過去――紗良を覚醒させるための計画
紗良がゆっくりと目を開けると、そこは眩い光に包まれた荘厳な空間だった。
天井も床も、どこまでも白く、かつ透明感のある輝きに満ちている。
空気は透き通るほどに清らかで、柔らかな風が頬を撫でていく。
「ここは……?」
目を覚ました紗良の前には、一人の男性が立っていた。
彼は厳格な表情を浮かべながら、手にした分厚い書類の束に目を通している。
その姿はどこか圧倒的な存在感を放ち、彼の後ろには天界の広大な光景が広がっていた。
男性は、紗良が目を覚ましたことに気づくと書類をそっと閉じ、彼女に向き直った。
「紗良よ、目が覚めたか」
その声は深く響き、厳かでありながらどこか温かみを感じさせるものだった。
「あなたは……」
紗良が驚いたように顔を上げる。
目の前の男性は、彼女にとって見覚えのある存在だった。
「……前にここで、あなたに会いましたね」
厳格な神はうなずきながら、紗良に椅子を勧めた。
「そうだとも。君がトラックに轢かれて死んだとき、この天界で私が君に道を示した。そして今、再び君はここに戻ってきた」
紗良は深く息を吐き、椅子に腰掛けた。その手は微かに震えている。
「どうだった、今世は」
厳格な神が書類を脇に置きながら尋ねる。
紗良はしばらく目を閉じ、胸の内を探るようにして言葉を紡いだ。
「……守りたいものは守れた……そう思います」
その声は穏やかで、しかしどこか確信に満ちていた。
「そうか」
厳格な神は軽くうなずいた。
紗良は続けて、かつての記憶を掘り起こすように話し始めた。
「前の世界では……私は結局、誰も守れませんでした。助けたかった子どもも、守れずに……」
言葉が詰まり、紗良の瞳に一瞬だけ涙が浮かぶ。
「あのとき、あなたが私にこう言ってくれましたよね。『守れる世界へ行け』って」
紗良は厳格な神の顔を見つめる。
厳格な神は頷き、静かに語り始めた。
「そうだ。君の魂は悔いを抱えたままだった。その悔いが君を天界に縛り付けることになると分かっていた。だからこそ、君に新たな世界での使命を与えた。『守れる世界』で何を成すかは君次第だったのだ」
紗良は感慨深げに目を伏せる。
「あの世界での私は……人ではなく、戦艦の一部となる選択をしました。それでも、私が成し遂げたことは意味があったのでしょうか」
厳格な神はしばらく目を閉じ、静かに答えた。
「紗良よ、君の行いは数多の命を未来へと繋げた。それは間違いなく、君の存在があったからこそだ」
紗良の胸の奥に温かい感覚が広がる。
「……悔いは、ありません」
その言葉に厳格な神は微笑み、彼女の肩に手を置いた。
「よろしい。では、君の魂は浄化され、新たな命として再び生まれる時が来た」
紗良の目が大きく見開かれる。
「新たな命……ですか?」
「そうだ。君が守った世界で、その未来を生きる者として、新たな生を授かるのだ」
厳格な神の言葉に、紗良は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「その未来に……また私の手で守った命があるのなら、それだけで十分です」
しかし、厳格な神の目には、微かな哀愁が宿っていた。
「紗良……だが、その未来では、君の記憶はすべて消えることになる」
紗良は驚きに目を見開いた。
「記憶を……消されるのですか?」
「そうだ。君が再び新たな生を得るためには、これまでの記憶をすべて手放さなければならない」
厳格な神の声は厳かであったが、どこかに微かな哀しみが滲んでいた。
「君は一度記憶を持った状態で転生して精神が擦り切れている。今の状態で再び過去の記憶を持ちながら新しい命を生きることは、私の力をもってしても難しい。だが、消えるのは記憶だけだ。君が積み重ねた意志と魂の強さは、新たな生に確実に引き継がれる」
紗良は一瞬考え込むように俯いたが、すぐに顔を上げた。
その目には、覚悟の色が宿っている。
「記憶が消えてしまっても……私の魂に刻まれたものが、誰かのために役立つのなら、それで構いません」
紗良は微笑みながら、静かに言葉を紡いだ。
「新しい命を守るための一歩となるなら、私はそれを受け入れます」
厳格な神は深く頷いた。
「その言葉、確かに受け取った。君の意志は、次の生に確実に受け継がれるだろう」
厳格な神が杖を一度床につくと、紗良の周囲に光の波が広がった。
その光は、彼女の体を包み込むように漂い、徐々に強く輝きを増していく。
「紗良、君の決意は私たちの期待を超えるものだ」
厳格な神の言葉と共に、光は紗良の全身を浄化するように輝き続けた。
紗良は閉じかけた目で神を見つめ、最後にもう一度微笑みを浮かべた。
「……私が守った未来、そこに生きる命たちが、笑顔でありますように……」
その言葉を最後に、紗良の姿は完全に光に包まれ、消えていった。
厳格な神は光が消えた後の空間を見つめながら、静かに呟いた。
「お前の意志が新たな生でどのように花開くか……見届けさせてもらう」
その声はどこまでも穏やかで、同時に重みを伴っていた。
天界には再び静寂が訪れた。
紗良を新たな未来へと送り出した後、厳格な神は一つ息をつき、再び手元の書類に目を落とした。
厚みのある書類の山が彼の机の上に広がっており、その内容は魂の動向や転生計画、そして次なる「調停者」候補に関する記録など、膨大な情報が記されている。
書類の中には、紗良の記録も含まれていた。
彼女が紡いだ命の歴史、紗良が守った世界の繁栄、そしてその世界における技術の制御についての詳細なデータ。
厳格な神は慎重にそれらを読み進めていた。
すると、扉もノックもなく、突如として部屋の片隅に影が広がり、そこから不気味な雰囲気を纏った人物が姿を現した。
不規則に歪んだ形状の装飾をまとい、薄暗い笑みを浮かべているのは混沌を司る神だった。
「ヒヒッ……お久しぶりですねぇ、厳格なるお方」
混沌の神は引き笑いを漏らしながら、不作法に厳格な神の机の前へ歩み寄った。
厳格な神は冷たい視線を混沌の神に向けた。
「ここには来るなと言っておいたはずだが?」
その言葉には、凍てつくような鋭さが宿っている。
だが、混沌の神はまるで意に介さない様子で肩をすくめた。
「そうおっしゃらずに。久々にお会いしたというのに、そのような冷たい態度は悲しいですよ」
「何用だ」
厳格な神の声には、微塵も温情はなかった。
混沌の神は机に肘をつき、不快なほど近い距離で厳格な神の顔を覗き込む。
「先ほどの魂、紗良という少女……改めて転生させたということは、計画通りに進んでいるとみてもよろしいでしょうか?」
厳格な神は書類を一枚めくりながら、冷然と答える。
「ああ、問題ない。すべて予定通りだ」
「素晴らしい!」
混沌の神は手を叩いて歓喜の様子を見せた。
その歪んだ笑みは、祝福というよりも、悪意を隠そうともしない表情だった。
「では」
混沌の神は姿勢を正し、あくまで公式な場のような口調で語り始める。
「彼女が守った世界についてですが、残念ながら、しばらく混沌に陥っていただきます」
厳格な神の眉がわずかに動く。
「どこまで行うつもりだ」
「人口を、そうですねぇ……数千万人規模まで削減し、技術体系も一度崩壊させます」
混沌の神の声は抑揚がなく、どこか機械的にさえ聞こえた。
「技術を信仰が上回っているとはいえ、秩序と信仰が薄れ始めている現在、これ以上放置しては問題ですからねぇ。惑星全体で戦争を引き起こし、秩序を取り戻すための手段とさせていただきます」
厳格な神は目を閉じ、一つ息をついた。
「……できれば貴様の力など借りたくはなかったのだがな」
「ですが、これが必要なことであるのはあなたも承知でしょう?」
混沌の神はにやりと笑いながら、厳格な神の反応を楽しんでいるようだった。
「紗良を『調停者』として覚醒させるには、避けられぬ道だ」
厳格な神の言葉にはわずかな苦渋がにじんでいた。
「彼女の肉体は前回の転生で破壊された。そして、今回の転生でその記憶を失わせた。だが、それだけでは十分ではない」
厳格な神は書類をまとめながら続けた。
「最後に彼女の精神性を壊し、再構築する必要がある。それが今回の転生の目的だ」
混沌の神は手を打ち鳴らした。
「素晴らしい!肉体、記憶、そして精神……全てを壊して再構築するとは、まさに完璧な工程ではありませんか」
「……これも、すべての世界の秩序を守るためだ」
厳格な神は視線を机に落とし、静かにそう締めくくった。
混沌の神は満足そうに立ち上がり、部屋を去り際に振り返った。
「ならば、私は私の役目を果たしますよ。秩序のためにねぇ」
扉が閉まった後、厳格な神は机に残された書類に目を落としたまま、小さく呟いた。
「……紗良、お前は最後まで乗り越えられるか」
その声は、誰にも届くことのない静かな問いかけだった。




