死神さんはやって来ない
全身に激痛が走る。思わず痛みを庇おうとするが、体はまるで石のように動かない。
「あ・・うん」
喉がヒリヒリする。包帯か何かしらが巻かれている感覚がある。圧迫されている。あれ、生きている。上半身がある。
ここはどこだ。暗くて周りが確認できない。しかし、ここが建物の中であることは分かる。あと枕の上だ。どこか懐かしい。もしかすると、いよいよ夢から覚めたのかもしれない。俺が二十年もの人生で身につけたテクニックのひとつに”夢から覚めたいときは死んでみる”というのがある。例えば、崖から飛び降りてみたり、水の中で口を開けてみたりするということだ。そうすると体が驚いて決まって目が覚める。まあ、心臓に悪いという欠点があるのだが。
だんだん目がなれてきた。ここは・・・違う。ここは見慣れた俺の部屋じゃない。この部屋は俺がお世話になっているストックウェル家の客間だ。つまり、まだ夢の中ということだ。どうやらあれだけの怪我を負って死んでいないらしい。
間違いない。だって、目の前に椅子に腰掛けたまま寝ているアンソニーがいる。起こしたいわけではないが、アーロンのことなど聞いておかなかければいけないことがある。
「──アン・・ソニー・・・」
声が掠れる。おまけに喋れば喋るほど痛くなる。体が動かない以上、声で起こすしかないが、大声は出せない。正直言って、首を動かすだけでも大変なんだ。これは起こせそうにない。再び天井に目をやる。
ふと、今までの経緯を思い返す。あれだけの経験をして死んでいない。これは奇跡なのだろうか。これまで俺が見てきた夢とは性質が異なっている。だって、俺の夢というのは間抜けなもので、進行不能になった途端、即座に終了する。知らない家の扉をくぐっただけで終わることもある。
だが、それに関しては答えは出ないだろう。なぜなら、これは夢に過ぎないのだから。夢の中で寝るというのもおかしなものだが、他にやることもないしもう一度眠ることにしよう。そういえば本当に死ぬと死神がお迎えに来るのだろうか。
「先生、オトの体は本当に大丈夫なんですか」
「ええ、致命傷になるような傷もなさそうでした。安静にしておけば直に良くなります」
「でもうなされていてすごい苦しそうでした」
「そうかもしれません。それが心配だからこそアンソニーは同じ部屋で寝ています。でもね、オトは、あの子は普通の子どもとは違う。それを分かっているからこそあなたのパパもママも安心して他の事に取り組めているのです」
「私が・・・」
クララはまだなにか言いたげである。守ろうとした人を傷つけてしまった。その気持ちは分かる。だが、それでは何も解決しない。そのことを私はよく知っている。物憂げな瞳には確かな意志が宿っている。
「あなたも疲れているはずです。今日は早く寝て、明日からオトの看病をするのよ」
「・・・分かりました。お休みなさい」
「はい。お休みなさい」
少女は妹が眠る自室へと向かっていった。その後ろ姿にかつての私の姿と重なっていく、そんな気がした。
やっと。朝だ。すごい見事に一睡もできなかった。いや、体が眠らせてくれなかったという方が正しい。未だに全身の節という節が傷んでいる。半日くらい電気風呂に入り続けたらこんな感じになるかもしれない。まだ起き上がれそうにはない。
トントントン、ドアからノックの音がした。するとアンソニーが起きたようで「どうぞ」と、返事をする。
扉を開けて入ってきたのはこの家でメイドをしているマイアだ。ひそひそ声で、アンソニーに語りかける。
「失礼します。アンソニー様、食事はいかがされますか」
「ありがとう。ここでいただこうかと思います」
「かしこまりました。それではお持ちいたしますね」
「いえ、自分で取りに行きますよ」
そう言うなり、アンソニーは部屋から出ていった。あの様子なら、アーロンは無事だったのだろう。二人とも俺が起きていることには気がついていないようであった。部屋は再び静寂に包まれた。家の外からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。
一晩中考えていたことがあった。それは、この家から出て行くということである。みんなにはみんなの生活がある。そこに俺という異分子が入り込んで、その生活をぶち壊すだなんてことは許されていい話ではない。実行はできる限り早いほうがいいだろう。だが、今すぐ部屋から飛び出すだなんてことはしない。そんなことすればすぐに捕まって連れ戻されるのがオチだ。まずは療養をして体を回復する。
「だめです。私が運びますって」
「またそんなこと言って、うちの人は自分のことは自分でやっているんだから僕だけ特別扱いだなんてできない。それに、もうすぐ部屋につくから静かにね」
「・・・はい」
足音が一つになった。恐らく、マイアが止まったのだろう。どうしようかな。アンソニーになんて声かけよう。さっきはそれが分からなくて声をかけそびれた。挨拶? 自己紹介? 昨夜のお礼? どうしよう。アンソニーは部屋に入ってきた。
「お、おう」
「起きたのかい、オト」
ずいぶんおっさん臭くなってしまった。だが、アンソニーは気にかけずに、手に持っていた朝食を近くのテーブルに置き、こちらに小走りで駆け寄ってきて、俺の手を握った。
「大丈夫かい? 痛むところとかない? そういえばお腹空いたよね、朝食があるんだ食べる? ・・・」
おおっと。多い、多いよ。こちらは病み上がっていないんだから、そんな畳みかけないで。しかし、その様子には悪意はない。本気で心配していることが伝わってくる。無下にはできない。これが本物のイケメンだ。重たすぎて胃もたれしそう。
「ええと」
その時だ。もう一つ軽やかなトトトという足音が接近してきた。マイアだ。こちらも部屋に飛び込んで、手を握ってきた。
「オトさん。大丈夫ですか? どこか痛みませんか? お腹空いてますよね、何か持ってきますか? ・・・」
デジャブ。夫婦かな。ほとんど同じこと聞かれたよ今。おまけに二人に手を握られるために左に寝返りを売ったせいで下にある左半身が痛い。こちらから言いたいことがあるとしたら手を話してほしいということだ。
「マイア、そんなに手を振らないで」
「ごめんなさい。もしかしたら目、覚めないかもと思って嬉しくなっちゃって」
マイア落ち着いて、そんな泣かないでよ。アンソニーも少し惜しいんだ。手を離してもらいたいんだ。
「実は僕も何だ。みんなと一緒にいくら回復の魔術をかけてもその傷が塞がらなくて、先生がいなかったら大変なことになっていたんだ」
その傷。ああ、首の切り傷かな。
「僕も良かったです。これでみんなとお話できますから」
どうやら俺が目を覚ますということは大事なことだったらしい。このことは、マイアから家族全員に伝わり、アーロンも含めた全員が挨拶にやってきた。おまけに俺がベットの上で体が起こせないもんだから。余命幾ばくもない年寄りに挨拶しに来る家族の図みたいになった。この後、遺産分割協議でも始まるのかもしれない。好意を無下にはできず、左半身が痛い。
嵐のように訪れた人々は俺の無事が分かると嬉しそうに帰っていた。いや、厳密に言えばお帰りいただいた。流石にこの部屋に全員が集まると狭い。それに、みんなにもそれぞれやるべきことがあるはずだ。
これで良かった。と言えないが今の俺。なんと、予想外の人物とにらめっこをする羽目になったのた。何も言わない。機を見て体は仰向けに戻した。興味ないよってアピールしている。だが、帰らないのだ。当然のように居座る。仕方がない俺から話しかけよう。
「アメリさんはどうしてここにいらっしゃるのですか」
「それが仕事だからです」
そう。何を考えているかよく分からないこの家のハウスキーパーだ。ゴミでもついているのだろうか。俺の顔をじーと覗き込む。考えてみれば昨晩は身を清めていない。あまり見ないで。
「お腹空きませんか」
また、唐突な。お腹自体は空いているわけではないが、体を動かすためのエネルギーが足りていないのは本当だ。
「そうですね。何かいただきたいです」
「承知いたしました」
すると、俺の上半身を起こし、食事が載せられたお盆をテーブルの上から持ってきた。さらに、もともとアンソニーが座っていた椅子に「失礼します」と言ってから座り、盆を膝の上においた。なんの真似だろうか。流石に、食事をするのにベットの上でというのはマナー的にいただけない。移動させて欲しいのにそのまま座ったらだめですよ。
「お口を開けてくだいませ」
「えーと。どうしてですか」
理解が追いつかない。ただ、ここは指示に従わないと後々怖そうだから指示に従い口を開ける。
「はい。あーん」
あーん。・・・っえ。何今の。反射的に体が動いたが、間違いなくマイアが俺に食べさせた。おいおい。”あーん”って声高くなってたよ。プロ意識が高い。
「上手ですよ。もう一口。あーん」
「あーん」
泣けてくる。この年にして介護されるとか、おじいちゃんじゃあるまいし。マイアの介抱はこの調子のまま一日中続いた。俺はこの屈辱的な日のことを日記に書いて、一生忘れないと誓った。