EP1-8 中編:焦げ付いたシーツと重力の点火
広場を抜け、遂にその巨大な影の下に辿り着いた。
フォルティア中央魔法学院。大陸の魔術師たちがその頂を目指し、焦がれる最高学府。目の前にある正門は、巨人が潜るようなアーチを描き、その下を豪奢な馬車が何台も吸い込まれていく。
ルシアンもまた、その流れに続いて足を踏み出そうとした。だが、
「おい、待て」
衛兵の、感情のない声が彼を止めた。切っ先を向けられた槍が、ここがお前の通るべき場所ではないと告げている。
衛兵は無言のまま顎で、苔と染みに覆われた外壁の隅を示した。そこにはドブネズミ専用とでも言うべき、小さな鉄の通用口が口を開けていた。
「外部受験者、及びギルド推薦枠はあちらだ。ここは選ばれた者だけが通る門だ」
分かっていたことだ。ルシアンは表情を変えず、小さく頷いた。
冒険者ギルドからの参加者は、獣のように裏口から入るのが慣例らしい。分厚い鉄の扉の前で、別の衛兵に身分証と推薦状を突きつけ、彼は臓腑に響くような重い音の向こうへと足を踏み入れた。
通されたのは、待合室と呼ぶにはあまりに空虚な石の間だった。
墓石をくり抜いたようなその空間の高い天井からは、鎖に吊られた魔光石のランプが屍体のようにぶら下がり、その死人のごとき青白い光は部屋の隅に溜まる闇を払拭できずにいる。壁も床も、継ぎ目の不揃いな石材が剥き出しのまま。石が吐き出す、何世紀も前の湿気と腐臭が空気に澱んでいた。ここは地下牢だ。息をするたび、肺が圧迫されるような閉塞感があった。
その薄闇の中に、場違いなほど鮮やかな色彩が点在していた。
上質な絹のローブを身に纏った十数人の少年少女。裕福な商人の子弟や、地方貴族の三男坊たちだろうか。彼らはこれから始まる試験に向け、自信に満ちた表情で魔術の最終調整を行っている。
「――炎よ、矢となりて敵を穿て。『Sua, Gezi』!」
少年が詠唱を終えると同時、掌の前の空間に光の粒子が走った。
それらは目に見えない絵筆によって描かれているかのように、複雑な幾何学模様――魔法陣を空中に構築していく。極小の人工精霊たちがマナを編み上げ、暴発を防ぐための安全回路を何重にも形成する、教科書通りの丁寧なプロセスだ。
数秒の後、完成した赤熱する円陣の中から、小さな炎の矢が吐き出され、音もなく宙に浮いた。それは完全に制御され、安全で、そして遅い。仲間たちが芝居がかった感嘆の声を上げた。別の場所では、少女が水を操り、小さな盾を描いている。
「――水よ、盾となりて我を守れ。『Ura, Ezkutu』!」
こちらも同様だ。青白い光が空中に波紋のような陣を緻密に描き出し、その幾何学のラインに沿って水が湧き出し、盾の形に固定される。きらきらと光を反射する、ガラス細工のような魔法。
どれも教科書通りに完璧で、そして、ひどく空虚だった。
ルシアンの目には、それらが現実感のない書き割りのように映った。生命の熱も、世界の根源に触れる質量も感じられない。ただの現象の模倣。薄っぺらな玩具。
「――あ?」
ふと、炎の矢を浮かべていた少年が、ルシアンの視線に気づいた。三週間の飢餓が刻んだ傷は、今も身体の芯で疼いている。空っぽの胃が、時折、固く絞られた雑巾のように痙攣した。その痛みに耐えるように腹部を腕で押さえると、擦り切れたシャツ越しに、浮き出た肋骨の硬い感触が指に伝わった。
腰のショートソードだけが、冷たい鉄の重みで彼の存在をこの場に繋ぎ止めている。柄に巻かれた革はささくれ、鞘には錆が浮いた、ギルド貸与の量産品。今の彼には、この鉄屑こそが分相応に思えた。
貴族たちの軽薄な笑い声が、石室にガラスの破片のように反響する。彼らの世界と、ルシアンの世界は決して交わらない。彼はただ、息を殺し、影の中で時が過ぎるのを待つだけの存在だった。
「おい、見ろよ。なんだ、あの溝鼠は」
嘲りが、澱んだ空気を切り裂いた。
視線を向ければ、豪奢な真紅のローブを纏った少年が、取り巻きに囲まれながら侮蔑の眼差しでルシアンを指さしている。この場の中心人物らしい。その指先には、これみよがしに大粒の宝石を嵌めた指輪が鈍く光っていた。
「ひどい格好だな。物乞いが紛れ込んだか?」
「ギルドの推薦枠とやらだろう。平民でも魔力さえあれば講習くらいは受けられるそうだ」
「平民?いや、あれは骸骨だ」
甲高い笑い声が湧き上がる。飢えも、貧しさも、死の匂いさえも、彼らにとっては自分たちと無縁の滑稽な見世物でしかない。
ルシアンは答えなかった。感情は、飢えの果てに削ぎ落とした。怒りは体力を消耗するだけの無駄な爆発だ。彼はただ、自分を嘲笑う少年を冷たく見つめ返した。
その瞳に映るのは、人間ではなかった。
形は人だが、中身は空っぽだ。親から与えられた地位、金で買い与えられた知識、見栄と虚飾で塗り固められた空虚な器。その魂には、何の重さもなかった。
「なんだ、その目は。下賤の分際で、僕を睨む気か?」
真紅のローブの少年が、苛立ちを露わに一歩踏み出す。指先に小さな雷の火花がぱちぱちと弾けた。威嚇のつもりだろう。先ほどの火球よりは洗練されている。だが、やはり軽い。風が吹けば霧散する、根無し草の力。
――重さが、足りない。
ルシアンの内で、声にならない声が響いた。
お前たちの使うそれは、魔法ごっこだ。本物の力は、もっと、どろりとして、重く、冷たく、世界の根源に繋がる絶対的な質量を持つ。
胃の痙攣が、不意に収まった。
代わりに、胸の奥深く――魂核が宿る場所が、ずくり、と熱を帯びる。
怒りではない。侮辱への反発でもない。ただ、目の前の『空虚』が、彼の内なる『実体』を刺激したのだ。磁石の同極が反発し合うように、本能的に。
ドクン、と。
心臓が、一つ、大きく脈打った。
世界から音が消える。貴族たちの嘲笑も、魔法の輝きも、水底から水面を見上げるように遠ざかっていく。視界から色彩が剥落し、世界はモノクロームの濃淡に沈んだ。
空気の密度が変わる。深海に沈んでいくような、圧倒的な圧力が全身を押し潰しにかかる。
柱に預けていた背が、強張ったように浮いた。彼は無意識に身体を起こしていた。
真紅のローブの少年が、異変に気づいて息を呑む。その顔から余裕の色が消え失せ、生の恐怖が浮かんでいた。
「な……なんだ、貴様……」
ルシアンの指先が、小刻みに震え始めた。
それは恐怖ではない。制御しきれない余剰熱量の放出現象だ。体内の『機関』は、主の意思など歯牙にもかけず、飢えた獣が檻を食い破るが如く抑制の弁を内側から吹き飛ばすと、激越な憤怒を燃料にして、自壊をも厭わぬ臨界の領域へと、暴力的な過回転を開始していた。
ドクン、ドクン、と。
心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰したかのような熱さが血管を駆け巡る。視界が陽炎のように歪み、耳の奥で高周波のノイズが鳴り響く。
彼の周囲の空気が異常な熱で揺らぎ、蜃気楼のように歪み始めていた。
魂核が、炉心のように唸りを上げている。
解き放て、と内なる獣が叫ぶ。
この空虚で繊細な硝子細工のような連中に、質量を持った暴力の味を教えてやれ、と。
彼らの完璧な魔法陣ごと、その脆弱な肉体を吹き飛ばすのは容易い。ただ、タガを外すだけでいい。
あと一瞬。
あとコンマ一秒、思考を止めれば、彼の内なる『機関』は限界を超え、この狭い石室で熱暴走を起こしていただろう。それは、ここにいる全員を巻き込んだ、醜悪な自爆事故になったはずだ。
だが、彼は右手の指を、強く、強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、肉を裂く。その生々しい痛みが、彼を現実へと引き戻す楔となった。
「……ッ、く……」
奥歯を噛み締め、呼吸を整える。
これは、力ではない。ただの欠陥だ。歪んだ『炉心』が、制御を失って暴走しているに過ぎない。
ポケットの中にある黒い石。あの共鳴の正体を解き明かすまでは、こんな場所で無意味に破裂するわけにはいかない。
ふっ、と熱が引いていく。
世界に色が戻り、溶解しかけていた風景が急速に冷却され、冷ややかな『現実』へと凝固した。ルシアンの額から冷たい汗が流れ落ちる。
彼は何事もなかったかのように再び柱に背を預け、荒くなった呼吸を必死に押し殺した。
目の前の貴族たちが、怪訝そうに彼を見ている。空間の揺らぎに気づいたのか、それとも単に彼が急に苦しみだしたように見えたのか。
「おい、なんだ急に震え出して……病気持ちか?」
「気味が悪いな、放っておこうぜ」
彼らは興味を失い、再び自分たちの魔法自慢へと戻っていった。安全な温室で爪を磨ぐだけの彼らには、隣で臨界に達した『死』が、紙一重で沈黙したことなど知る由もない。
ルシアンは、彼らにもう興味はなかった。ただ静かに目を閉じ、自分の内側で依然としてくすぶり続ける残り火を、必死に鎮める作業に没頭した。




