モノローグの海
「ねえ、誠くん。さっきの場所、覚えてる?」
突然の問いに、俺は足を止めた。
振り返ると、ミサトが、海を見つめていた。青くはない。言語化されない記憶が沈殿した――黒い、言葉のない海だった。
「ヴァルが言ってた。ここはモノローグの海。名前を与えられなかった想いだけが、沈む場所」
空は曇天。波も風もなく、ただ静かに、果ての見えない言語の海が広がっている。
「……あたしさ、この場所、たぶん知ってる気がするんだ」
ミサトの声が、どこか震えていた。
「ステージの上に立ってるのに、誰もこっちを見てない気がして……。それでも笑って、踊って、必死に自分を作ってた」
彼女の足が、ゆっくりと水辺へと近づく。
「誰にも見つけてもらえなかった記憶が、ここにはあるの。たぶん……あたしの最後のステージが、ここにある」
「待て、ミサト!」
俺の呼びかけも届かないまま、ミサトの体が水面に沈んだ。
====
暗い。けれど、懐かしい。
重たい。けれど、心地いい。
――そんな矛盾が、ミサトの身体を蝕んでいく。
(あたしは……誰に見てほしかったんだろ)
地下アイドルとして過ごした日々。
SNSでのいいねの数に一喜一憂して、
ファンの前では無理して笑って、
スタッフからは「キャラ弱いね」と冷たくされて――
(本当のあたしなんて、誰も見たがらなかったじゃん)
だから、笑ってた。軽く振る舞ってた。誰かの理想の偶像になろうとした。
でも……
(……それで、何かを手に入れたの?)
目の前に現れたのは、もうひとりのミサトだった。
髪型も、声も、服も、まったく同じ。けれど、目だけが違う。
虚ろで、すべてを諦めた目をしていた。
「――なに、それ。まだ、自分に期待してるの?」
「……!」
「この世界で何をしたって、誰も見てくれないよ。あたしは知ってる。そうやって、誰にも選ばれない自分を、何度も笑ってやり過ごしたじゃん」
「……やり過ごしてなんか、ないよ」
「じゃあ、あたしに名前をつけてよ」
「――え?」
「ほら、ここは名前を持たない記憶が沈む海でしょ。じゃあさ、あのときの自分に、ちゃんと名前をつけてやれば、消えずに済むじゃん」
もうひとりのミサトが、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
その手は、冷たくて、でも確かに自分の手だった。
「……『ミサト』じゃダメ?」
「それは今のあたしの名前でしょ? あのときのあたしには、あたしなりの名前をつけてよ」
ミサトは考える。
ステージで笑って、でも心は泣いてた自分。
承認欲求と孤独で出来ていた自分。
「……じゃあ、エンプティ」
「……空っぽ?」
「うん。でも、空っぽだったじゃなくて、空っぽだったから、埋めようとしてたって意味で」
もうひとりのミサトは、ふっと微笑んだ。
その笑顔は、どこか懐かしく、優しかった。
「――なら、エンプティは、ミサトに引き継がれる」
そう言うと、エンプティは静かに泡となり、海へ還っていった。
====
気がつくと、砂浜にミサトが倒れていた。
「ミサト……!」
「……ふふ。泣いてないよ」
ミサトはそう言って、立ち上がった。
「大丈夫。ちゃんと、自分に名前をつけてきた」
俺は言葉が出なかった。
ただ、確かに思った。
――この子は、もう誰かの偶像じゃない。
自分の物語を、自分の声で語ろうとしている。
「……ありがとね、誠くん」
「え?」
「もし、あたしが、また笑えなくなったら、そのときはさ」
彼女は、少しだけ寂しげに笑った。
「あたしのこと、ちゃんと呼んで」
俺は、頷いた。
その名前を、二度と忘れないように。