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失った記憶。
それはやはり、大切なものだった。
アポロンは南国の艶やかな蝶たちに囲まれ、ゆっくりと歩いていた。
あの夜、自分が何を思ってヘルメスに触れたのかもう判らない。
そして、それをなかったことにしようとしている、ヘルメスにも気付いていた。
空虚な欠如感が、確かに二人を隔てているというのに。
「もしも、記憶がない間に酔った勢いで僕を押し倒した、って言ったら信じる?」
以前、ヘルメスが言った言葉が、実はもっと深い意味を持っていたことに気付く。
自分は、同じことをしたのだろうか。
そして、翌日になればすっかり忘れ果てて、ただの友人として笑ったり冗談を言い合ったりしていたとでも?
それこそ、冗談ではない。
そう思う一方で、アポロンはその夜の自分に激しい嫉妬を覚えた。
自分はなんと言って、彼を引き寄せたのか。
彼はどうしてそれに応えたのか。
今の自分達にはない、素直に欲しいものに手を伸ばし、妙な疑念や探り合いのない、純粋な感情があったような気がする。
「…これでは片想いでもしているみたいだな…」
ふぅ、と溜め息混じりに呟いて、アポロンは行く手を阻んでいた木の枝を無造作に押しのけた。
ザァァァ…
ずっと聞こえていた水音が、ふいに耳に大きく響く。
真っ赤な花に彩られた岩山から、水が溢れるように流れ落ちて滝壷を作っていた。
その水の上に、ゆらゆら揺れる花びらと…何か緑色のもの。
それがヘルメスの帽子だと気付き、アポロンは青い瞳を見開く。
「ヘルメス?!」
「…あ」
ほどけて肩まで降りかかった砂色の髪から、ポタポタと雫を滴らせて、滝の下に手を伸ばしていたヘルメスは、背中越しにアポロンを振り返る。
「ここ、とても気持ちいいよ」
珍しく気負いのない、無邪気な笑みを浮かべる。
天界にいる時のヘルメスの笑顔は、いつもどこか作られたものだった。
「そう…だな」
白いチュニックが肌に張り付き、くっきりとその身体のラインを浮き上がらせる。青年と言うには華奢な首筋から背中に水が伝い、その下まで…。
アポロンが気付いたときにはすでに、泉の中に足を踏み入れ、自分の両腕が彼の背を抱きしめていた。
「アポロン…?」
「…言っただろう。私の理性にだって限界と言うものがある」
「っ、僕は……!」
「判っている」
しっとりと濡れた髪に手を這わせる。その柔らかな手つきに、ヘルメスは瞳を閉じる。
「…判ってないだろ」
こんなことで、アポロンを失いたくない、という気持ちが。
彼の恋はみな儚い。
姉への叶わぬ恋情は別として、どれ一つ長く連れ添った例がない。
走り回っていなければ、吹かない風のように自身が消えてしまうような焦燥を胸の奥に秘めたヘルメスにとって、アポロンは唯一不動の輝きだった。
彼が親友として迎えてくれたことで、ヘルメスの世界はその形を成した。
だから、その繋がりを手放すことは出来なかった。
過去に大勢いた彼の恋人の一人として、美しくも甘い思い出の中に埋もれるわけにはいかない。
ヘルメスが必要としているのは、常に”今”であり、その継続のために生きているのだから。
「…そろそろ戻ろうか、アポロン」
もう少しこの掌に甘えていたいけれど、このまま溺れてしまいそうで。
「この島が温かいとはいえ、少し冷えたかな」
ヴィラに帰ると代わる代わる浴室で広い風呂を楽しみ、ヘルメスはそのまま巨大な寝台にダイブした。
さらりとしたシーツの感触がなんとも快い。
「ねぇ、アポロン」
寝椅子の上で果実酒を飲みながら書物を読んでいたアポロンが、顔を上げた。
「やっぱり、君もここで寝ない?これだけ広ければ象が共寝しても、まだ余裕がありそうだし。…大丈夫、何もしないから」
最後は笑いながら付け加える。
「それは私の台詞だろう」
呆れたような言葉と共に立ち上がり、アポロンが寝台に歩み寄る。
「なんでこんなに無駄に広いんだろうな」
小部屋一つ分ぐらいはありそうなベッドの端に腰掛け、薄布で覆われた天蓋を見上げる。
ヘルメスは笑いながら指を三本立ててみせる。
「1、今回ゼウス様が口説いたのは巨人の女だった」
「…親父ならやりかねんな」
「2、エウロペの時のように、牛に変身して連れて来る予定だった」
「闘牛サイズか、このベッドは」
「3、いっぺんに大勢の女性とハーレムを楽しむつもりだった」
「……。一番ありそうな気がして頭が痛い…」
ふかぶかと溜め息を吐いたアポロンの肩を、ヘルメスはぽんぽん、と叩いた。
「レト様、元気?」
「ああ息災だ。マイア殿は?」
「うん、大丈夫だよ。ゼウス様も最近はお忍びで来たりしてないし」
アトラスの娘、夜空に輝くプレアデスの一人を母とし、実の父のゼウスのこともいつも敬称でしか呼ばないヘルメスに、どことなく含むものを感じて、アポロンは微かに眉を顰める。
上司として忠誠を誓ってはいるのだろう。しかし、肉親としての愛情が強いかどうかはまた別の話。
アポロンとアルテミスですら、「もう二度と母には近付かないで欲しい」と強く願っているのだ。
「…どうかした?」
一瞬ヘルメスを凝視し黙ってしまったアポロンに、エメラルド色の瞳が細められた。
「いや……」
アポロンはちょっと笑ってみせる。
「私は何と言ってお前を口説いたのだろう、と思ってな」
今度はヘルメスが黙り込む番だった。
「……。別に口説かれた訳じゃ…。君は結局最後は実力行使の人だしね」
実はヘルメスも薬の効果で殆ど何も覚えていないのだが、前回押し倒され掛かった時のことを思い出し、そう付け加える。
「…なるほど、こんな感じか?」
「そうそう…って、ちょっと!」
気が付くといつの間にか距離を詰められて、僅か数センチの所にアポロンが覆いかぶさっている。
白い片腕で頬杖を付き、間近に迫った美しい顔が微笑む。
「それなら、多分、私の本当の気持ちもちゃんと伝えられなかっただろうな」