を踏み出す足取りが、どこかぎこちない。
見えない糸に四肢を吊り上げられ、無理やり操られているような――あるいは、抗いがたい強力な磁場に引き寄せられ、本能的な拒絶と渇望の間で軋んでいるような、切実な乱れがあった。
***
ミリアの青紫の瞳が、ルシアンを射抜く。
その無機質なレンズの奥底で、得体の知れない光彩が不穏に揺らめいた。
それは普段の、秒針のように正確な理知の光ではない。深く凍てついた湖の底から、かつて沈められた少女の魂が、分厚い氷面を叩き割って浮上しようとしているかのような――不気味さと神聖さが混在する輝き。
(来るな)
ルシアンの本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、と脳内の信号が叫ぶが、四肢は鉛を流し込まれたように重く、金縛りにあったように動かない。
ミリアが距離を詰めるにつれ、『黒い石』は暴発寸前のトリガーと化した。
カイロのような生温かさなどではない。
胸ポケットの中で赤熱する火箸となり、皮膚を焼き、その奥にある心臓を――魂そのものを直接おびやかしていた。
だが、ミリアが見つめているのは、その石ではない。
黒い石の熱に煽られ、悲鳴を上げながら振動を始めた、ルシアンの「魂」そのものだ。
ミリアの白い指先が、ゆっくりと持ち上がった。
震えている。
あの精密機械のごとき少女が、指先を震わせている。
それは彼女自身の意志なのか、それとも彼女のシステムをハッキングし、突き動かす何かの強制力なのか。
その手は、ルシアンの顔でも負傷した腕でもなく、正確に『魂の叫び』が響き渡る左胸へと吸い寄せられていく。
「共鳴……」
彼女の唇から零れた言葉は、意味を成さないノイズのように、しかし奇妙な引力を持って響いた。
そして、その指先がルシアンの胸に触れた瞬間。
世界が、反転した。
視界が弾け飛ぶような物理的な衝撃ではない。
脳髄を直接鷲掴みにされ、強引に裏返されるような強烈な酩酊感。
ルシアンの意識は、物理的な座標から引き剥がされ、泥のような情報の奔流へと叩き落とされた。
目の前にいるミリアの顔が、歪む。
いや、重なる。
青紫の瞳を持つ無表情な少女の顔の上に、まるで多重露光の写真のように、別の「誰か」の顔が焼き付いていく。
それはルシアンの記憶領域には存在しないはずの顔だ。
けれど、魂の規格はその輪郭を知っていた。
(あぁ――)
思考処理よりも先に、感情の濁流が溢れ出した。
懐かしさなどという、生易しいものではない。
数百年、あるいは数千年分の時間を超えて堰き止められていた、膨大な喪失感。
内臓が凍りつくような恐怖。
喉を掻きむしりたくなるほどの悲哀。
誰かを失った。
大切な、自身の半身とも呼べる回路を、無残に引きちぎられた。
その絶望の記憶が、濁流となってルシアンの胸に流れ込んでくる。
それはルシアン自身の欠落した記憶なのか、それとも目の前の少女から流れ込んできたエラーデータなのか、あるいは懐で暴走する石が見せている幻影なのか。
境界線が溶け合い、自我が摩耗していく。
息ができない。
肺の中の空気がすべて抜き取られ、代わりに鉛のような悲しみが充填されていく。
目の前の少女が、ミリアなのか、その「誰か」なのか、判別がつかない。
ただ、その瞳に縫い留められ、身動きひとつ取れないまま、ルシアンは魂をヤスリで削り取られるような痛みに晒されていた。
ミリアの指が、ルシアンの胸元のシャツを、縋るように強く掴む。
その力はか弱く、しかし痛いほどに必死だった。
「……見つけた」
その声は、先ほどまでの冷徹な観察者のものではなかった。
遥か遠い場所から、長い時間を超えてようやく届いた、祈りのような響き。
硝子細工のように繊細で、触れれば砕け散ってしまいそうな声色が、震え、湿り気を帯びて鼓膜を打つ。
「見つけた、私の……」
言葉は途切れ、形を失う。
だが、その瞳から溢れ出る熱量は、ルシアンという個体を貫き、その奥にある『中核』を焦がし続けていた。
ルシアンは言葉を発することさえ忘れ、ただ呆然と、目の前で起こる不可解な現象と、少女の瞳の奥に広がる深淵を、立ち尽くして見つめることしかできなかった。
その瞬間、世界は二つの色だけで構成されていた。
黄昏がもたらす、血が乾いたような錆びた赤と、互いの皮膚が触れ合う一点から広がる熱の朱。
ルシアンのシャツを掴むミリアの指先は雪のように白く、しかしそこから伝わる体温は火傷しそうなほどに鮮烈だった。境界線が溶解し、呼吸の重なりさえもがひとつの生命活動のように錯覚される。
永遠にも似た、濃密な一秒。
「――ミリア様!」
鋭角な音が、その時間を叩き割った。
それは呼び声というよりも、完成された静寂を土足で踏み荒らす暴力的な響きだった。
硬質な革靴が石畳を打つ音と共に、回廊の角から投げかけられた声は、ガラス細工を金槌で粉砕するような無神経さで二人の空間を引き裂いた。
空気が、凍りついた。
ルシアンの視界の中で、ミリアという少女が変貌を遂げる様は、残酷なほど緩慢なスローモーションとして映った。
まず、彼女の瞳から湿り気が蒸発した。
つい先ほどまで、迷子のような揺らぎを湛えていた青紫の瞳孔が、瞬きの間に収縮し、硬化する。そこに宿っていた熱情、あるいは悲哀に似た色は、まるで最初から存在しなかったノイズであるかのように削除され、後には絶対零度の無機質な輝きだけが残された。
次に、指先。
ルシアンの胸元を痛いほどに握りしめていた力が、ふ、と抜ける。
名残惜しさなど微塵もない。通電を断たれた機械のアームのように、その手は滑らかに、かつ無造作にルシアンの体から離れた。
最後に、姿勢。
彼女は一歩、音もなく後退した。
その動きには、動揺も、驚愕も、羞恥もない。ただ、システムが正常な位置へと座標を修正しただけのような、完璧な「復元」だった。
そこに立っていたのは、もはやルシアンと肌を触れ合わせ、魂の共鳴に震えていた少女ではない。
人を人とも思わぬ冷徹な観察者。
氷の塔に君臨する支配者。
ミリア・レーンフェルという名の、完成された『氷の女王』だった。
「……ミリア様、こちらでしたか」
回廊の奥から現れたのは、学院の制服を着た監督生らしき男だった。手には青白く光る魔導灯が提げられている。
男はルシアンを一瞥すらしなかった。彼の目には、高貴な血筋の令嬢以外は、路傍の石ころと同義に映っているのだろう。探索の終了を告げるその口調は事務的で、安堵よりも義務感の色が濃い。
ミリアは、ルシアンを見なかった。
視線を向けることすらしなかった。
まるで、目の前にいる少年が、すでに風景の一部へと還元されてしまったかのように。
「ええ」
彼女の唇から落ちた言葉は、氷柱のように短く、鋭かった。
そこには先ほどの「見つけた」という言葉に込められていた、魂を焦がすような熱量は欠片も残っていない。
「戻るわ」
ドレスの裾が翻る。
絹が空気を打つ乾いた音だけを残し、ミリアは踵を返した。
その背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、歩調には一切の乱れがない。つい数秒前まで、ルシアンの胸に触れ、過去の幻影に涙ぐんでいた存在とは、生物としての構造すら入れ替わってしまったかのようだった。
男が恭しく道を空け、ミリアの後ろに従う。
青白い魔導灯の光が遠ざかっていく。
革靴が石畳を叩く硬質なリズムだけが、冷たく反響していた。
その乾いた音は、闇の奥へと進むにつれて輪郭を失い、やがて夜の帳に呑み込まれるようにして消失した。
世界から、熱が奪われる。
取り残された回廊は、死んだように静かだった。
高い窓から差し込んでいた夕日は、いつの間にか夜の闇に塗り潰されかけている。壁に設置された魔導灯が次々と灯り始め、その寒々しい青色の光が、血の色をしていた床を冷たい灰色へと変えていく。
ルシアンはただ一人、深海のような静寂の中に立ち尽くしていた。
***
ルシアンは、機能不全を起こした機械のように立ち尽くしていた。
視界からはすでにミリアの姿が消えている。網膜に映るのは無機質な回廊の石壁だけだ。
だが、神経系が伝える情報は、視覚とは決定的に矛盾していた。
左胸。そこで暴れる『黒い石』が熱源となり、肋骨の檻の向こう側にある心臓を焼き続けている。
ミリアが触れたその一点だけが、どろりと重く、焼けつくように熱い。
それは「温もり」などという柔らかなものではなかった。
魂の深淵で爆ぜた業火が、黒い石という媒介を通じて肉体まで逆流してきたかのような、物理的で執拗な熱量。
見えない万力で心臓を鷲掴みにされ、無理やり拍動を制御されているような圧迫感だった。
(……なんだ、これは)
喉が痙攣し、言葉は音にならずに消えた。
声帯が錆びついたように動かない。
「寂しい」――そんな甘ったるい感情ではない。
詩人が歌うような感傷で片付けられるほど、この内圧は軽くなかった。
胃の腑に溶解した鉛を流し込まれたような重濁。
内臓がねじ切れ、神経がショートするような、物理的で暴力的な不快感。
世界から色彩が剥離したような空虚な回廊で、ルシアンは自身の胸を強く握りしめた。
シャツ越しに指へ伝わる熱は、先ほどの「共鳴」が脳の誤作動ではなかったことを証明している。
あの一瞬、確かに回路は繋がり、通電していた。
言葉も、身分も、時間という概念さえも焼き切って。
だが、その接続はあまりに唐突に、無慈悲に切断された。
麻酔なしで臓器の一部を抉り取られたかのような欠落感が、ルシアンの全身を蝕んでいく。
遠く、回廊の突き当たりで、重厚な扉が閉ざされる音が轟いた。
その音は、巨大な断頭台の刃が落下する衝撃音のように、ルシアンの鼓膜を震わせた。
もう、戻れない。
今日という日、この場所で、何かが決定的に変質してしまった。
自分という危険物を世界に繋ぎ止めていた安全装置が外れ、巨大な天秤が傾き始めたことを肌で感じていた。
それは予感ではない。確信に近い恐怖だった。
ルシアンは冷え切った石壁に背を預け、熱を帯びた呼気を吐き出した。
青白い魔導灯の人工的な光が、少年の影を長く、黒く、回廊の床に焼き付けていた。




