EP1-8 後編:焦げ付いたシーツと重力の点火
同時刻。学院敷地、陽光が白亜の石を焼く一角。ミリア・レーンフェルは、自室のバルコニーで世界を拒絶するように佇んでいた。
貴族令嬢の私室というには、その部屋はあまりにインクと古紙の匂いに満ちていた。壁という壁は黒檀の本棚に侵食され、床には難解な術式が記された羊皮紙の塔が林立する。本の森を抜けた先のバルコニーだけが、唯一、彼女が呼吸を許された場所だった。
朝の空気は硝子のように澄み、眼下に広がるフォルティアの街並みは精緻な模型のようだ。だが、彼女の意識はその壮麗な景観を捉えてはいない。
不意に、胸骨の真裏を熱い針で刺されたかのような、鋭い疼きが走った。
病ではない。不調でもない。もっと根源的な、魂の構造体に亀裂が入るような異質な感覚。遥か遠い昔に引き剥がされた半身が、時空を超えて断末魔を上げたかのような、微弱だが確かな共鳴。
「……また、なのね」
ミリアは吐息と共に呟き、書物の迷宮へと踵を返す。黒檀の机に鎮座する銀の水盤へと、白く繊細な指を伸ばした。
水盤には錬金術で浄化された蒸留水が張られ、縁の窪みには親指大の蒼い魔石が嵌め込まれている。遠隔視と思念伝達を司る、希少な魔道具。
だが、それは万能ではない。有効半径はせいぜい五十キロメートル。しかも、相手が鋭敏な魔術師であれば、こちらからの『視線』のような魔力干渉を感知し、接続を遮断することすら可能とする。
「……気づかれても、いい」
彼女が白磁のような指先で水盤の縁をなぞり、誰に捧げるでもない、忘却された祝詞の一節を吐息と共に紡ぐと、魔力が銀を伝い、さざ波一つなかった水面が細かく震え始める。蒼い魔石が心臓のように明滅し、水そのものが受像機として機能し始めた。
特定の座標を探すのではない。ただ、胸を苛む疼きが指し示す方角へ、意識という名の探針を伸ばす。
水面に映る景色が、目まぐるしい速度で流転する。学院の尖塔、錬金術工房の煙突、壮麗な大講堂――。
そして、ある一点で、奔流はぴたりと静止した。
映し出されたのは、光の届かぬ地下深く。湿った石で組まれた修練場の一室。
数人の生徒の影。その中で、まるで世界の法則から逸脱したかのような存在に、彼女の視線は焼き付いた。
柱に背を預ける、痩身の少年。
その輪郭は周囲の闇に溶け落ちそうなほど儚い。だが、ミリアの『魔力視』が捉えたのは、生命の姿ではなかった。
他の生徒たちの内燃機関――魔力は、淡い色の陽炎のように体から立ち上り、希薄な霧となって大気に還っていく。それはありふれた、正常な生命活動の残滓だ。
だが、あの少年だけが、違った。
彼の内に在るものは、極限まで圧縮された熱量。自ら光を放つのではなく、内側で激しく循環し、摩擦し合う運動エネルギーの塊。制御を失えば、この学院はおろか、首都の一角すら消し飛ばしかねない、不安定な爆薬庫。
その絶望的なまでの「危うさ」を目にした瞬間、ミリアの胸を貫いたのは、恐怖ではなかった。
――懐かしい。
なぜ、と自問する理性の声は、魂の奥底から湧き上がる衝動にかき消された。見たこともない光景。会ったこともない少年。
だというのに、その魂の在り方は、忘れていたはずの歌の旋律のように、彼女の根源を揺さぶる。切なく、焦がれるような郷愁。
失われた、私の半身。
直感が、真実として脳を焼いた。
その時、水面の少年が苦悶に顔を歪め、何かを圧し殺すように拳を固く、固く握りしめた。彼の内なる歪な炉心が、軋みを上げて回転数を落としていく。
瞬間、見えない鉄槌が胸骨を打ち砕いたかのような衝撃に、ミリアの呼吸が停止した。
だが、やがて少年の拳が緩み、脈動は収束していく。荒れ狂うエネルギーは、再び静かな肉の檻へと戻っていった。
水面の映像が、陽炎のように揺らめき、霧散する。
ミリアは、しばらくの間、空虚になった銀の水盤を呆然と見つめていた。
胸の痛みは、鈍い疼きとなって残っている。だが、それは不快ではなかった。
この学舎の何処か、確かに存在する『片割れ』の鼓動。その生存証明。不思議なほどの安堵感が、胸を満たしていた。
「……あなた、は……いったい……?」
誰に届くでもない問いは、静寂な書斎の空気に溶けて消えた




