24
「今日、鍵をなくしたのは本当よ。それであそこで待ってたんだけど、すぐに寝ちゃったの。昨日の夜、遅くまで勉強しちゃったから、疲れてて」
しばらくして目が覚めたらあたりはもう真っ暗で、と淡々と夏原さんは続ける。
「寒いし、はやく家に帰りたいなぁと思って、ニ階にある自分の家を見上げたんだ。そしたらね……家の灯りがついてたの」
「え……?」
心臓が冷たい手につかまれた気がした。
「ねぇ山丘くん、こんなことってあるのかなぁ。自分の子どもが冬の晩に玄関の外で寝てて、それを無視して家に帰っちゃうなんて……」
僕には何も言えなかった。
夏原さんはそっと瞼を伏せて、続く言葉を冷えた地面に落としていく。
「なんかもう、どうでもよくなっちゃったんだ。インターホンを押したり、携帯で電話したり、どうにかすれば家に入れたと思うんだけど……もう、どうでもいいや、って」
重たい沈黙が僕たちの夜を支配する。それをぐっと跳ね除けるように、夏原さんが微かに笑った。
「それでまた寝ちゃったんだ……そしたら、山丘君が現れたのよ。びっくりしたなー、君って本当に唐突に現れるから。最初に話した時もそうだったよね」
「うん。あの時も黒猫が君のところに導いてくれたから」
「……あの時はひどいことたくさん言ってごめんね。私、入学してすぐの頃、山丘君の存在が目障りだったから」
「なんで? 僕、君に何かしたのかな?」
さっきから考えてるけど、本当に思い当たるふしがない。
「私、剣道以外は全然ダメなんだよね。人並みに学校になじめなくて、友だちだって作れない」
目に浮かんだのは、頬杖をついた夏原さんの姿だった。
教室の窓際。ひとりぼっち。同級生の姿を視界からしめだして、じっと空を見上げてる。
「あのね、ネグレクトを受けた子どもは、人とのコミュニケーションが下手な子が多いんだって。だから、私が“ぼっち”なのはしようがないんだって自分に言い聞かせてたの」
ああ、そうか。夏原さんの心の声が聞こえてくる気がした――友だちができないのは私のせいじゃない、私自身が欠陥品だからじゃない。大丈夫。だいじょうぶ――。
「そんな中で、君のことを知ったの。“親のいない、かわいそうな男の子”。私ね、その噂を聞いて、きっと自分みたいな男の子なんだって思ったんだ。孤独で、寂しくて、空っぽで冷たい一人ぼっちの男の子。それなのに君は全然違った。ニコニコ笑って、まだ入学して間もないのに友だちもちゃんといて、私みたいにクラスで浮いてなくて」
彼女はまぶたをふせる。薄いまつ毛が繊細に揺れていた。
「私、すごく傷ついたのよ。親がいなくても――私より苦しい身の上でも――ちゃんとしてる人はいる。私が孤独でなじめないのは、親のせいなんかじゃなくて、自分がダメな人間だからだって。君に逃げ道を塞がれた気分だった」
そこで彼女は力を抜いて、困ったように笑う。
「それなのに、君の方から突然話しかけてくるから」
くすくすとささやくような笑い声。
「それで、あの時あんなに怖い顔をしてたんだね」
初めて君と話した、晩春のあの日を思い出す。勇気をふりしぼって一歩を踏み出した、木漏れ日の朝。
「まさか“運命”なんて中二病みたいなこと言い出すと思わなかったけど」
「だって、僕にとってはそれが真実だから」
変な人、と彼女はまた笑った。僕の運命なんて信じてないのかもしれないけど、大事なものをそっと包みこむような優しい声音で。
「正直に言うと、バカみたいだって無視したい気持ちよりも、嬉しさの方がまさったんだよね。運命なんて笑っちゃうけど……誰かに無条件で好意をもってもらえるなんて、初めてだったから」
ねぇ、山丘くん、と彼女は僕をよぶ。淡々と前を見て歩きながら、目を合わせずに。
「今日は本当にありがとう……私のこと叱って、立ち上がらせてくれてありがとう。君がくれた紅茶、本当にあったかかった……」
「夏原さん……」
僕は泣きたくなった。
自分の母親の影が脳裏に浮かぶ。顔、腹、足、腕――僕はあらゆるところを殴られ、蹴られた。
でも、それはもう過ぎ去ったことだ。
夏原さんは、今も親に殴られ続けている――心を、やわらかくて傷つきやすいところを。
体中に熱いものがみなぎるのを感じた。
死神の予言なんて関係ない。僕はこの女の子を守らなきゃいけない。
夏原さんのマンションの前にたどりついて、エントランスでインターホンを押すと、返答がないまま扉だけが開いた。
苦笑して、彼女は扉の中に入る。
そして振り返った。
「山丘君、今日は本当にありがとう。気をつけて帰ってね」
「うん、僕は大丈夫だよ。ありがとう」
あとさ、と彼女は少し言いにくそうに口籠もった後、最後にこう言った。
「ねぇお願い、山丘くん。私のこと、涼乃ってよんでくれない? あなたが私の名前をよんでくれたら、私、自分がちゃんとここにいるんだって、安心できる気がするの」