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始業式の前の晩。
死神が僕の枕もとに現れた。
窓の外は春の嵐。雷光がカーテン越しに部屋を照らし、轟く雷鳴は空気を震わせた。
「おやおや優磨君。信じられませんねぇ。君、私との約束から逃げているでしょう?」
いつもと同じだ。金縛りで動けない僕を、死神は一方的に言葉のナイフで切り刻む。窓と僕の間に入り、嵐を背負って僕に立ちはだかる。
「私、何度も言いましたよねぇ? あなたの命は涼乃さんを守るためだけにあるって。逃げ出すなんて、許されると思っているんですか?」
僕が動かせるのは視線だけ。力の限り死神を睨みつけた。
「なんですか、その反抗的な目は? 私に命を救われたこと、感謝すべきじゃないんですか? まさか忘れたとでも?」
忘れてない。忘れてないさ。でも――。
(なんで……)
喉を精一杯震わせようとした。手足を動かそうとした。
腹の底から込み上げる怒りをぶつけるために。
(なんでいつまでもお前の言いなりにならなきゃいけないんだよ!!)
死神と約束した時、僕はまだ小さな子どもだった。
お母さんに傷つけられてボロボロで、でもお母さんに愛して欲しくてたまらなかった、そんな無力な子どもだった。
でも、今は違う。
僕は自分の足で立ち自分の頭で考えられる一人の人間だ。
僕を大切にしてくれる人もいる。
僕の命は、決して無価値なんかじゃないんだ。
ぴしゃん、と凄まじい雷鳴。それが僕の体を奮い立たせた。
――僕はもう、
「……僕は、もう」
全身全霊で腹に力を込める。
――死神の、
「……死神、の」
卑怯な拘束を引きちぎる。
僕は、自由だーー!
「言いなりになんかならないっ!!!!」
体が動いた。ベッドから跳ね上がって死神と対峙する。荒々しく息を吐き、獣のように奴を睨む。
「感謝しろ感謝しろうるさいんだよ! あんな幼い子どもの頃の約束に、今さら縛られてたまるもんか!!」
雷を逆光にして死神の表情はいまいち分からない。
「僕は生きたい! 僕は生きたい! ……僕は、生きていたいんだっ!!」
僕の内側にいた僕が、全てをぶちまけた。理性を失った獣のように、本能の叫びを放出する。
息が切れた。闇の中に、濃厚な沈黙が充満する。一秒、二秒、三秒――。その重たい空白は、永遠に続くかのように思われた。
「ふふ」
軽やかな笑い声が部屋に落ちた。死神が笑っている。アフロが細かく震えた。
「優磨君……あなた本当に変わりましたねぇ」
その声音には全く色がない。馬鹿にする調子も、言祝ぐ調子もなく、ただただ音だけが奴の口からこぼれていく。
「立派ですよ。こんな風に死神に楯突いてくるなんて――感心しました」
相変わらず死神の表情は見えなかった。
「ふふ、悪くないですね……」
死神の声が掠れていく。
「でもねぇ。ひとつだけ言わせてくださいよ」
その姿も闇の中に溶けていく。
「どんなにあなたがもがいても、私と交わした約束はまだ有効ですからね……」
鳥肌が立った。背すじが凍る。
――涼乃が死ぬか。涼乃を守って僕が死ぬか。
「ふざけんな! 僕は死にたくない! でも――涼乃だって死なせない!」
腹の底から叫んだ。こんな奴に、何一つだって渡してやるもんか!
もはや死神の姿は闇と同化していた。一瞬、あの暗い瞳と視線がぶつかった気がする。
最後に残ったのは、死神の不吉な言葉だった。
「後悔だけはしないようにね。後悔だけは……」
――それが一番、人を苦しめるんですから。




