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アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜  作者: アズマ マコト
第1章

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第13話EP-1-7 後編: 泥啜りの記憶

 指向性収束


 月明かりが、水たまりの表面に冷たい波紋を描いていた。

 ギルドの喧騒と酒の匂いが嘘のように遠い、街の裏側。ここは、忘れられた者たちが行き着く袋小路だ。壁と壁に挟まれた細長い空には、砕けた陶器のような月が浮かんでいる。湿った石畳からは腐臭が立ち上り、ルシアンが昼間に纏っていた下水の汚泥の匂いと混じり合って、彼の孤独を一層濃くした。


 彼は、その水たまりの前に屈み込んでいた。ギルドで剥ぎ取ってきた羊皮紙は、汚れた服の内ポケットで彼の体温を吸い、まるで生きているかのように微かな温もりを保っている。あれが、この泥濘から這い上がるための、唯一の蜘蛛の糸だ。


 彼の視線は、水面に浮かぶ一枚の枯れ葉に注がれていた。黒い水の上で、それはまるで小さな舟のように静止している。今日の標的は、これだった。


 ゆっくりと息を吸い込む。胸の奥深く、心臓があるべき場所に鎮座する鉄塊が、ごとりと重い音を立てて脈打った。それは生命の鼓動というより、古びた工房で巨大な槌が振り下ろされるような、無機質で絶対的なリズムだった。そのリズムに呼応するように、ポケットの中にある『黒い石』がじわりと熱を帯び始める。数日前に森で拾った、得体の知れない石片。だが、まるで生きているかのように温かいその石の感触だけが、彼が独りではないことを教えてくれる唯一の慰めだった。


 魔力を練り上げる。体中を駆け巡るそれは、まだ奔流と呼ぶには程遠い、制御の効かない濁流だ。これを、指先の一点に収束させる。


 彼が求めるのは、純粋な指向性を持つ力の発現。

 包帯で固定された右手が、鈍く痛む。一週間前の爆発で折れた人差し指と中指は、未だに少し曲がったままだ。

 だが、構うものか。

 名付けるなら、『指向性』。不可視の空気の弾丸で、水面を揺らすことなく、あの枯れ葉だけを正確に弾き飛ばす。それができなければ、フォルティア中央魔法学院の門を叩く資格などありはしない。


「……ッ!」


 歯を食いしばり、指先に意識を集中させる。鉄塊の心臓が軋み、圧縮された熱量が指先で火花を散らす寸前まで高まる。


 放て。


 瞬間、指先で小規模な破裂が起きた。未熟な回路が圧力に耐えきれず、皮膚が内側から弾けたのだ。

「ごっ、……!」

 焼けるような激痛が神経を逆流し、古傷の骨がきしむ。右腕全体が痺れ、感覚が遠のいていく。放たれたのは鋭い弾丸などではない。


 水たまりが、内側から破裂した。汚れた水が巨大な口のように開き、派手な水飛沫を上げてルシアンの全身に降り注ぐ。まるで、世界そのものが彼の未熟さを嘲笑うかのように。


「……ぐ、ぅ……」


 呻き声が漏れた。顔から滴る汚水は、氷のように冷たい。腐臭が鼻腔を突き刺し、吐き気を催させる。だが、彼の瞳から光は消えなかった。むしろ、失敗のたびにその輝きは増していく。狂気と紙一重の、執念という名の光が。


 もう一度だ。


 痺れる腕を無理やり持ち上げ、再び指を構える。心臓が鳴る。黒い石が熱くなる。魔力が渦を巻く。


 またしても、水面は無残に爆ぜた。


 ***


 その光景を、遠く離れた場所から見つめる瞳があった。


 フォルティア中央魔法学院、女子寮の最上階。

 月光が差し込む静寂の部屋で、ミリア・レーンフェルは銀の水盤を覗き込んでいた。


「……非効率」


 吐息のように、言葉が漏れた。

 水盤に映る映像の中、泥まみれの少年が何度も何度も、愚直に爆発を繰り返している。魔力の浪費。無駄な消耗。身体中が傷だらけで、右手の包帯などとっくに泥水で汚れている。


「でも……」


 彼女は言葉を続けた。指先で、水面に映る彼の姿をそっと撫でる。


「……純粋」


 その瞳に、ほんの僅かな光が宿る。それは好奇心と呼ぶにはあまりにも静かで、興味と呼ぶにはあまりにも深く、そして感情と呼ぶにはあまりにも冷たい光だった。


 あの少年の魔力の核。その中心にある一点。それは、どんな不純物も混じらない、純粋な力の結晶体だった。磨かれていない原石。いや、原石というよりは、地中深くに眠る鉱脈そのもの。


 ミリアの胸の奥が、ちくりと微かに痛んだ。理由のわからない痛み。それは、遠い昔に失くした何かを思い出すような、あるいは、生まれる前に知っていたはずの旋律を耳にするような、奇妙な郷愁を伴う痛みだった。


「……また、明日も視えるかしら」


 彼女は、ただ静かに見つめ続ける。感情のない瞳の奥で、静謐な湖面に小石が投げ込まれたような、微かな波紋がゆっくりと広がっていく。


 路地裏では、また一つ、水飛沫が上がった。ずぶ濡れになった少年は、それでも倒れることなく、ふらつく足で立ち上がり、再び水たまりに浮かぶ枯れ葉を睨みつけた。その瞳は、諦観など微塵も知らなかった。


 ポケットの中の『黒い石』を、祈るように強く握りしめる。心臓と共鳴する熱が、彼の冷え切った指先に、最後の闘志を注ぎ込んでいた。

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