EP-1-6 規格外の烙印
中央魔法学院、一般開放講義棟。
その大講堂の空気は、死んだ海の底の泥のように肺にへばりついた。
幾世紀もの間、選民たちの呼気を吸い込み続けた石壁。そこから滲み出すのは、風化した羊皮紙の骸の匂いと、渇いたインクの鉄錆びた味だ。
高いゴシック窓から突き刺さる光条は、教室の薄暗さに対してあまりに鋭利だった。それは慈悲深き神の光などではなく、金で席を買った「不純物」を灼き尽くし、選別するために降り注ぐ、冷徹な断罪の刃そのものだった。その冷たい光柱の中で、埃の粒子が無言の舞踏を演じている。それはルシアンのような「銅貨で席を買った部外者」を値踏みし、拒絶するかのような、無機質な視線の集合体だった。
「……良いか、諸君。マナとは動力であり、枯渇すれば形を留められぬが――」
骨が擦れるような乾いた教官の声が、静寂を切り裂いて響く。
「人には元来、個を保つ機能がある。故に、意志の力のみで限界を超える放出など不可能だ。歴史書にあるような古代の術理など失われて久しい。したがって……」
象牙色のチョークが黒板に叩きつけられ、カツカツと硬質な音を立てて走る。
「たとえ『暴発』したとて、精々が気絶か体調不良。安心して放出したまえ、とな」
教官は侮蔑を込めて鼻を鳴らす。
「マナを体外へ出すには、感じ取ったマナの存在を、それぞれの個として存在する『意識の孔』から送り出す必要がある。この孔にマナを通すには、意識の回路図の構築が必須である」
黒板には人体を模した図と、そこから無数に伸びる矢印が描かれていく。マナという名の生命力を、ただ無為に体外へ垂れ流すための、精緻極まる排水設備の設計図だ。
「黒板に回路の典型を描いた。これを網膜ではなく、意識そのものに焼き付けろ」
そして教官は結論を告げる。
「……以上が、放出型魔術回路における『流出』の基礎理論だ」
ルシアンの指先が、震えた。
ペン先が滑り、羊皮紙に一滴のインクが落ちる。それはまるで傷口のように、じわりと黒く紙繊維を侵食していった。
(――違う)
思考ではない。魂からの、生理的な嘔吐感にも似た拒絶だった。
教えられている理論は正しい。この学院の、いや、この世界の魔術体系における絶対の教義だ。だが、ルシアンの魂に鋳込まれた規格外の『機関』が、それを冒涜だと、致命的な欠陥設計だと叫んでいた。
マナは『流す』ものではない。
内に堰き止め、極限まで圧縮し、そして――『爆発』させるための燃料だ。
周囲に目をやる。なけなしの金を払って参加した冒険者崩れや、裕福な商人の子弟たちが、必死の形相でペンを走らせている。彼らは呼吸をするように、この『排水』の理論を信奉している。教官の侮蔑混じりの講義を、まるで金言か何かのように有難がっているのだ。それが常識であり、この世界で「魔術」に触れるための唯一の作法だと信じて。
ルシアンだけが、着火した信管を抱えて逃げ場のない爆弾だった。肉という容れ物に、規格外の熱源を直に溶接された歪な存在。
逃げ場のない鉄釜の中で、今まさに火種が爆ぜようとしている。この講義は、その圧力を無視して、無理矢理にでも外部へ穴を穿てと強要しているのだ。それがどれほど愚かで、破滅的な自壊行為であるか、ここにいる誰も理解しない。
理解できるはずもない。彼らが素焼きの壺であるならば、ルシアンは黒色火薬が詰め込まれた鋳鉄の弾殻なのだから。
***
「――次、ルシアン・フォルト」
張り詰めた空気の講義室に、査定官の冷徹な声が響き渡った。そのひと言で、澱んでいた空気がさらに重く沈む。周囲の視線が、まるで屠殺場へ引かれる家畜を見るかのように、憐憫と冷たい好奇をない交ぜにして突き刺さった。
椅子を引く脚が床を削る音が、墓場のような静寂の中で断末魔の叫びのように響く。ルシアンは前に進み出た。嘲笑はない。誰もが、これが最後の機会であることを知っているからだ。魔術の才能。それだけが、この泥濘から這い上がる唯一の蜘蛛の糸。
銅貨五十枚。なけなしの全財産を握り締め、この査定の機会を買い取った。失敗すれば、彼には泥の中に帰る場所すらない。心臓が肋骨の内側から城門を打ち破る槌のように脈打ち、その轟音が耳を塞ぐ。
「基礎魔術、着火。『熱よ、指先に灯れ』――『スア(Sua)』。刻限は十秒」
査定官は告げる。まるで判決のように。
ルシアンは右手を突き出した。震えを殺す。肺が悲鳴をあげて酸素を求め、意識を内なる深淵へと沈めていく。
(……水門を、開く)
魔術師たちが説く教義。魔力とは制御された水流。蛇口を捻れば流れ、締めれば止まる。安全で、清潔で、凡人たちのための奇跡。そのイメージを、魂に焼き付けた瞬間だった。
ルシアンの体内深部、魂の炉心で、地獄の釜が沸騰した。
幻聴ではない。骨を伝い、脳髄を直接揺さぶる轟音。規格外の怪物を、脆弱な肉体という檻に無理やり押し込んだかのごとき歪な奔流。圧縮されすぎたマナが出口を求め、血管の内側で暴れ狂う。
(駄目だ、圧が、高すぎる……!)
水門を開く、などという生易しいものではない。これは満水状態の巨大ダムの壁面に、縫い針の先端を押し当てる行為に等しい。
「何をしている。早くやれ」
査定官の苛立ちを含んだ声が、鋭い針となって鼓膜を穿つ。焦りが、理性の弁を最後のひと押しでこじ開けた。ルシアンの精神が、その圧倒的な圧力の奔流に、ほんのわずかに触れてしまった。
刹那。
世界から、音が消えた。
炎は生まれなかった。
指先から噴き出したのは、真空に対する世界の拒絶だった。熱ではない。炎ですらない。純粋な、運動エネルギーによる『消去』。空間そのものを飢えた獣が食いちぎるように、前方のすベてを飲み込み、無へと還元した。
「うわぁっ!?」
「きゃあああっ!!」
悲鳴が、音の回帰と共に遅れて届く。ルシアンの目の前にあった長机が、飴細工のように粉々に砕け散り、木片の散弾となって放射状に炸裂した。衝撃の余波に薙ぎ倒された前列の候補者たちが、床の上を無様に転がる。
思考を麻痺させる甲高い耳鳴りと、揺らぐ視界。粉塵が舞う光景の中、ルシアンは呆然と己の右手を見下ろした。
指がない?
いや、ある。だが、それはもはや人の指の形ではなかった。人差し指と中指があり得ない角度に折れ曲がり、瞬く間に紫黒色に変じていく。裂けた皮膚から、血が真珠のように盛り上がり、ぽた、ぽたと床に染みを作った。
「……ッ、ぐ、ぅ……!」
灼熱の楔を打ち込まれたかのような激痛が、遅れて神経を焼き切った。獣の呻きが喉から漏れ、ルシアンはその場に膝から崩れ落ちる。講堂は恐慌の坩堝と化し、査定官が血相を変えて駆け寄ってくるのが、悪夢のスローモーションのように見えた。
失敗だ。完全な失敗。
着火すらできない欠陥品。銅貨五十枚をドブに捨て、備品破壊の負債まで背負い込んだ。
だが。
痛みの向こう側で、ルシアンの意識は奇妙なほどに冷え切っていた。
(……回路が、焼けた)
脈打つ指の残骸を見つめながら、彼はひとつの冷徹な「事実」を反芻する。
今の爆発は、魔術の失敗ではない。凡庸な魔術師用に設計された「魔術回路」が、俺の魂の熱量に耐えきれず、融解しただけだ。
脆い鋳鉄の筒では、ドラゴンの息吹は受け止められない。砲身が裂け、土台が砕けるのは当然の帰結。ならば、どうする? 火を消すか? 一生、騙し騙し、この怪物を飼い殺して生きていくのか?
(――否)
ルシアンの瞳の奥、苦痛に潤むその深淵で、狂気じみた青白い燐光が灯った。
既存の回路が合わないのなら、自分で組めばいい。
このエンジンに耐えうる、鋼鉄の回路を。戦士の肉体で魔術を駆動させる、まだ誰も見たことのない新しい論理を。
それは、魔術師としての安寧な道を捨て、地図のない荒野へ踏み出すに等しい。常識への反逆。神への冒涜。
だが、彼にはもう、それしか残されていなかった。
混乱が渦巻く講堂の喧騒から切り離された絶対的な静寂の中、ルシアンの決意だけが、懐中に在る黒い石のように、重く、硬く、その場に沈殿していた。
***
「……ずっと、探していた。この“泣き声”を……」
ミリア・レーンフェルは、嵐の中心で立ち尽くす少年の背中を見つめていた。
周囲の喧騒も、風の音も、彼女の耳には届かない。ただ、彼から放たれる赤と黒の不協和音だけが、彼女の魂を直接揺さぶっていた。
「懐かしい……」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
彼女の胸の奥、心臓の隣にある空白が、疼くように熱を帯びる。
あのデタラメで、自滅的なエネルギーの奔流。それは彼女が遠い記憶の中で知っている、何よりも美しく、そして何よりも悲しい光の色に似ていた。
観測ログなどではない。理屈でもない。
ただ、魂が彼を『知っている』と叫んでいる。
『……な……か……ない……で……』
遠い記憶の底で、誰かが泣いていた。そして、誰かが誰かにそう告げていた。
その声は、自分自身のもののようでもあり、まったく別の誰かのもののようでもあった。
ミリアは胸元を強く握りしめた。その痛みの正体が何なのか、彼女にはまだ分からない。だが、決して目を離してはいけない。
あの時の約束を――最初で最後の約束を、今度こそ守らなければならないということだけは、本能が理解していた。
***
医務室の空気は、消毒用アルコールと安香草の匂いが混じり合い、独特の饐えた臭気を放っていた。
禿頭の老医師は、ルシアンの折れた指を無造作に引っ張り、木片を添えると、黄ばんだ包帯で強く巻き上げた。
「……ぐ、っ!」
「動くな。骨は定位置に戻した。だがな、小僧」
医師は包帯の端をピンで留めると、侮蔑と憐れみが入り混じった視線を投げかけた。
「治癒魔法をかける金など、お前にはなかろう? 自然治癒だ。だが、元通りに動くとは思えん。関節は固まるし、雨の日には痛むだろうよ」
「……構いません」
ルシアンは脂汗にまみれた顔で、短く答えた。
右手の先は白い塊となり、ズキズキと脈打つような激痛が脳を焼き続けている。だが、これが対価だ。
彼は左手で治療費代わりの銅貨三枚をカウンターに置くと、逃げるように医務室を出た。
講義棟を出ると、日は既に傾いていた。
包帯で固定された右手が重い。だが、その痛みこそが、彼が「魔術師」としての第一歩を踏み出した証だった。
指が曲がらなくとも構わない。痛みが一生消えなくとも構わない。
あの爆発――「指向性エネルギーの制御不全」。その感覚だけは、右手の痛みと共に確かに魂に刻まれていたのだから。




