優しいもんね
私と真紘が引き留める中、翠は退職してフリーランスになるそうだ。
「やめないでよう」
「無理だね。次決まってるし全部引き継いだ」
退職もそれからの仕事も全部決まってから言うあたりが狡い。
「後藤くんが泣いてたよ。仕事多すぎって」
「多くねぇよ定時で上がれあれくらい」
私が何を言っても、翠はどこ吹く風で、静かにレッドアイを煽った。
「元々2〜3年で独立するつもりだったし。5年いたのが奇跡」
「5年も10年も一緒じゃんー!」
「組織の中にいるの向いてねぇの、俺」
「じゃあ何で5年続けたの?」
「さあ」
茜と翠のやりとりを見ていた真紘は、歯切れの悪い翠に笑いが込み上げた。
「そりゃーマキちゃんがいたからだよね」
「ん?どゆこと?」
「辞めたらマキちゃんに毎日会えなくなっちゃうもんねー?」
ニマニマする真紘。
ぽかんと翠を見る私。
ふいとそっぽを向く翠。
「耳赤くない!?」
「…酒のせい」
「ぎゃ!ギブギブ!!」
ガシッと私の後ろを取って腕で首を締める翠。
パシパシと腕を叩くと緩めてくれたが、離してくれないから翠の顔が見れない。
「あーこのやりとり毎日見れなくなるのほんと悲しー」
頬杖をついた真紘は、じゃれる私たちを見て残念がった。
「てか、マキちゃんの異動も営業部的にはかなり痛手なんだけど」
「茜が人事部って天職っぽいよね」
「新人教育とかも担当するみたい。楽しみ」
そう、私は私で営業部から人事部への異動が決まり、引き継ぎやら新入社員の入社の準備など、てんてこ舞いだ。
フロアが変わるだけなのに、営業部で送別会を開いてくれた。
そこで感極まって号泣してしまった私を「毎日会えるから!ね!?」とみんなで慰めてくれた。なんていいメンバーと仕事してたんだ。
「じゃあまた!新天地でも頑張ってね」
「おー!」
お開きにして、お店の前で真紘と別れた。
酔ってふわふわ駅へ歩き出そうとする私の手を取って、お前はこっちと、翠の家の方へ手を引かれた。
「翠の手、冷たいね」
「心があったかいんでね」
「優しいもんね」
「………」
なんでそんな変な顔するの。
翠は優しいよ。困ったときいつも助けてくれるし。
…助けて、くれてたし…
ムクムクと、不安と悲しみがまた膨らんでくる。
時折、本当にいいのかなと思う。
詳しく言わないが、翠は女性経験豊富なんだと思う。
私は元カレくらいしか知らないけど、キスも巧いし。
元カレとはキスもえっちも、したけどそんなに好きじゃなかったのに、翠とするとキスだけですぐに何も考えられなくなってしまう。
だから、翠は私といて満足してるのかなって。
デートは私が見たい映画に行ったり、聖地巡礼をしたり。
翠の買い物に付き合うこともあるけど、ほぼ買うものを決めて行って試着してサイズ確認して買うスタイルなので、5分もあれば終わってしまう。
そこに私の意見は必要ないようだ。
飲みにも行くが、美味いがおしゃれではない焼き鳥屋や焼肉、大衆居酒屋がほとんどだ。
それから、ダーツ、ボーリング、バッティングセンターなど。
ロマンチックなデートとは程遠い。
女友達とオシャレなカフェでパンケーキを食べに行くこともあるが、どっちかというと一緒に行く子が喜ぶ姿が見たいだけで、パンケーキはいわばオマケだ。
甘いものも好きだが、調べても翠と行くと思うとしっくり来ない。
行きたいと言えば大抵付き合ってくれる。
そんなに楽しそうには見えないが。
聞いても、行きたいところもしたいこともないと言われてしまう。
これまでの昼食だって半ば強引に連れ回していただけで、翠が行きたいお店ではなかったのだと思う。
あれ。
いつ飽きられてもおかしくないんじゃ…
そんな中、翠が来月で会社を辞めると聞かされたのだ。
元々副業でもいろいろやってたらしく、独立するのだそうだ。
副業してるのも、知らなかったし。
私、なんの相談もされてない…
◇◆◇
翠の家に着いて、お気に入りの毛足の長いラグで、毛先を弄りながら、お風呂の準備をしに行った翠を待った。
「なんでやめちゃうのー」
「まだ言ってんの」
「ま、毎日会えなくなるじゃん…」
翠はポスンと大きいビーズクッションに座った。翠の定位置だ。
うるっとした。
人生の大きな決断を黙ってるなんて酷い。
私なんか会えなくなってもいいってこと?
って、ずっと私の中でぐるぐるしている。
「会えばいいじゃん。仕事終わりにうち来ていいし。忙しい時期だとあんま構えないかもしれないけど」
「んえ」
「休みの日も会えるでしょ付き合ってんだから」
「あ、そっか…?」
思いがけない提案に、涙が引っ込んだ。
「…てか、なんで辞めたら会わなくなる前提なの」
「へ?え?」
「えーっと…?」
きょとんとしていると、翠は困惑した様子で、私の前に座って目線を合わせる。
「もしかして…どうでもいいと思ってたわけじゃない…?」
あれ、それってもしかして、ほんとに真紘の言う通り私と会えなくなるのが嫌だからってだけで、会社やめなかったって聞こえるんだけど。
自惚れちゃうよ…?
「………ん?」
「私とお昼食べるの楽しくなかったのかなとか…」
「バーカ」
手を伸ばす翠に、恐る恐る近付くと、抱き込まれる。
翠はちゅっと音を立てて私の涙をぬぐった。
「あんまり泣くと、可愛くて酷くしちゃうよ」
「へっ!?」
「はは」
翠は私の髪をかき混ぜながら、両頬にキスを落とした。
「翠って、実は私のこと大好きだったんだね…?」
「うるせー」
そう言いつつ、翠はそうやって私を甘やかす。
思ったことはあんまり言ってくれないしぶっきらぼうだけど、私だけが大好きなわけじゃないって、思っててもいいのかな。




