序 2
奇妙な電車だった。
広告なんて一切なくて、壁も座席もすべて空色。それに乗客は幼い僕一人。かたんかたんと揺れる音だけが車両に響いて、静かで居心地がよかった。
一人でいる不安よりも、揺られている心地よさがまさるくらいに、優しい揺りかごみたいなところだったんだ。
このまま眠ってしまいたいな、そう思った時。
「おや、これはずいぶんかわいいお客様だ」
明るい声に呼びかけられた。
顔を上げて目に入った声の主は、奇妙な男だった。
身なりは普通の“サラリーマンのおじさん”って感じ。ネクタイはしてなくて、ヨレヨレのシャツにカッコ悪いショルダーバック。どこにでもいそうな、さえないおじさん。
なのに、頭はアフロだった。頭だけがぽっかり浮かび上がってるみたい。
そのもじゃもじゃの中でふわんふわんと何かがゆっくり白く点滅していて、幼い僕の目はそこに釘づけになってしまった。
「大端優磨くん、ですね?」
名前をよばれて、驚きながらもうなずいた。
なんでこんな奇妙なおじさんが僕のこと知ってるんだろうって、子どもながらに警戒した。知らない人について行っちゃダメって、母にしつこく言われてたから。
「ここがどこだかお分かりですか?」
男の声はやわらかかった。その声音に少しだけホッとしてふるふると首を横に振ると、車窓の外を示される。
「ほら、あそこに川が流れていますでしょ? あれがいわゆる“三途の川”です。この川のことはご存知ですか?」
「……知らない」
「そうですか。まだこんなにお若いですもんね」
アフロの男は僕の隣に座った。背を丸めて話す。
「要するに、あなた、死にかけているんです。ほら、私の頭の中の光をご覧なさい。これがあなたの魂ってやつです。命、と言い換えてもいい。まるで巣の中のひな鳥のように、今はこの頭におさまっていますがね」
確かに、この男のもじゃもじゃは鳥の巣のように見えなくもなかった。
「僕、死んじゃったんですか?」
「ストレートに訊きますね。さっきも言いましたけど“死にかけ”です。まだ死んでない」
「でも死ぬんでしょう?」
しっかり目を見てたずねると、彼も真っ直ぐ見返してきた。
「いいえ、あなたはまだ戻ることができる――そんな若さで死にたくないでしょう?」
「ううん。死んだっていいよ」
首を振る僕に、男は目を丸くした。
「どうして?」
「だって、いいことないもん」
母のことは大好きだったけど、ぶたれるのは嫌だった。痛い思いをしなくてすむなら、このままここで電車に揺られていたい。
「……七歳の男の子にそんなことを言われるなんて。いささかショックですね」
アフロの男はしばらくうつむいて、やけに明るい声とともに顔を上げた。
「じゃあこうしましょう。私はあなたにとっておきの呪いをかけます」
「のろい?」
「悪い呪文ですよ」
アフロの下で細い目が笑っていた。
「ちゃんとあなたの生に“いいこと”があるように。幼くして生きることに絶望したあなたに、“運命”をプレゼントしましょう」
「うんめい?」
「ちょっと重たいかもしれませんが――まぁ、幸せになるための道標だと思ってください」
難しい言葉が続いて首をかしげる僕の頭に、男はぽんと手を置いた。
「あなたは、“運命の女の子”に出会います。あなたの特別で、大好きになって、好きでいることで幸せになれるような、素敵な女の子に」
“好きでいることが幸せ”。
それってなんだかすごい。
僕は母のことが大好きだったけど、それは幸せとは遠い感情だって分かっていたから。
「ただね、その幸せはそんなに長く続きませんから、一緒にいられる時間を大切にしてくださいよ」
「……どうして長く続かないの?」
「その女の子が短命だからです。残念ながら、すぐに死んでしまう」
大好きな女の子は、すぐに死んでしまう――。
「かわいそう」
僕はつぶやいた。
「そんなのかわいそうだよ。ねぇ、その子のこと助けてあげられないの?」
男は目を見開いた。
「あなた、自分の命は簡単に捨てるのに、見も知らぬ女の子に同情するんですね」
「だって、僕はいいんだ。つらいことばっかりだったから。でも、他の子は違うでしょ?」
「……いいでしょう、あなたみたいな男の子なら、もう少し助けてあげてもいい」
男は立ち上がるとアフロの中に手をつっこんだ。
「あなたは“運命の女の子”を助けてほしいと言った。ならばこの命、その子のために使いなさい。あなたの命で、その子の生をあがないなさい」
「……僕が頑張れば、その子は死なないってこと?」
そうです、と男はうなずいて、頭の中から光の珠をとりだした。
「さぁ、あなたに命を返しましょう」
胸に光を押しつけられて、体がどんどん熱くなる。
「いいですね、その命、“運命の女の子”のために使うんですよ」
すぐそばのドアが開いた。アフロにうながされるまま、僕はその前に立つ。
電車はいつのまにか小さな駅に停車していた。ホームをはさんですぐ向こうに改札がある。
僕はふりかえった。
「ねぇ、あなたは何者なの? なんで僕の未来を知ってるの? もしかして死神?」
アニメで覚えた言葉でたずねると、男はアフロを揺らして笑った。
「まぁ、そうですね。ふふ、そうそう。死神、みたいなものでしょう」
やっぱりそうなんだ、と思ううちに、ぽんと背中を押された。その勢いで駅のホームに降り立つ。
「では、頑張ってくださいね。ちゃんと使命を果たすんですよ」
息を吐き出すようにドアが閉まって電車が出発した。男の姿が遠ざかる。
「うん、分かった。僕、絶対にその女の子を助けるよ」
改札の向こうからにぎやかな声が聞こえてきて、僕はそちらに歩み出した。
背中に重たいものを感じて、それでも歩みは軽かった。
――母に殺されかけた夜。
僕は、死神に自分の“運命”を与えられた。




