10
わずか徒歩十分の距離を、僕は車に乗せられて帰宅することになった。
後部座席で中学受験の問題集を解きながら僕を待っていた義妹の杏奈に、口の動きだけで「バーカ」とののしられる。
うん、僕は本当にバカだ。山丘の家の人たちにこんなに迷惑かけちゃうなんて。
帰宅した後、またしょっぱい水を飲んで寝た。
ベッドにのめり込むようにぐっすり寝て、その間なにか夢を見たんだけど、はっきりと思い出せない。
あのアフロの死神が夢の中で何か言ってた気がする。しかもどこか冴えない顔で。大丈夫だよ、約束を果たすまでは死なないから。
そして日付が変わる頃に目が覚めた。
あんなに気持ち悪かったのが嘘みたいだ。頭がすっきりして、お腹が空いていた。ぐうぐう鳴るお腹の音が僕をバカにしてるみたいで、それを黙らせるため、何か食事が残っていないかとキッチンに向かった。
「あれ、もう起きても大丈夫?」
リビングにはおじさんとおばさんがいた。ソファに腰かけた二人の前にコーヒーカップが並んでいる。
「もう大丈夫です。すいませんでした」
頭を下げると同時にぐぅと腹が鳴った。静かなリビングに響く間抜けな音に、二人は笑う。
「もう本当に元気みたいだな。夕飯、残してあるぞ。食べるか?」
おじさんに聞かれ、うなずいてキッチンに向かおうとすると、病人なんだから座っていなさいとソファを示された。もう大丈夫なのに。
レンジでチンしたお皿を持っておじさんが戻ってくると、僕は二人に挟まれるかっこうになった。L字のソファのそれぞれの辺に二人が、角のあたりに僕が。
目の前の生姜焼きは美味しそうだけど、すごく食べづらい。
「さっきまで優磨のこと話してたのよ」
おばさんが話を切り出して、おじさんと目配せした。
「今日の体育祭、最後に倒れちゃって心配したけど、でもすごくよかったね、って」
なにがよかったんだろう。特に活躍なんてしてないし、チームも三位だし。何より「心配をかけるな」って怒ってくれてたのに、また同じことを繰り返して。
「あなたがあんなに生き生きとしてるところ、私たち初めて見たのよ」
「しかも優磨が学級委員長だなんて、びっくりしたよ。すごく誇らしかった」
おじさんが笑う。
「優磨は中学生になって変わったな」
「そうね。すごく楽しそう」
顔に熱が上るのを感じた。
恥ずかしい、でもそれだけじゃない。
どうしよう。またあの時と同じだ。深夜に涼乃のところに駆けつけて怒られたあの日と。
心の深いところから、ぷくりと膨らむ、温かいものがある。いったいこれは、なんなんだろう。
「それでな、優磨」
おじさんが僕の肩に手をおいた。その声音は一段と優しく、でも、きっぱりとしていた。
「先生が言っていたように、お前は高校に行かなきゃダメだよ」
ああ、その話か。
さっき保健室で荒坂先生が勝手におじさんたちに言っちゃったんだ。僕には進学の意志がなさそうだって。
気づくとおばさんも身を乗り出していた。
「そうよ。まさか進学するつもりがないなんて思わなかった……あなたのことだから、高校に行くと私たちに迷惑がかかるだなんて思ってるんでしょう? そんなことないのよ、本当に」
違うんです。僕はすぐ死ぬから、そんな僕の勉強のために余計なお金をかけるなんて無駄だから。おじさんが稼いでくれたお金は、僕のために使うべきじゃないから……。
「お前は賢いし、勉強も嫌いじゃないだろ? 学校も楽しんでる。だからちゃんと大学まで出なさい。頼むよ」
なんでおじさんが僕にお願いしてるんだろう。僕は山丘の本当の子どもじゃないのに。
何も答えられずにいるうちに、おばさんが僕の手をつかんだ。そのぬくもりに驚いて、僕は思わず顔を上げた。二人の視線がじっと僕に注がれていた。
おじさんが絞り出すように言った。
「優磨、もう一度言うよ。お願いだから自分を粗末に扱わないでくれ」
どきりと胸が痛む。おばさんがさらに追い討ちをかけた。
「私たち、優磨のことが大切なのよ」
つんと鼻の奥に込み上げるものがあった。
僕の手を握る力がいっそう強くなって、僕は嫌でもそのぬくもりを感じざるを得なくて――。
迷惑をかけてきたのに。これ以上重荷になりたくないのに。
――でも。
もう目を背けることができなかった。
おじさんとおばさんは、僕のことをわずらわしい荷物だなんてちっとも思ってない。実の子どもじゃなくても心から大切にしてくれてるんだ。
なのに僕は自分の中に閉じこもって――死神に言われるがまま、ずっと二人の厚意を拒絶していた。
こんなに深く愛してくれてるのに――そのことに向き合ってこなかった。
どうしよう。目頭が熱い。歯をくいしばってこらえても、あふれ出しそうなものをこらえられない。
「おじさん、おばさん……」
僕は、おそるおそる二人に聞いてみる。
「もし、嫌じゃなかったら……本当に今さらなんですけど……」
なかなか続かない僕の言葉を、二人は辛抱強く待ってくれた。
「……お父さん、お母さんって……呼んでもいいですか?」
なんの返答にもなってないんだけど。
脈絡がなくて、驚かせてしまうかもしれないけど。
死神には、愚かだと笑われるかもしれないけど。
今僕は、どうしてもそう頼みたくて――。
右隣で鼻をすする音がした。
おそるおそる顔をあげると、丸い目をうるませて笑う人がいる。
「もちろんよ。嬉しい、ずっとあなたのお母さんになりたかったの」
左隣からは、僕の肩を力強く叩く大きな手と、震える声。
「ありがとう、優磨」
僕はもう一度うつむいた。
おかしいよ。ありがとうなんて、それは僕が言うべき言葉なのに。
ぽろぽろとこぼれる涙が、僕の乾いた手のひらと、二人目のお母さんの温かい手を潤していた。