42.忍び寄るモノ
上も下もない、どこまでも広がった空間。
その暗い場所で浮いている自分の姿を見て、「ああ、夢だな」とわかった。
いつもなら、あの遠くに見える私が黒いキャビアに追われたり、黒いキクラゲに追われたりしている。しかし、今日は特にそんな様子もない。目を閉じたまま、宙に浮いているようだ。
(おかしいな。今日は悪夢じゃないってことかな)
「そうだね。今日は悪夢じゃないよ」
(うわあああああ!!)
突然、耳元で聞こえた声に心臓が口から出そうになる。
背後を振り返ると、真っ黒な影が立っていた。
(お化けぇええええ!!)
「お化けではないね」
ひどく落ち着いた様子のお化けに、私は戦慄する。
どうしよう、除霊方法とか元の世界で調べておくべきだった。
「う~ん、あっちの世界の方法がこちらで効くかはわからないよ」
(あっ、確かに)
なるほどと納得していると、目の前にその影が接近していた。
瞬時に身構えると、影が揺らめいた。
「私は君の敵じゃない」
信用ならないことをのたまう影に、さらに警戒心を抱く。
こちらの様子に苦笑した影は、一歩ほど退いた。
「いずれ現で交わる」
(え?何を言って―――)
その瞬間、私の意識は覚醒した。
「何言ってるの!」
ガバッと起き上がる。
ふと、ベッドの上にいることに気づく。
綺麗な内装からして、魔都にいるわけではないことはわかる。
……まさか、あそこじゃないだろうな。
「ネル様、お部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
聞き覚えのある女性の声。
「……どうぞ」
ドアから入ってきたのは、『騎士』の屋敷でお世話になったメイドさんだった。
そう『騎士』の、である。
「『騎士』の屋敷かーー!」
この悲鳴は屋敷中に響き渡ったらしい。
後にライトが教えてくれた、半笑いで。
「え!エンダーとガルクいないんですか!」
「そうだよー」
ベッドの傍でリンゴを剥いているライトが、間延びした声で答える。
どうやら、彼らの間では話がついているようだ。
「しばらく会えないってさ」
「そんな……」
相棒なら一言くらいかけてから行ってほしかった。
ガルクも、せっかく仲間になったんだから、報連相をしてよね。
「私だけ置いてけぼり……」
仲間との突然の別れに、肩を落とした。
そして、どこがいけなかったのかと、体操座りで頭にキノコを生やす。
「まあまあ、ネルちゃん。彼らの思いも汲み取ってあげてよ」
「思い……?」
一体何のことかと、意味深な笑みを浮かべる『勇者』を見る。
彼は答えを言う気はないらしく、そのことに関しては一切口を開かなかった。
「全く、肝心なことははぐらかす人ですねっ」
「許して~」
「謝罪が軽い!」
「アハハッ」
そう言葉を交わしながら、互いにリンゴを頬張った。
手に滴る果汁に、纏わりつく何かを感じた。
(嫌な感じがする)
この感覚の答えは、あの夢に出てきた影と関係している気がしてならなかった。
馴染みのあり過ぎる屋敷を歩いていた正午のことだった。
気分転換に出かけた庭園で、事案が発生した。
「……『騎士』、あなたはお忙しいのでは」
「問題ない」
(いや、部下の人たちには問題があるのでは)
ここからは『騎士』の執務室がよく見える。
なぜ『騎士』の執務室だとわかったかって?
……哀れな部下の方々が、縋るような目で窓にへばりついているからだよ。
「仕事があるでしょうし、戻ってください」
「嫌だ」
「なんか最近、我が儘になってきてません?!」
顔の斑点が消えるまでは『騎士』の元にいることにしたが、その間に『騎士』の様子が変わったことに薄々感づいていた。
明らかに、以前よりも甘えん坊になっている……!
「以前、お前を人形のように思っているのかと聞いてきただろう」
「……!」
突然の話題に、思わず息を呑む。
続く言葉を予想もできない。
「否定はしない」
「……そうですか」
今もなお、『騎士』にとって私は物言わぬ人形のグールなのだと痛感する。
不思議と心が痛む。おかしいな、期待はしてなかったはずなのに。
「以前であればな」
「?」
『騎士』は、噴水に腰掛けている私の目の前に片膝をついてしゃがんだ。
まるで、高貴な者に首を垂れるかのように。
「雄弁に話すお前を見て、次第に違う考えが浮かぶようになった」
困惑する私の左手を引き寄せ、口元へともっていく。
チュッと音を立てて、手の甲に口づけを落とされた。
固まる私に構うことなく、『騎士』は言葉を紡ぐ。
「ネル」
「!?」
初めて『騎士』に名を呼ばれた。
頑なに、私の名を呼ぼうとしなかった彼が。
「どうやら俺は、もう物言わぬお前では満足できなくなったらしい」
(『騎士』ってこんなに喋ってたっけ?!)
ライトと中身が入れ替わっているんじゃないかと疑う。
実はドッキリだったとか。
「死ぬときは報告してくれ」
「ん?」
雲行きが怪しくなってきたぞ。
このとんでもない発言は、間違いなく『騎士』だな。
「輪廻の果てまで追いかけよう」
「重い重い重い!」
どうやら本物の『騎士』のようだ。
この突拍子のない発言、重すぎる発言は彼以外にあり得ない。
「だから勝手に死ぬな」
(ああ、なるほど)
『騎士』は、急に顔に黒い斑点を出した私のことを心配していたのか。
あの症状を見て、私が死ぬんじゃないかと気を揉んでいたのか。
「ははっ、お忘れですか?私はグールですよ!」
―――不死身のね。
言外に言いたいことが伝わったのだろう。
『騎士』は少しだけ、口角を上げた。
「そうか」
「人生も恋も謳歌する所存ですから!」
ドヤ顔でそう言い放つ。
元の世界でできなかったことを、ここでは全部やってやるぞ!
ガリッ
「いたああああいッ!!!」
左手の薬指に痛みが走った。
あれ、この痛みは前に首で感じたような……。
「な、なにしてくれちゃってるんですかっ!!」
「………」
「無視っ!」
『騎士』は満足げな顔で、噛んだ薬指を撫でている。
サイコパスかな?否、絶対そうでしょ!
庭園でギャーワーと叫びながら、『騎士』をなんとか執務室へと送還した。
「お前の恋も愛も、どれ一つ譲り渡すことはない」
騒ぐネルは、『騎士』がそう呟いたことに気がつかなかった。




