◇12◆ 禁書庫へ、ようこそ。
私達は手を繋いだまま、静かな夜を駆ける。今夜はもう脅威は去ったから、私達を追いかける恐怖は無いはずなのに……跳ねる心臓は、リズミカルに踊り狂う。
――これは、『未知』を追う恐怖だ。
追う側が恐怖を感じるなんて、中々に怪奇じゃないだろうか。だが、それもそのはず。私達が追うのは……捕食者なのだから。
「リィナ。ネリアルを最後に見掛けたのは〖Boutique Sun〗の前なんだよね? 」
「そうだよ。私がアイを追いかける前に、向こう側の路地裏へと居なくなってしまった! 」
夜を駆け抜けて呼吸乱れたリィナが指し示したのは、〖Boutique Sun〗から真っ直ぐに進んだ向こう側。ガス灯照らす、レンガ造りのアパートメントが立ち並ぶ大通りを抜けた……影が深い路地裏だ。
深い影はまるで【漆黒】で塗り潰したようで、本能的に身構えてしまう。【漆黒】は色を支配する為政者達を思わせるだけじゃない。
轢断される最期に私の魂へと焼き付けられた、正の双眸を思い出させるから。私を殺す程の暗い感情の正体を、知らないからこそ恐れてる。
――その時。私の恐れを撫でるように、褐色の燕尾は視界を過ぎった!
「待って!! お兄ちゃん!! 」
思わずリィナから手を離し、曲がり角の向こうへ去ったネリアルを追いかける! 宵闇の睫毛に瞬く紫黄水晶の双眸は、私を認識し細まったのに……ネリアルは歩みを止めない。まるで私達が追いかけてくる事すら分かっていたようで、私は苦い期待に裏切られる。
ネリアルが向かい合うのは追いついた私達ではなく……闇夜に浮かぶ、不自然な扉。
【観音開きの紺滅の扉は待つ。鱗に黄の流星を走らせた彫刻の石竜は、菫青石の尾で生々しい装飾として這う。アンバランスに刻まれた、五つの爪痕のステンドグラスは天色。獅子のノッカーは黄金だ】
私はくしゃりと皮肉に笑う。異世界から、新たな異世界への扉? そんなんありなの?
ネリアルが紺滅の扉に手を触れると、見知らぬ景色が垣間見えた気がした。……あれは、何?
認識する前に、滑るようにネリアルは去ってしまう。紺滅から白菫色へ化す髪筋と燕尾は、誘うように扉の向こうへと消えた。
「行こう、アイ! 」
瑠璃唐草の瞳に天色の光を強く輝かせたリィナに頷き、共に『未知』へと飛び込んだ!
――闇から切り替わった、ひんやりとした空気感。それに芳しく古い香り。静かに私を包み込むようで、嫌じゃない。美術館や古本屋はこんな香りがする。
憲法黒茶の梁が導く壁面本棚には、艷めく革表紙の怪物達が息衝いていた。階を分ける蔦の手摺りは、怪物達の檻。
沈黙の命令を足元から伝えるのは、瑠璃色と白練からなる額縁文様の絨毯だ。真っ直ぐに敷かれた道を知るために顔を上げた私は……最奥から見下ろす巨大な支配者に息を呑む。
天色の月明を降ろすステンドグラスを冠するのは、神獣の大風琴。荘厳な神の音色を、数を揃える牙のパイプから響かせるのだと思うと身体が硬直する。演奏台は、隠蔽されているように見えない。
「アイ! 何処にいるの?」
木霊するリィナの声に、私は我に返る。追いかけたネリアルどころか、一緒にいたはずのリィナも隣に居ない。……まさか、私が手を離してしまったから?
「私はここだよ、リィナ! 」
同じ扉から入ったはずなのに、出る場所が異なるなんて! やはりここも異世界なのだ。リィナの声が聞こえた気がする上階へと、私は螺旋階段を駆け登る!
「下にいるの!? アイ」
「リィナは待ってて、今行くから! 」
突き出た二階の回廊は遮蔽物など手摺り以外無く、壁面の本棚に古書が並ぶだけの単純構造なはずなのに……どうして見渡してもリィナが見つけられないのだろうと、嫌な焦りがじわりと滲む。
理由はすぐに分かった。壁面と壁面の間に、新たな廊下があるのだ。本棚はまだ続いているらしい!
私の声を聞いたはずのリィナが、すぐに回廊へ出て来れないという事は、内部は迷路のように入り組んでいる可能性が高い。一瞬、飛び込むのに躊躇を覚えた。
「悩んでる場合じゃない! 今はリィナを見つける事が最優セッッ……!? 」
本棚迷路へ飛び込もうとした私の足は、何かに思いっきり引っかかる!
転ぶ直前。反射的に本棚に掴まるはずが重い古書を引き摺り出してしまう! ヒヤリと身構えて床に叩きつけられる私の眼前に、凶器は落ちてくる!
「……って、あれ? 」
恐る恐る瞼を開いた私の眼前に広がるのは、重たい古書……では無く見覚えのある大好物! 『色彩図鑑』だ。
「天からのご褒美!? ……じゃなくってっ! ナニコレどーゆうこと……? 」
私を転ばした原因を確認すると。そこに積み上がっていたのも『色彩図鑑』。それに『植物図鑑』に、『花言葉図鑑』……?
ネリアルに借りていた“禁書”達だ。私は返却済みだが、どうやら片付けられてない様子。片付けをサボッた兄、という事実が染み込み……地味な苛立ちと同時に私は理解する!
――ここは、【禁書庫】だ!!
弾かれたように立ち上がった私は、試しに一冊。本棚から古書を手に取った。すると魔法のように……艷めく焦茶の革表紙が解け、【漆黒】の禁書に変化した。革表紙は、どうやら題名を隠す為のカモフラージュ。『色彩図鑑』とは異なる禁書が、私の手の中にある……。
「中身は……って、駄目駄目。リィナが待ってるんだからッ!? 」
禁書を抱きしめ。改めて本棚迷路へ駆け出そうとした私を邪魔立てしたのは、今度は禁書の山じゃない!!
―― 腕を引いて、私を背後から抱き締めた何者か。
「無駄に迷う必要は無いよ、アイ」
ピアノみたいに囁く心地良い声も、慣れ親しんだ腕の体温も……振り返らなくたって分かる。
「ネリアル。何で……」
私は顏を悲痛に歪めた。問うべき言葉の奔流に、捨てきれない信頼事ぐちゃぐちゃに掻き乱された。崩壊を始めた親愛に、爪を立てられた心臓は切なくズキズキと痛む。
「アイの好奇心と俺の容認が一致する範囲なら、答えてあげる」
「その前にリィナと会わせて。ここはネリアルの支配する異世界なんでしょ」
私は黒い不安を拭えない。為政者であるネリアルが禁書庫の主なら、私達を故意にはぐれさせたのかもしれない。私達を迷い込ませたように。
私達は今、ネリアルの手の内であり……私はリィナを人質にとられているのかもしれない。ネリアルが、私をリィナと会わせないと答えるならば。
「ああ。ここは俺の空間だ。リィナの事は今は忘れていい。少し迷子にしただけ。……俺は、アイと二人きりで話がしたかったんだ」
黒い不安が当たってしまった私は、どちらにしろネリアルには逆らえない。仲間を作らせて取り上げるだなんて、酷く独裁的だ。
「お兄ちゃんは寂しがり屋だったって訳? 妹に友達が出来たからって、嫉妬は可愛くないんだけど」
「間違ってない。アイが俺の手を振り払ったら、今の俺は何をするか分からないから」
私を抱く腕の力は強まる。今だけはネリアルが真実を告げていると、滲む恐れと共に確信出来た。
「教えてよ。……私の知りたいこと」
「なら、まずはその禁書を開いて。この異世界の秘密を知ればいい」
俯いた私は不安から縋るように抱き締めていた、【漆黒】の禁書を――痺れる指先でめくった。