EP-1-5 後編: 共鳴する孤独、二つの心臓を編集
同時、ルシアンの脳を灼く閃光。
経験の在り処を持たない記憶の断片が、神経を直接掻き乱した。
――死を洗浄するかのような、薬品の無機質な冷香。
――生命の残量を告げる電子の心拍音。ピッ、ピッ、という規則正しいリズムが次第に速度を上げ、やがて甲高い断末魔の叫びへと変わる。
――血の色を映して点滅する、灰色の壁。赤い警告灯。
――誰かの手を、握っていた。その柔らかな温もりが、指の間から砂のように零れていく。
駄目だ、行くな。
叫びたいのに喉が焼き付いて声にならない。
守ると誓った。
この手で、この命で。
なのに、鉛の絶望が臓腑に流れ込み、四肢を石に変えていく。
魂が引き裂かれる激痛。
取り返しのつかない喪失が、古い傷となって刻まれている。
なのに――なぜだ。
その絶望の底に、陽だまりのような安らぎがあった。
失ったはずの温もりを、懐かしいと心が震えている。
この痛みこそが、自分の一部なのだと魂が肯定している。
矛盾の嵐が、意識を眩ませる。
「……ッぐ……!」
獣のような呻きが漏れ、ルシアンはかっと目を見開いた。
目の前の少女の貌が、水面の月のようにぐにゃりと歪む。
ギルドの喧騒が、分厚い水壁の向こう側のように遠ざかっていく。
現実と幻の境界線で、糸のようにか細い声が鼓膜に触れた。
「……やっと、見つけた」
囁きではない。音だ。意味を持つ、ただの音波。
感情という熱を完全に剥奪された、硝子が石を擦るような声。
それは失くしたパズルの最後のピースを嵌める直前の、無感動な事実確認。
その言葉が意味を結ぶより早く、横合いから伸びた手が、張り詰めた静寂を乱暴に引き裂いた。
「ミリア様! このような掃き溜めで、何を。……お戻りください。我々の空気が澱みます」
引率役の男子生徒だった。
その声には、貴族特有の傲慢さと、隠しきれない焦燥が粘りついていた。
汚物でも払うかのように、少年は少女――ミリアの細腕を掴む。
その指は、血の気を失うほどに強く食い込んでいた。
ミリアは抵抗しない。
意思を抜かれた人形のように、引かれるままに身体が傾ぐ。
彼女の存在がルシアンから離れた瞬間、懐の石の脈動がぴたりと止み、代わりに抉られたような空洞が胸に生まれた。
引き剥がされる。――あのビジョンで感じた無力感が、今、現実の肉体を苛んでいた。
無理やり背を向けさせられ、出口へと連れられていくミリアが、ただ一度、振り返った。
青紫の瞳は、深淵のように静かだった。
だが、ルシアンには見えた。
その底で、声にならない何かが揺らめいているのを。
助けを求める悲鳴か、置いていかないでという懇願か。
わからない。
だが、それを見捨てれば、自分の何かが決定的に壊れてしまうと、本能が警鐘を乱打していた。
だが、動けなかった。
金縛りにあったように、足が床に縫い付けられている。
引率生徒が放つ刺すような敵意。生まれという、決して越えられない亀裂。
そして何より、内側で荒れ狂う理解不能な感情の奔流が、思考の全てを麻痺させていた。
分厚い扉が軋み、閉ざされる。
少女の気配が完全に消えた途端、呪いが解けたように世界に音が戻った。
冒険者たちの下卑た笑い声、エールジョッキがぶつかる音、床を踏み鳴らす無骨な足音。
その全てが、先程までの静寂を冒涜するかのように、ルシ-アンの鼓膜を殴った。
「おい、見たかよ今の……」
「中央魔法学院の制服だ。なんであんな雲の上の連中が、こんな肥溜めに……」
「あのガキ、何かされたんじゃねえのか?」
好奇と侮蔑の視線が、槍のように突き刺さる。だが、ルシアンの耳にはもう届いていなかった。
嵐は去った。
懐で微熱を保つ石と、脳に焼き付いた記憶の残滓。
そして、魂の半分を抉り取られたかのような、途方もない虚無だけを残して。
「……おい、ルシアン。大丈夫か?」
カイルが、心配そうに肩を揺さぶる。その声すら、現実味がない。
「顔、死人みてえだぞ。一体誰なんだ、あの子は……知り合いか?」
知り合い?
あり得ない。天上の星と、泥中の石ころ。交わるはずがない。
だが、あの瞳。あの声。この、胸を灼く痛み。
答えられなかった。ルシアンはただ、ミリアが消えた扉を呆然と見つめる。
何が起きた?
あの少女は、誰だ?
そして、俺の中にいる、この『喪失』は――誰のものだ?
答えを、手掛かりを、この混沌を理解するための何かを。
飢えた獣のように、ルシアンの視線がギルドホールを彷徨う。
雑多な依頼書がひしめく掲示板。いつもなら見向きもしないその板の一画に、彼の目が釘付けになった。
そこだけが、まるで異質な空気を放っていた。上質な羊皮紙に、流麗なインクで綴られた告知。
『――中央魔法学院主催:魔法基礎講習 参加者募集――』
***
魔法。
脳髄に焼き付く烙印のように、その二文字がルシアンの思考を貫いた。
ミリアを連れ去ったあの不可視の力。
常人の理を超え、世界の法則を捻じ曲げる奇跡。
祝福された者のみが扱える、自分とは無縁の領域。
そう、信じて疑わなかった。
だが、今は違う。
あの現象。
ミリアの瞳の奥で揺れた燐光。
そして、今もなおこの胸の奥で疼く記憶の熱。
点と点が線で結ばれるには、世界の理そのものを、根源から解体する必要があった。
視線が、告知の羊皮紙の下隅に吸い寄せられる。
『参加費:銅貨五十枚』
その数字が網膜を焼いた瞬間、心臓が、凍てつく冬の川に投げ込まれたように収縮した。
銅貨五十枚。
それは、この数ヶ月、ルシアンが泥を啜り、魂を削り、生存そのものを切り売りして手に入れた対価の、すべて。ゴブリンの返り血に染まり、巨大ネズミの巣で糞尿にまみれ、眠る時間さえ惜しんでかき集めた、彼の命の結晶。
なまくらの貸与剣を捨て、己の命を守る一本のまともな鋼の剣を買うための、唯一無二の希望。
「……おい、ルシアン」
隣から絞り出すような声がした。カイルだ。ルシアンの視線の先にあるものに、彼も気づいたのだ。
「正気か。……まさか、馬鹿な真似はしねえだろうな」
声には焦燥と、ほとんど懇願に近い響きが滲んでいた。
「やめろ。絶対にやめるんだ。魔法なんてのは、生まれついた星が違う連中のためのもんだ。祝福された血か、神に愛された才能か。俺たちみたいな掃き溜め育ちが触れていい領域じゃねえ」
カイルの言葉は、氷のように冷たく、そして正しかった。
この世界の揺るがぬ真実。生存本能が頭蓋の内側で狂ったように警鐘を鳴らす。
剣がなければ死ぬ。
次の依頼で、ゴブリンの棍棒に頭蓋を砕かれるか、猪の牙に喉を食い破られるか。
その程度の違いしかない。
戦闘禁止期間など名ばかりだ。
この街で生きるには、常に牙を剥いていなければならない。武器こそが、唯一の神だ。
理性が、脳が、カイルの言葉に全面的に同意していた。
そうだ、やめろ。これは狂気の沙汰だ。
明日の命を投げ打って、掴める保証もない幻に手を伸ばすなど、愚者の極みだ。
だが。
魂が、それを拒絶した。
心の最も深く、暗い場所。
そこに座る何者かが、声なき声で叫んでいた。
知らなければならない、と。
あの少女は何者で、この胸の痛みは何で、そして、自分は、一体何者なのか。
この問いから目を逸らし、ただ生き永らえる。
それは本当に「生きている」と言えるのか?
意味も分からず呼吸し、餌を食らい、眠るだけの肉塊。檻の中の家畜と、何が違うというのだ。
死の恐怖と、魂の渇望。
その二つが彼の内で血を流しながら争い、天秤は軋み、今、まさに砕け散ろうとしていた。
「……死ぬぞ、ルシアン」
カイルが、現実を突きつけるように言った。
「本当に死ぬ。俺は、お前の無残な死体なんざ見たくねえ」
その言葉が、最後の引き鉄となった。
ルシアンは、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸から、迷いは消え失せていた。あるのは、崖淵から奈落へ身を投じる罪人のような、昏く、静かな覚悟だけ。
彼は無言でカイルの横をすり抜け、一歩を踏み出した。
鉛を飲まされたように足が重い。
一歩、また一歩、受付カウンターへ。
周囲の冒険者たちが、訝しげに道を開ける。
好奇、侮蔑、そして憐憫。
無数の視線が槍となって背中に突き刺さる。
カウンターでは、受付嬢のラインが頬杖をつき、長い亜麻色の髪を指で弄んでいた。
その気怠げな瞳が、幽鬼のような足取りで近づくルシアンを捉える。
彼女の目に映る自分は、さぞ滑稽なのだろう。
血の気を失くした顔で、全財産を握りしめて最後の賭けに出る、哀れな孤児。
カウンターの前に立つ。震える手で、腰の革袋を掴んだ。紐を解き、逆さにし、その中身をすべて、硬い木のカウンターにぶちまけた。
ジャラララッ、と鈍く重い音が、静まり返ったギルドホールに響き渡った。
それは、ルシアンの生存権が砕け散る葬送曲だった。
茶色くくすんだ銅貨の山。一枚一枚に、彼の血と汗と、ささやかな希望が染みついている。
ラインの、常に気怠げな仮面に、初めて微かな亀裂が走った。
ルシアンは、その銅貨の山を、震える指先で前へと押しやった。
「……これで……『魔法基礎講習』を、お願いします」
声が、喉に張り付いて掠れた。
生存を放棄し、未知の真理にすべてを賭ける。理性が狂気と断じる選択。
ラインは、ルシアンの顔と銅貨の山を二、三度見比べ、ふっと短く息を吐くと、いつもの事務的な表情に戻った。
「はい、承りました。銅貨五十枚、確かに。お名前は?」
「ルシアン・フォルト」
「では、こちらが参加証になります。日時は裏面に記載しておりますので」
彼女は手際よく銅貨を木箱に掻き入れると、一枚の羊皮紙をルシアンに差し出した。
背後で、カイルが絶句している気配がした。
「……本気、なのかよ……」
力なく呟く声が聞こえる。だが、その声はもうルシアンの心には届かない。
差し出された羊皮紙は、参加証というにはあまりに重く、まるで判決文のようだった。それを、壊れ物を扱うように両手で受け取る。
視線を落とした先の手は、もう空っぽだった。
先程まで、ささやかな未来への切符を握っていたはずの手。
腰の革袋の虚しい軽さが、彼の選択の重さを物語っていた。
だが、不思議と後悔はなかった。
代わりに、胸の奥で熱を宿す石が、彼の狂気を是とするかのように、一度だけ、とくん、と力強く脈打った。
嵐は終わったのではない。本当の嵐は、今、始まったのだ。
呆然と立ち尽くすカイルの視線の先で、ルシアンは空っぽになった両の拳を、血が滲むほど強く、強く握りしめていた。




