10
彼女座るベンチは、木製の粗末な作りだ。けれど、蔦がはい苔が蒸す|柱に守られて、彼女は神話の女神のように見えた。
「クロちゃん久しぶりだね。ミルク用意してあるよ」
スクールバッグから浅いお皿を取り出す彼女の声はやわらかい。そこにパックの牛乳をなみなみ注ぐと、黒猫の前においてやる。猫は素直に舌を伸ばした。
「たくさん飲んで」
彼女はそう微笑む。
あぁ、夏原さんは、こんな風に笑うんだ。
僕はその表情に見惚れてしまった。入学式で人を叩いて憮然としていた彼女とはまるで別人だ。竹刀を振り下ろす、決然とした美しさとも。
――まずは彼女とお友だちになりなさい。
死神の命令が聞こえる。
そうだ、まずは話しかけるんだ。じゃなきゃ何も始まらない。彼女は僕の運命だ、守るためには近くにいないと。
「あの……」
勇気を出して一歩を踏み出した。
黒猫を見つめていた夏原さんが、ハッと顔を上げる。
初めて彼女と目が合った。びりりと全身に電気がはしる。
「お、おはよう!」
呼びかけると、みるみるうちに彼女の視線が鋭くなって、返ってきたのは凍てつく一文字だった。
「は?」
あれ、黒猫にはあんなに優しかったのに。
僕は一瞬怯んで、いや、ここで引くわけにはいかないと持ち直した。
「おはよう。ええと、あの」
まずい、勢いだけで声をかけちゃって、何も言葉が続かない。
彼女は憎むみたいな目で僕を見ている。
どうしよう、何か言わなきゃ。
まずは友だちになるために。
だって君は僕の運命なんだから。
「あのさ、えっと……夏原さんは猫好きなの?」
僕の焦りなんて知らないでぴちゃぴちゃミルクを舐め続ける黒猫を示す。
けれど彼女は視線を尖らせて僕をにらみつけたまま、挑みかかるようにこう言った。
「あんた、なんで私の名前知ってるのよ?」
僕はどっと冷汗をかいた。
た、たしかに。いきなり名前を呼ばれたら警戒するに決まってる!
「いや、ごめん。僕、君を入学式の時に見かけて……!」
ああ、と彼女は薄く笑った。
「“ヒトメボレ”とか、そういうやつ? よくいるのよ、私の顔面しか見てない男。それであんたは私の名前を調べて、この公園まで追いかけてきたってわけ?」
「ええと」
どうしよう、半分くらいは間違ってない。
「要するに、あんた私のストーカー?」
言われちゃった。うん、そうだよな、そう思われても仕方ないよ。
僕の名誉を回復する言葉を探しても、思考はくるくると空回りするだけ。
どうしよう、友だちになるために話しかけたはずだったのに。
立ち尽くす僕の前で、彼女はくすりと小さく笑う。
「一人でいるとね、よく男に話しかけられるの。“きれいだね”、“俺と遊ぼう”って」
バカみたい、と彼女は吐き捨てた。
「そういうヤツらはね、私の外側だけ見て近づいて、追い返されると悪い噂を流すんだ。“生意気”とか“調子にのってる”とか。“ケツが軽い”なんてのもあったわよ。まだ入学して一月なのにね、信じられない」
過激な言葉の連続に驚いて何も言えない僕に追撃の一打。
「あんたは、そういうつまんない男の同類? それとも、“ケツが軽い”なんて噂を聞いてのこのこ飛んできたコバエ?」
立ち上がった彼女は、あごをあげて僕を見下すと、マウンテンバイクにまたがった。
そしてそのまま去っていく。
ミルクを飲んでいたはずの黒猫も気づいたらどこかへ消えていて、僕は何も言えないまま一人、彼女の背中を見送った。




