クラクラしてきた
夕方から雨が降るなんてニュースでは言っていた。
朝から、降る前に帰りたいねと同僚たちが口にする中、私は早く嵐が去るよう祈った。
ゴロゴロ…ピシャーーー!
ひどい土砂降りだ。
トイレにでも逃げ込んでやり過ごそうとしたのに。
一際大きい雷の音に足がすくんで、廊下で蹲ってしまった。
耳を塞いでも震えてしまう。
怖い。動けない。やだ。誰か。
「何やってんの」
肩を叩かれてどうにか顔を上げると、
「す、い…」
「わ」
よく見知った顔に、考えるより前に飛びついていた。
「何だよ」
尻餅をついた翠の胸に、耳を塞いだままで顔を埋めた。
「立って」
「あっ」
グイッと脇に手を入れて立たせると、翠の肩に腕を回させて私をズルズル引っ張って行く翠。私はただ、力の入らない足を縺れさせながら引き摺られていく。
バタンとドアが閉まって、カビ臭い部屋に入った。
資料室だろうか。
ベンチに座らせられて翠の匂いがしたかと思うと、目の前が暗くなって、体温に包まれた。
「んぎゃ」
「色気よ」
翠のカーディガンを頭から被せて、耳を塞ぐ私の手の上から頭に腕を回したらしかった。
「雷ダメなんだ」
私は抵抗らしい抵抗もできず、翠の肩口に乗せた頭を縦に振った。
華奢に見えて、しっかりした肩、骨ばった腕、聞き慣れた低い声。
「カワイーとこあるじゃん」
安堵でボロボロと出てくる涙が翠の服に吸われて行っても、遠くで雷の音が聞こえてビクリと震えても、翠は私を離さなかった。
「夕方には上がるって。傘ないから早く上がってほしいね」
しゃくり上げる私の背中を宥めるように撫でるから、息が、吸い込める。
肺いっぱいに翠の匂いが広がる。
ジュニパーベリーの、スパイシーな香り。
よく知った翠の匂いに安心した。
同時に、脳の芯が痺れるくらいクラクラしてきた。
「し、ごと…」
「は、余裕だねぇ?無理だろその状態で。」
「でも…」
「俺今資料探すって言ってサボり中だから、共犯な」
「え…」
「見つかったら一緒に怒られて」
雷は遠くに行ったのに、今は雨の音だけが聞こえているだけなのに、翠はそのまま私を抱きしめていた。
「普段どうしてんだよ、これ」
「イヤホンして、布団から、出ない…」
「はは、難儀だねぇ」
私も私で、カーディガンを被ったまま、何でか「もう大丈夫」の一言を言い出せない。
翠がトントンと背中を叩くまで、翠に体を預けていた。
「…そろそろ戻るか」
頭に被せたカーディガンを取ってやっと見えた翠のキレーな顔に、怖かった気持ちも忘れて、顔が緩んだ。
「ありがとう」
髪を軽く整えてくれる翠は、ちょっとだけ口角を上げて、私のほっぺをふにっとやわらかく指ではさんだ。
「ひっでぇ顔」
「あ!ど、どうしよ…」
安心して忘れかけていたが震えて泣いてしまったし、大して化粧していないとはいえ、目も鼻も真っ赤だろう。
「顔洗って帰れよ。定時過ぎてるからそんな人いないだろうし」
「え!?いつのまに…ご、ごめん…」
「ん」
カーディガンを羽織りながら資料室を出る翠に続く。
「あ、川嶋さ…」
タイミングよく通りかかったらしい、後藤くんと目が合ってしまった。
ポカンと私の顔を凝視する後藤くん。
ひどい顔見られちゃったな。
「何?チェックなら置いといてくれればいいのに」
「あ、えっと、今日中に仕上げたくて」
翠にトンと肩を押されて、私は心配そうな後藤くんを通り過ぎてトイレへ向かった。