勇者の役目
黒い皮膜の中身は、知っている相手だった。
「母さん!」
オルディアの声が、神界の澱んだ空気の中で響く。
切り裂かれた膜が失せて、呆然と立っているのは……声をかけた息子を前にして力が抜けた様子で膝をついたのは、若い頃のまま姿が変わっていない……神の装束に身を包む、長い黒髪の女性だった。
実際に亡くなったお母さんを目にしたオルディアの、私を抱える腕に力が入る。
それでもひび割れた魂の回復を進める魔王と一緒に、私もうつむく神を見つめた。
「……やっぱり、おばさんがフルルを呪った犯人だったのか……」
油断なく剣を向けたままのティーカーがつぶやいた言葉に、自分の正体を改めて聞いた女性が顔を覆って、絶望に染まる声を漏らし始める。
「……ぁ……あぁ……あぁぁ……」
きっと、姿を見せずに全部終わらせるつもりだったんだ。
でも、呪いは解かれた。ティーカーも神の正体を明かすつもりで戦った。
幼い頃に別れた私たちを前にして、負けるなんて思ってなかった神が頭を抱えている。
ティーカーが剣をしまうと、エルフェリスの前に立ちはだかった状態から、私たちに前を開けるように避けた。
「母さん」
オルディアの呼びかけに、レムスのお母さんは……エルフェリスは私たちに顔をあげて、向き合ってる。
「……どうしてフルルを呪ったんだ」
見つめるオルディアに気づいたら、泣きそうに歯噛みして……立ち上がってまた逃げようとしたけれど、ティーカーがすぐに回り込んで、腕を広げて止めた。
「なあおばさん、レムス、ずっと悲しんでるんだ。
何があったのか、おばさんの口から説明して欲しい」
諭すティーカーに阻まれて、心臓を押さえるように白の服を握りしめた女性がこちらを向く。
オルディアも真っ直ぐにお母さんを見つめていて、でも唇を噛んで震える姿に、悲しそうに目を細めた。
「純真の神エルフェリス。
神に尋ねたかったから、答えてほしい」
名前を呼ぶ涼やかな声を、誰もが聞いていた。
エルフェリスも成長した子供の声に、自分の体を両手で抱きながら、静かに耳を傾けている。
「僕は母さんが好きだった」
少しうつむいて、目も合わせられない。
オルディアはそれでも、まっすぐに問いかけた。
「まだ幼い僕から母さんを奪ったのは、なぜだ」
神の小さな肩は、震えている。
答えはないまま……問いかけに、エルフェリスが透明な涙をこぼしたのが見えた。
大粒の涙が、瞳に浮かんでは瞬きのたびに溢れる。
六歳で別れて、惨劇からも生き延びた息子が声をかけるのを聞きながら……お母さんは声も押し殺して泣いていた。
「僕は母さんが、きっと次の尊い役目を神にもらったんだ……そのためにお別れするのも仕方なかったんだって、ずっと思っていた」
お母さんは転生して、次の世代にいなきゃいけない。
だから神に選ばれて急逝したんだって、泣きながら一緒に理解した幼い頃の姿が浮かんだ。
「いつか神にも会って、僕から母さんを奪った理由を尋ねる……その決意を支えにしてきたから、辛くても前を向けた。
神様に本当のことを教えてもらうんだって、母さんの幸せを願いながらも考えていた」
ずっと自分を信じて祈りも捧げていた息子の言葉を聞いて、黒の神が震える手で顔を覆った。
静かに、水滴が落ちていく。
泣き咽ぶ声が聞こえるうちにも、少しずつ楽になってきた体でオルディアの手を取って、握った。
まっすぐに……小さい頃に死別したはずの母親を見つめるオルディアと一緒になって、事実を見つめた。
「どうして、僕たちの前を去ったんだ。
どうして、今……フルルを呪ったんだ」
黒の神からは小さく、本当に小さく、声が聞こえた。
「ごめん、なさい……ごめんね、レムス……っ……ごめんねっ……」
謝罪の言葉だけが、響く。
私の手を握りしめたオルディアの深緑の瞳が暗く沈んで……腕の中で心配して見つめる私に気づくと、悲しみも飲み込んで顔を上げた。
オルディアは、銀の髪を横に振っている。
「ずっと、尋ねたかったんだ。
でも……答えはもう、いらない」
「オルディア……」
「僕は神に会って、答えを聞きたかった。
それと同時に……短い生涯を終えてしまった母さんに、今度こそ長く続く幸せを祈りたかったんだ」
自分の元を去ってしまったのは、『次の役目を果たすためだ』と、言い聞かせてきたように。
幼い頃、失ったお母さんにずっと『次の生では幸せでありますように』と、祈りを捧げたように。
「聖神エルフェリス。
僕は母さんが生まれ変わって、次の尊い役目を果たせることを信じている」
力が抜けたように膝をついた女性から、ひどく泣き咽ぶ声が聞こえる。
前魔王を真っ直ぐに愛した、純真の神。
息子を捨て、息子の愛した相手であっても復讐のため奪おうとした黒の神は、ただ頭を下げて謝罪を繰り返した。
オルディアはようやく回復が終わった私にも気づいて、抱き寄せた。
「フルルの回復も終わったから、そろそろ帰ろう。
ティーカー、助かった。また連れ帰ってくれ」
「……俺は、いいけど。オルディア、ちゃんとおばさんと話せたのか? 本当に帰っていいのか」
「これ以上話せることはないだろう。
それに、僕も……母さんが泣いてるのを見るのが、辛いんだ」
大好きだったからこそ、目の前で我が子を前に泣き咽ぶお母さんを見るオルディアの瞳が、悲しそうに細められた。
ティーカーは頷いて……私たちを神界から戻してくれた。
「う……」
目覚めた時には人形みたいに小さなティーカーの体をお腹に乗せて、真っ白な大聖堂の中で仰向けに倒れていた。
胸にはいつも通り聖剣を抱えているけれど、倒れる前に感じてた剣の重みよりずっと軽く感じる。弱化の呪いが解けたんだって、それだけでも分かった。
オルディアが、すぐそばに目を閉じて座っている。
反対側には膝をつく副教皇がいたけど、床の上で手当を受けていたみたいで、回復魔法の感触が消えた。
「勇者フルル、目覚めましたか。危うく命を落とされるところでした」
状況の説明をしてもらえたけど、私は女神に魂を連れて行かれて、呪いに全身を食われながら倒れたらしい。
でもオルディアが指示を出して副教皇たちが回復魔法を掛け続けてくれたことで、蝕まれ続ける肉体も滅びずに済んだ。
そばに座るオルディアも瞼を開けたけど、私に気付くとすぐに抱き締めてくれた。
「フルル、無事か」
「うん……呪いも全部解けたみたい。体も軽くなってるよ。
オルディアとティーカーが名前を調べてくれたおかげだね、ありがとう」
「僕たちなら必ずくると信じて、答えを待ってくれたからだ。……無事でよかった」
抱き寄せて頬擦りしてくれるオルディアの暖かさが心地いい。
ティーカーはまだ眠ってるみたいだから落ちないように腕で包んで立ち上がったけど、オルディアに副教皇は改めて目を向けている。
「勇者フルル、そちらの方は? 回復魔法に精通されているようですね。
以前のパーティにはいらっしゃらなかったようですが……異国の神官でしょうか」
「え? えっと、神官でもあるけど……さっき言ってた神の子で、私の幼馴染のオルディア……名前でわかっちゃうと思うんだけど、魔王オルディア、かな」
「魔王? オルディアは確かに存じ上げておりますが……聖神の子が魔族の王などあり得ません。
同名の神官なのでしょう? 勇者フルルはご冗談がお好きですね」
説明しようとする口を開けたら、オルディアの手のひらが覆い被さって塞がれた。
腕の中に、しっかり抱き寄せられてる。
背の高いオルディアに包まれながら、つむじの上で顎がぐりぐり擦り付けられる感触に真っ赤になった。
「残念だが、フルルは目覚めたばかりで混乱しているらしい。
僕の父の名はフィユット……元勇者パーティの神官で、魔法も父から手ほどきを受けた。
指示通り回復を続けてくれたおかげで、フルルは全快している。助力に感謝する」
「おお、フィユットの子ですか。敬虔な信徒ですから、神にも愛されたのでしょう。
改めて神官オルディア、神の子にお会いできて光栄です」
口を塞がれたまま握手してるのを見てたけど、これは『何も言うな』ってことかな。
副教皇も神官としてオルディアを理解してくれたらしく、穏やかに頷いている。
「神より試練は終わった旨のお告げもありました。記憶の間に立ち入ったことなどは全て不問といたします。
今日はお疲れでしょう。勇者フルル、またお越しください」
挨拶するとオルディアがすぐに空間移動して、風景が魔王の部屋に戻った。
ティーカーも目を開けて、腕の中から飛び出た。
『あー終わったー。人形のフリしてたから肩が凝ったぜ』
途中から目覚めてた幼馴染が、元気に両手をあげて伸びをする姿を見て安心する。
振り返ったティーカーが小さな拳を差し出したから、私も拳を合わせた。
『改めて、フルル。無事に戻って来られてよかったなっ』
「二人が頑張って名前探してくれたおかげだよ。ありがとうっ」
オルディアとも拳を合わせた。……笑顔を浮かべてるけど、元気がない。
「僕の事情にまで付き合わせて悪かった。
もう夜も遅いから、フルルは風呂にでも入って寝る準備を済ませるといい。
ティーカーもようやく安心して寝られるようになったんだから、保管庫に帰るか。また明日の朝食でも話せるからな」
一人になりたがってるオルディアを見て、ティーカーが私を見上げてる。
私も今出来ることをしなきゃって、聖剣を腰から外すとベッドに置いた。
「わかった、じゃあお風呂入ってくるねっ」
『えっ、待てよフルル!?』
ティーカーが慌てて飛んできた。
範囲外になる前に私の背中を掴んで肩に乗ったティーカーが、耳に顔を寄せた。
「この状態のオルディア放って行くのか?
一人にしたってレムス思い詰めるだけだってフルルもわかってるはずじゃ……あ、そっか悪い、そのための風呂ってこと?!」
「ちょっと何想像してるの、やらしいこと言わないでよティーカー。
私にもやることがあるの。二人で遊んで待ってて。オルディアもその方が気が紛れるよ」
「……? やることってなんだよ」
「出来るか試してないから内緒。
じゃ、オルディアのことお願いねっ」
慌てるティーカーを置いて、服を脱いだらすぐに全身を洗った。
オルディアが落ち込んで塞ぎ込んでるのは分かってるけど、私が今やるべきことは、中途半端に慰めることじゃない。
お風呂の中で跪くと、静かに祈った。
純真の神エルフェリス。
純真の神エルフェリス。純真の神エルフェリス。純真の神エルフェリス。純真の神エルフェリス……。
『聞こえているわ』
神と心が繋がった感覚がして、やっぱり、って名前が隠される理由に納得してた。
自分の正式な名前を知ってる相手には呼ばれやすくなるから、神は正式な名前を隠したいんだ。
冒険神カイナスは、冒険者全員に名前が知られている。
だって冒険者ギルドの職員は、神を通じて権能を使わないと仕事が出来ない。
カイナスも毎回どこで呼んでるのかを把握して、すぐに答えている。
でも聖剣の神は祈ってしばらくしないと、答えてくれないことも多い。
――つまり、名前が知られてる神と知られてない神の違いは『呼び出しやすさ』なんだ。
聖剣の神は救いを求める民の声を全部聞いてたら大変なことになるから、勇者にすら名前を知らせない。
魔族と出奔する勇者も昔いたって聞いたし、安易に広まっても困るから隠してるんだ。
今は心のつながったエルフェリスに、真剣な思いを伝えた。
『私、まだ納得できてないんです。
オルディアの前だから言えなかったと思うんですけど。
レムスのお母さんがどうしてレムスを置いていったのか、真実を教えてください』
エルフェリスから、答えはない。
けれど心は繋がっている。
切られたってまた何度だって呼び出せるようになってしまった神から、小さな嘆息が聞こえた。
『……言ったって、仕方のないことよ。それに……呪ったばかりの相手に言うはずがないでしょう?』
『じゃあ何度だってこうして呼び出しますね。言いたくなるまで』
しん、と心が通じなくなった感覚になった。
再び名前を呼び続けた。
答えてください純真の神エルフェリス。純真の神エルフェリス。純真の神エルフェリス……あ、繋がった。
『小さい頃はもっと可愛かったのに、大きくなったら可愛げがなくなったわね、フルルちゃん』
『村が滅んで、小さいうちから世界中走り回ってたらこうなります。勇者は遠慮してたら生きていけないんです』
静かになったけど、心は通じたままだから声をかけた。
『話せる範囲で構いません。女性同士、話しませんか。
どうして、レムスを置いていったんですか』
顔を合わせていた方が、話しにくいこともある。
特に自分の子供がいる場所では、言えないこともあるはずだ。
『勇者として、問います。
レムスは置いて行かれた理由を知りたがっています。お母さんって言ってもらえなかった理由も知りたいはずです。
正直に教えてください、悪いようにはしません』
『……今更何を言っても同じことよ。
あの子を傷つけたことに変わりはないし、日記で私の過去は知っているでしょう?』
『はい。だからこそ真実が聞きたいです』
はっきり肯定すると、エルフェリスが言葉を少しだけつぐんだ。
それでも待っていると……小さく、寂しい声音が響いた。
『……もうまともに生きていられない私のそばに、この子を置いてちゃいけないって、思ったからよ』




