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アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜  作者: アズマ マコト
第1章

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EP1-8 前編:焦げ付いたシーツと重力の点火

ギルド寮の個室は、墓石のように冷たく、静まり返っていた。


 ルシアンの呼吸だけが、古びたスプリングベッドの軋みと共に、部屋の空気を震わせている。ラインが貸してくれた、ギルドの三階にある年少者用のボロ部屋。壁の隙間からは隣室で寝ている他の冒険者のいびきが聞こえるが、今の彼には別世界の出来事のようだった。彼の仕事は単純だ。

 貸与されたベッドの上に転がっている、河原で拾ったなんの変哲もない灰色の小石。それを、ただ宙に浮かせる。それだけだ。


 だが、彼の身体は極度の緊張で強張っていた。

 内側で、何かが荒れ狂っている。熱い鉄の味が舌の上に広がり、血管の奥深くで、飼い慣らせない獣が身じろぎするのを感じる。衝動。ほんの僅かな力でいい。指先で点火する、極小のベクトル噴射。それだけで、あの小石は重力に逆らい、ふわりと浮かぶはずだ。


 誰も見ていない。この殺風景な個室は、絶好の実験場だった。


 ルシアンは息を止めた。意識を右腕に集中させる。それは「魔力」などという生易しいものではない。彼の血中で、魂そのものを燃料として燃焼させる、内燃機関の点火プロセスだ。


 まず、予熱が始まる。心臓から指先へと向かう血管が、灼熱のワイヤーのように脈打った。視界の端が陽炎のように揺らめき、耳の奥でキーンという高周波が鳴り響く。痛み。爆発寸前の圧力が眼球の裏を押し上げる。これが彼の魔法の詠唱。声なき絶叫。


「…ッ!」


 歯を食いしばり、小石に狙いを定める。指を、僅かに動かす。


 ――点火。


 パチッ、と乾いた炸裂音が部屋の空気を叩いた。彼の指先から放たれた不可視の衝撃が、小石の下にある空間を穿つ。オゾンの焦げた匂いが鼻を突き、周囲の空気が一瞬にして熱せられた。それは浮遊ではない。絶え間ない微細な爆発の連続によって、物体を無理やリ「突き上げている」だけだ。


 小石が、ガタガタと震えながら数センチ浮き上がった。


 成功だ。だが、代償は大きい。彼の腕には、まるで内側から焼き鏝を当てられたような激痛が走る。小石を支えるベクトル噴射のバランス制御は、暴れる獣の首に糸をかけて操るようなものだった。小石は安定せず、小刻みに揺れ、そのたびに貸与品のシーツが焦げ臭い煙を上げる。


 ブゥン、という低い唸り。空気が振動し、彼の周囲だけが歪んだ熱気に満たされる。静寂は死んだ。代わりに、暴力的なエネルギーの咆哮が空間を支配していた。小石の表面が、ジュッ、と音を立てて赤熱し始める。熱量が大きすぎるのだ。


 効率? 馬鹿な。これは破壊だ。


 ルシアンは即座に「機関」を停止した。


 圧力が抜け、灼熱が引いていく。腕の痛みだけが生々しく残った。小石は重力に従い、コロンとシーツの上に転がる。そこには黒い焦げ跡が点々と残っていた。


 焦げた布の匂いが、彼の失敗を告げていた。

「……また、焦がしてしまったか」

 これが見つかれば、ラインに大目玉を食らうだろう。最悪、弁償だ。そんな金はどこにもない。


 彼は汗ばんだ額を拭うと、軋むベッドから身体を起こした。一歩、また一歩。この、静かで、非効率的で、人間的な制御こそが、彼にとって唯一許された道なのだ。


 内なる獣を檻に閉じ込め、ただの人として息をする。この墓場のような部屋の静寂こそが、彼が守るべき平穏だった。その効率性を、彼は身をもって理解した。


 それからの三週間は、泥と血の味がする時間だった。


 銅貨五枚は、三日と持たなかった。

 残りの日々、ルシアンはドブネズミを狩り、廃棄された野菜の屑を拾って飢えを凌いだ。だが、腹が満たされることは決してない。飢餓状態は彼の『機関』を不安定にさせた。空腹で意識が遠のくたび、制御のタガが外れそうになる恐怖。


 毎夜、彼は震える手で小石を浮かべ続けた。

 成功率は三割に満たない。失敗するたびにシーツが焦げ、指先には火傷の水膨れが増えていく。廊下を巡回するギルドの清掃員が焦げ臭さを不審がってドアを叩いた時は、息を潜めて死んだふりをしたこともあった。


 眠れば悪夢が来る。起きれば飢えと激痛が待っている。

 それでも彼は止まらなかった。黒い石。ポケットの中の、あの奇妙な石の温もりを感じるだけで、擦り切れそうな理性を繋ぎ止めることができた。


 指先の皮が焼け爛れ、感覚が麻痺しても。

 空っぽの胃袋が酸で溶けそうになっても。

 彼はただひたすらに、内なる怪物の首に鎖をかけ続けた。飼い慣らすのではない。殺すのでもない。ただ、人間のふりをするためだけに。


 そして、運命の日が訪れた。


 ***


 早朝のフォルティアは、嵐の前の海のように静まり返っていた。


 ギルド寮を出て、石畳の大通りを歩く。靴底から伝わる硬質な感触が、今日という日の現実を骨の芯に刻みつけてくる。

 通りには、同じ方角――中央区画に聳える『フォルティア中央魔法学院』を目指す馬車の列ができていた。貴族の紋章を掲げた豪奢な馬車、裕福な商人の子弟を乗せた瀟洒なキャリッジ。それらが石畳を削る車輪の音だけが、朝の冷たい空気を震わせている。


 ルシアンは、その馬車の列の脇を、影のように歩いていた。

 着古した外套のフードを目深に被り、視線を足元に落とす。三週間の節制と訓練で、体は以前より一回り引き締まり、感覚は剃刀のように鋭敏になっていた。すれ違う馬車から漏れ聞こえる談笑、御者の舌打ち、遠くで鳴る教会の鐘。それら全ての音が、彼の脳内で立体的な地図を描き出す。


「……行くぞ」


 小さく呟き、ポケットの中の黒い石を握りしめる。

 今日は、旅の終わりではない。本当の地獄への入り口だ。

 彼は顔を上げ、街の中心に突き刺さる黒灰色の尖塔を見据えた。あれが、彼が挑むべき巨大な城塞だった。


 彼はこの場所に、全てを賭けに来たのだ。

 生まれ持ったこの忌まわしい力を、呪いではなく武器に変えるために。


 痩せこけた胸の奥深く。

 彼の魂核が、新たな戦いの始まりを告げるように、静かに、しかし力強く脈打っていた。それは、まだ誰にも知られていない、小さな炉心の鼓動だった。


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