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小さな菫の花が私の足をくすぐった。
物思いから返ると、私の足は歩みを止めていた。菫、蒲公英、山百合、芝桜、秋桜、シロツメクサ。
季節を問わず咲く花々が、私を見上げるように花弁をひろげている。
その色彩の穏やかさに、心がすとんと落ち着いた。
――そうだ、彼はきっと大丈夫だ。
あんなに傷ついていたのに、自分で立ち上がった。周囲の人に愛され、認められた。
何より、“運命の女の子”の塞ぎきった心を明るいところに連れ出すことができるほど、彼は強く優しい子なのだから。
――あぁ、彼のそばにいたかった。
彼を育ててくれた彼女の兄夫婦が羨ましい。
――彼のように戦えばよかった。
自分の死に抗って、最期の最期まで、愛する女のそばに居続けるべきだった。
そうだ、彼は大丈夫だ。私とは違うのだから――二度も愛する女性を見捨てて暗闇に突き落とした私とは――。
にゃあ。
はっと顔を上げた。花咲く野を見渡す。今、どこかで猫の鳴き声が……。
にゃあ。
もうひと鳴き、今度は先ほどよりはっきりと聴こえた。
川の向こうに猫の尾が見えた。茂る草花と並んで揺らぐその尻尾は黒く、そしてひょろりと長い。
「にゃーあ」
緑をかきわけて黒猫が姿を見せた。対岸からこちらをじっと見上げている。
瞳の闇色が、やけに心に迫った。
既視感があった。
凝った闇の色。絶望が押し固められてできた重石の色。
「あぁ……迎えに来てくれたのか……」
再び足が動き出す。迷うことなく川面に足を伸ばした。私の魂は軽ろやかに水上をすべる。
ぽたぽたとこぼれるものが水面に美しい波紋を作り上げていった。
向こう岸にたどり着いて私は、じっと待っていてくれた黒猫を抱き上げた。
なんて温かいんだろう。
なんてやわらかいんだろう。
猫の鼻先が、私の頬に押しつけられる。その時、風音に混じってかすかに聞こえたのは、気のせいだったか。
――ずっと会いたかったわ。
そうだ、私も会いたかった――何よりあなたに会いたかったんだ――。
✳︎
そして私は黒猫のぬくもりを胸に感じたまま、また歩き出す。蛇行して流れる川を離れて、遠い光の方へ――。
了




