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「…思い出せないんだ」
冥府の片隅で、じっと俯いていたアポロンを思い出す。
「あの夜、一緒にいたのが誰なのかを」
「…っ!何で君がこんなところに…?!」
死者の魂の案内役として灯篭を点し、冥府の奥深くまで潜っていたヘルメスは、そこにありえない友の姿を見た。
ほのかにうち光る金髪の巻き毛を背中に垂らした、神々しい美しい青年。
一瞬立ち止まり、それから死者のランプをそこに置いて濃緑のマントを翻し、慌てて近付いていく。
神々の中でも、冥府に下りていけるのはごく限られた者のみ。ゼウスとハデスが許可を与えない限り、どんな力を持つ神でも、ここに至ることはできない。
ましてや、光明神のアポロンは最もこの場所から遠い存在と言っても良いぐらいで。
新月の夜に突然現れた太陽のように、全ての理を崩しかねない。
「早く、ハデス様に見つかる前に引き返さないと」
言葉の端々に焦りが滲む。
「…ダメだ」
「アポロン!」
「私がタルタロスに行けば、クロノスが返してくれると予言に出たんだ」
「…返す?何がそんなに大事なものなのか?!」
君自身よりも?!と服の襟を掴んで詰問するヘルメスに、アポロンは目を閉じた。
「私の…記憶を」
「記憶…」
「思い出せないんだ。あの夜、一緒に居たのが誰なのかを」
ヘルメスは、はっと息を呑んだ。
「君が酔い潰れた私を置いて帰った夜…私は誰かと一夜を共にした。
だが、それがどうしても思い出せない。どんな人だったのか、どんな声だったのか、小さな手がかり一つさえも」
「…忘れてしまったということは、それ程の相手じゃなかったってことだよ」
「そうかもしれない。だが…」
アポロンは深く青い瞳を開いた。
「私は、運命の恋だったと思えてならない」
哀しげな、それでいて僅かな陶酔を含んだその囁きに、ヘルメスは唇を噛む。
しまった、と思った。
アポロンの性格を計算に入れるのを忘れていた。
彼は、自分やアレスのように、酔った勢いで知らない相手と夜を過ごして、ま、いっか、と割り切れるタイプではない。
むしろ、忘れてしまったからこそそれを追い求め、理想化し、憔悴する…。
そんなロマンティックな部分を強く持つ、詩人の神なのだ。
「あ~、もう。それはやっぱり僕が悪いな」
ヘルメスは片手で帽子のつばを押さえる。
自分で企み、身に降りかかったことは自分の責任で折り合いがついている。
しかし、アポロンは少しも悪くない。
一夜の相手にも誠実であり続ける。そこが彼の美徳でもあるのだから。
「しょうがない…君をクロノスのところに行かせるわけには行かないし」
そんなことがゼウスにばれたら、とんでもないことになる。
ヘルメスは一瞬、悲痛な表情で目を閉じ、それから溜め息混じりに呟いた。
「あのね、相手は僕だよ」
「ヘルメス…?」
「先に帰ったと言ったのは嘘。僕はあのまま朝まで君と居た」
驚愕に見開かれたアポロンの瞳を見て、ヘルメスはやっぱりこれだけは言いたくなかったな、と思う。
自分の気持ちを曖昧なままで放って置かず、はっきりと自覚した今となっては特に。
しかし、アポロンとの友情という代償を払っても、ヘルメスは彼をタルタロスに行かせたくなかった。自分のせいで、そんな所にアポロンを堕とす訳にはいかなかった。
「だから、君はもう天界に帰って」
にへらと笑って見せる。心になに一つ傷などないかのように。
「今度こそ、忘れていいよ」
むしろ、忘れて欲しい。
「…判った」
この胸の痛みも、なかったことにするから。
次にオリンポスで出会った時、アポロンの態度はいつもとまったく変わりなかった。
正直、いくらステュクスの河の水に誓ったとはいえ、もう友人でもなんでもないと突き放される可能性も考えていたヘルメスには、ありがたい誤算だった。
多分、彼もあの夜のことは忘れることにしたのだろう、と。
それ以上は、ヘルメス自身考えるのを止め、ただひたすら仕事に没頭した。
本来自分の領分でもないようなことまで引き受け、毎日休む間も作らずに走り回る。
こんな休暇でもなければ、多分、アポロンとゆっくり接する機会もなかっただろう。
それにしても。
ヘルメスは、ヴィラの裏手に広がる熱帯の森を散策しながら、小さく苦笑する。
旅行の相手にとっさに、彼を指名してしまうなんて。
「意外と僕も、引き際が悪いんだな…」
…だけど、これだけ広い島だったら、お互い干渉しなくても休日を過ごせるだろう。
僅か七日。
本心を隠すなんてお手の物だ。
翡翠色の鮮やかな木々を抜けて、ふいに聞こえた水音に耳を澄ました。
音のする方へと歩いて行くと、緑に覆われていた視界がある場所で開ける。
目の前に小さな崖があり、そこから一条の滝が清清しい音と共に流れ落ちていた。
崖の上に咲き乱れる真紅の花弁が、落ちた水の上にゆらゆらと浮ぶ。
滝壺は澄んだ泉になっていて、深く美しい水を湛えている。
ヘルメスは、思わず手を伸ばした。
小さな虹を作っているその清らかな流れに。
ジャブジャブと泉の水を掻き分け、滝に近付いていく。
飛沫を全身に浴びながら、彼は初めてこの島を作ったゼウスに心からの感謝を覚えた。