勇者は俺たちを見ていない
目を覚ましたとき、世界は音を失っていた。
いや、正確には――音が止まっていた。
空の裂け目から落とされた俺、藤間誠は、気づけば奇妙な静寂に包まれた空間に立っていた。灰色の空、バグった建物の残骸、止まった時計の針。
時間すら、ここでは動かないのか。
「……ここは、どこだ?」
声が、やけに響く。
ミサトやマコトの姿はない。俺一人だけ。だが、すぐに気づいた。
――いる。この世界に、何かが。
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それは、まるで物語の中心から歩いてきたような存在だった。
長い黒髪。白銀の甲冑。虚無を映すような瞳。
彼は、ゆっくりと俺の前に降り立った。
「君が……観測対象・誠か?」
「……誰だ、お前は」
「クロウ。勇者クロウと呼ばれていたこともある」
「勇者……?」
「誤解するな。これは称号ではない。機能名だ」
目の前の男は、どこか機械めいた口調で言った。
「君のような非採用者が、スクラップ領域に干渉した記録が確認された。よって、この空間の整合性維持のため、対象の削除を実行する」
「……は?」
次の瞬間、俺の背後の空間が爆ぜた。
何かが通った。目に見えぬ一閃。風すらも遅れてついてくる。
反射的にしゃがんだ俺の背上で、バグった鉄柱が真っ二つになっていた。
「な……何なんだよ、お前……!」
「感情的反応、正常。だが不要」
その男は――勇者クロウは、表情ひとつ変えずに剣を振った。
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死を覚悟した瞬間。
――「それ以上、動いたらマジでぶっ飛ばすよ?」
その声は、空間を震わせた。
次の瞬間、空気が揺れた。
光。音。振動。そのすべてが共鳴して、クロウの動きが一瞬止まる。
「っ……!」
「間に合った!」
俺の横を駆け抜けたのは、ミサトだった。手には、錆びた拡声器。そこから放たれた共鳴波が、クロウの動きを鈍らせたらしい。
「逃げるよ、誠くん!」
「で、でも!」
「反論は後で!」
俺の腕を引っ張り、彼女は走る。
その後ろを、今度はマコトが続く。
「くっ……奴が出てきたってことは、スクラップ世界が本気で処理対象になってきたってことか……!」
「どういう意味だよ!」
「俺たちはもう、放置していい失敗作じゃないってことさ!」
マコトの言葉に、背筋が寒くなる。
そうだ。勇者――クロウ。
あいつは、ただの敵じゃない。
俺たちの存在そのものを、無かったことにするための、整合性の番人だ。
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「くそっ……!」
廃墟を駆け抜け、地下通路へ潜り込んだ俺たちは、どうにかクロウの追撃から逃れることができた。
瓦礫の陰に身を隠し、荒い呼吸を整える。
「アイツ……人間なのか?」
「元はね」とミサトが呟いた。
「かつて、異世界に選ばれた者。でも、役割を終えたあとも捨てられず、管理AIに吸収されたらしいよ」
「……AIの勇者?」
「うん。物語の整合性を守るためだけに動く、無感情な番犬ってとこ」
マコトが、珍しく真面目な口調で言った。
「俺たちが、物語になれなかった存在なら、あいつは、物語に囚われすぎた存在なんだよ」
その言葉に、俺はぞっとした。
物語に、囚われすぎた――?
それは、どこか……他人事に思えなかった。
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その夜、崩れた空の下で、俺たちは焚き火を囲んだ。
クロウのこと。世界の崩壊が進んでいること。かつて、この世界に再スカウトが訪れたこと。
「それって……また誰かに選ばれるってことだよな」
俺が言うと、ミサトはかすかに笑った。
「うん。皮肉だけどね。でも、もしそれが本当なら――」
「俺たちにも、選ばれる理由が必要ってことか」
「理由……ね」
マコトがつぶやいた。
「そんなもん、俺には……」
「あるよ」
俺は言った。
「少なくとも今、俺たちは……生きてる。無意味だと思ってたこの世界で、一緒に逃げたってだけで、それはもう、ひとつの物語だ」
ミサトが目を見開く。
マコトが顔を伏せる。
俺たちの名もなき日々は、確かに始まっていた。
「なあ、次は……こっちから動かないか?」
「え?」
「再スカウトを待つんじゃない。迎えに来るやつを、探しに行くんだよ」
その提案に、ミサトが笑った。
「それ、ちょっと……バカっぽくていいね」
そしてマコトが、ぶっきらぼうに言った。
「行くなら、付き合ってやるよ。ヒマだしな」
焚き火がはぜる音が、夜に溶けていく。
物語の外側にいた俺たちが、ようやく歩き始めた気がした。
たとえそれが、また新たな絶望の始まりだったとしても――