◆9◇ 反転した蒼穹は、海を連れて行く。
―◆◇〖リィナ side〗◆◇―
明るい灰みの青の空の下、寄せては返す青い波。与えられた乾いた浮き輪にしがみつく私は、二家族で夏の海へバーベキューに訪れたというのに足を濡らす事すら出来ないでいた。ジリジリと炎天下に焼けた砂が足裏を痛めつけるのに耐えかね、湿った海岸へ踏み出せたくらいだ。また引いた波に砂ごと吸い込まれそうで、私は後ろに下がる。
彼が手を伸ばしてくれているというのに。
中黄に猩々緋の二筋が走る髪は荒々しい。切れ長の尖晶石の双眸は鋭い『棘』を向けるようで、彼と目が合った私を一瞬竦ませる。
『海に入らないの? 』
私に手を伸ばす思い出の中の彼の名は『キレヲ』。三歳上の、私の幼馴染だ。とは言っても、両親同士が仲が良かっただけの付き合いで……今は疎遠になってしまったが。引越した訳では無い。成長すれば、幼い頃のように親しく話せる方が稀では無いだろうか?
『だって……怖いから。全然上手くバタ足も出来ないのに、広い海に流されちゃいそうで』
『まぁ、無理して入っても楽しくない。リィナが泳ぎたくなったら、泳げばいい』
以外にも、キレヲは私に伸ばした手を下ろす。そうだ、見た目で勘違いされがちではあるが……キレヲはきつい性格な訳じゃなかった。
キレヲは私の隣に座って海を見つめる。私も彼の見つめる景色が見たくなって座った。だけど大きすぎる波がリズムを寄せる、果ての無い青の水平線は……やはり私を臆病で小さな存在にした。
『リィナにも泳げる海がある』
私は目を丸くした。たった今私は泳げなかったばかりなのに、海が違えば泳げる……? どういう事だろう。
『リィナの瞳の色と同じ瑠璃唐草の花畑を見たことがあるんだ。大海原のように広がる花畑は空と繋がっていた。あれなら、溺れる事は無い』
『海みたいな花畑があるの……? 』
私はキレヲの語る見知らぬ景色に惹かれた。すると、不思議な事に目の前に広がる『海』への恐怖が、少し軽くなった気がした。自分自身が小さくなってしまうような感覚が蒸発していく……。
『あの花畑は、海でもあり空でもあった。本物の海も、瑠璃唐草の花畑にも『水平線』があるのは同じ。『水平線』を越えた先には、心を揺さぶる何かがあるかも知れない。俺は、その向こうの側の世界が知りたい 。……リィナはどう? 』
キレヲは本物の『海』を指し示す。きっと、今なら平気。
『ちょっとだけ、知りたくなった』
キレヲに手を引かれた私は、勇気をのせて『海』へと踏み出した。冷たさに一瞬身が竦むも、足を浸した青のさざ波は心臓の鼓動に馴染んでいく。弾けた波は、一片の青い花弁に変わる――。
――球体の世界は青一色。
キレヲの教えてくれた世界を見たくなった私は、あの後パパとママにねだり『小さな森の周辺の明るい日だまり』へ遠足に行った。談笑しながら、家族三人で座ったピクニックシートの上。当たり前だと思っていた『幸せ』が、ママが作ってくれたお弁当と一緒に広がっていた。
訪れた瑠璃唐草の花畑は、天上の蒼穹を反転させた大海原のようで……不思議な感覚だったのを覚えてる。彼が言った通り。
私がかつて立ったのは、空と繋がる青だった。後退色である青は、世界をより広く見せる。静かに囁く『荘厳』の花畑は、清々しい。さざ波が形を変えた青い花弁達は風に乗り、旅立つ。きっと『水平線』の向こう側へ往くのだろう。
足元には、まだ私の近くに咲いてくれている瑠璃唐草。おうちにも植えられたら。そう思ったけど、摘み取ろうとしたら茎はポキリと哀しく折れてしまった。瑠璃唐草は繊細な植物なんだ。根付いた場所から、新たな場所へと植え替える事は難しい。蒼穹の欠片は、持ち帰れずに罪悪感が胸を刺した。
妖精のように繊細で弱いのに……どうして瑠璃唐草は私達を荘厳さで圧倒する事が出来るのだろう?
――『弱い』は言い訳にはならない。
瑠璃唐草のように弱くても、私には出来る事がまだあるはず。
―◆ 心象◇◆具現化◇―
「私は、ちゃんと可愛い」
化粧鏡に向かい合った私は、青みの淡い桃色の髪の前髪に編み込みをして奮い立たせる。瑠璃唐草の瞳にはもう涙を溜めたくないから。睫毛を人形のように、マスカラで上げる。化粧が涙で崩れるのは、乙女のご法度だ。
憧れた『アイの勇気』をリボン結びに身につけた。明るい黄のフリルヘッドドレスだ。弱さを認めた瑠璃唐草の花飾りを添えて。
「私、未知を恐れたくない。踏み出すのは怖いけど、『思い出』をパパとママに取り戻して欲しいから。だから教えて、貴方達の『仲間』になれば私の望みは叶う? 」
私は〖Boutique Sun〗のダンスホールで待つ二人に向かい合い、問う。
今度はキレヲに手を引かれなくても同じ空の下で、もう一度踏み出せるように。だから私は、雲みたいな綿レースの、明るい灰みの青ワンピースを選んだ。ペチコートを仕込んだロング丈は、ちょっぴり大人に背伸びした証なの。
「手掛かりは、為政者『クヤカラ』にあるはず。俺達は反乱の為に、彼女の居場所を探さなくてはならない」
紫黄水晶の瞳は、冷たく輝く。
大海原と同じ『未知の恐怖』を体現したようなネリアルに、後ろに下がってしまいそうになる自分の脚をこっそり抓る。
「なら、目的は同じだよね。私を『仲間』にしてくれない? 弱くても、足手纏いにならないように頑張るから」
「いいの、リィナ? また【混沌の筆】が襲ってくるかもしれない。危険な目に合うんだよ」
アイは心配そうに眉を寄せて、小首を傾げる。優しい欖石の瞳の色に、私は緊張が解ける。息を深く吐くことができた。
「怖いけど、パパとママがこのまま私の事を忘れたままなんて嫌だから。『忘れられる』のは、私が消えてしまいそうなの。なんだかそれって、無機質で生きている気がしない」
私に『思い出』を与えてくれたキレヲも……私の事を忘れているのだろうか。そう考えると、疎遠の幼なじみのくせに悲哀に胸が締め付けられた。
「そっか。なら反乱を起こす時……証として外の世界でも、私と一緒にカラフルな色を纏ってくれる? 色彩の圧政への反乱は、戦う方法ばかりじゃない」
私は自然に笑っていた。弱い私でも、為政者に反乱できるなんて! 私は、纏う明るい灰みの青に愛しさが生まれた。
「もちろん! 私、反乱の時だけじゃなくて……ずっと明るい灰みの青が着たいな。私を変えてくれた証だから」
「リィナが望んでくれるなら、嬉しい! 可憐な人形みたいで凄く可愛いよ、リィナ! でしょ、お兄ちゃん」
「俺が頷いたら犯罪じゃないのか」
「犯罪に染めさせても、絶対に頷かせる! 可憐に大変身したリィナを褒めなさいっ!!! 」
「……『カワイイ』です」
ネリアルはアイの妙な迫力に、気圧されるかのように紫黄水晶の瞳が揺らいでいた。
「足りない、たりないよっ! もっと具体的かつ感情的に褒めて! 」
「これ以上は無理だ! アイが代わりに褒めればいいだろ」
「駄目、女の子は色んな人に褒められて伸びるんだからっ! 」
カタコトで答えたネリアルに満足が行かなかったアイは欖石の瞳をギラリと細め、気配を察し逃走するネリアルを追いかけ始めた!
「私よりも年上なのに無邪気だね、二人とも」
鏡面の床に反射する『仲間』の姿がなんだかおかしくて、私は小さく微笑してしまった。