こちらこそ問題
「私は九段下小町、この度学級委員に立候補させていただきました。引っ込み思案な性格ですが、なるべくやるべきことはしっかり果たしたいと思いますのでよろしくお願いします」
無難……だった。
当夜に唯一引っかかった言葉は「引っ込み思案」の部分。あれだけ男をこっぴどく振っておいて、それはないだろう……とも思うが、もしかすると案外本気で言っているのかもしれない。
当夜には、小町についてまだ知らないことが多すぎるのだから――
小町の言葉を聞いている間、当夜は自分の黒板にチョークを滑らせる手付きが鈍っていたことに気が付いた。その自己紹介が終わった後で、慌てて急ぎ始める。
まだ全ての役職を書き上げたわけではなかったが、小町は「それじゃあ始めます」と言って係決めを始めた。
係決めは平穏裡に進む。小町が学級委員、と聞くとインパクトは強いが、実際には何の変哲もない係決めの一幕がここで展開されているに過ぎない。
そう、何の変哲もない――
係は別に全員が属す必要があるものではない。けれども、この先文化祭だの体育祭だのの実行委員のポストが出来る上に、そういう類のものは志願者がいなければ係に入っていない人から慣行的に選ばれるため、多くの人は無難な係に入る。係はクラス内での活動と学校全体での活動に分かれるが、どちらにせよ大したことはしない。
クラスメイトの名前を役職の横に記していきながら、当夜は無難にこの時間を過ごす。案外違和感も無くなってしまうものだ。小町が学級委員というのも、意外と様になっているような気がした。
そうして当夜は無批判にこの時間を過ごしていく。
そして気が付いた。
あれ、そういえば僕の役職がないな……
小町と当夜は手際良く係のポストを全て埋めてしまったため、気がつけば当夜の就ける係は無くなっていた。
当夜も、なるべく実行委員とかその類は回避したい、という魂胆の人間だから、当然この黒板の前に呼び出される前には適当な係に立候補する気でいたわけだが……
そして、もう学級委員の確定した小町はともかく、当夜は今臨時で書記みたいなことをやっているだけであり、依然当夜に役職はない。
当夜は、自分がとてつもなく不都合に飛び込んでいる気がした。
「はい、二人ともありがとうございました、それでは時間が余ったので、簡単にクラス全員で自己紹介をしたいと思います、えっと、誰からにしようかな?」
そう押上先生が口にしている間に当夜と小町は席に戻る。
「お疲れ様、当夜くん」
「まち」は、自分の席に座りかけた当夜にそう声がけした。
「ありがとう」
「そう言えば、何も係入らないんだね?」
当夜は純粋な疑問を「まち」に投げかけた。
別に係に入らなかったからといって必ず実行委員とかにされるわけではないし、クラスの三分の一くらいは係の定員の関係上そうなってしまうわけだが、やはり少数派には間違いなかった。
「うん、もちろん係の他にも役職があるってことは分かっているけど、なんとなく……」
「そっか……」
引っかかりはしたが、当夜がこれ以上追及することは不自然だ。
些細なことは気にしないようにしよう、と当夜が前の方を向いた辺りで、一番目の生徒の自己紹介が始まった。
自己紹介は無難に展開していく。今まで名前も知らなかった生徒の何の変哲もない自己紹介もあれば、思わず印象に残ってしまうような個性的な自己紹介、月見野や和光の見慣れた自己紹介まで様々だった。
席順で自己紹介は行われている。前の人が拍手を受けている間に、恐る恐る周りの様子を窺いながら喋り始めるタイミングを見計らっている生徒達の姿に、なんだか当夜も同情してしまった。
堂々とした態度で多くの人の前に立つことなんて、自分にはできない。――まるで小町のように。
小町の番が回る。
「九段下小町です。先ほども自己紹介をしたので、それで代えさせていただきます」
噂に聞くような、そして近くにいるといつもなんとなく感じてしまうような、そんな威圧感は感じられない。しかし依然として、自分について多くを語ることもない。
小町が学級委員になった動機だって、まだはっきりとはしていない。
少し進んで当夜の番になる。特に当たり障りのない話をして、当夜は場を和らげた。
儀礼的に続いている拍手の音を聞いて、当夜も一応は安心して席につく。結局の所当夜のような無難な人間には目立たず、しかし無視もされないという状態が一番重要なのだ。
次は当然後ろの席の「まち」の番である。転校直後に挨拶をしたこともあったし、簡単に済ませるのだろう、と当夜は思った。だから、何も注目すべき点はない、と思っていた。
「先日転校してきた……」
正真正銘一番後ろの席にいる「まち」は、転校初日の時よりも随分と堂々とした態度で立っている。あの日は喋っている内容もほとんど聞き取れないくらいの小声で、当夜にも緊張が容易に伝わってきた。「まち」の掛けているメガネは、今では地味な印象を与えるものではなくなって、真面目な好印象を与えるものに様変わりしている。
――そういえば、まだフルネームすら知らない――そう当夜が思っていた矢先のことだった。
「鷺宮万智です、転校初日の時も挨拶をしましたが、あの時は大分緊張していて……一刻も早く新しい環境に慣れて、皆さんと仲良くしたいと思っているのでどうかよろしくお願いします」
拍手が響く。俗に言う陽キャの女子が、「よろしくね~」なんて声を掛けていたりもする。並の生徒の自己紹介よりも、心なしか教室が賑わっている気がする。
だがそんなことは当夜にはどうでも良かった。
教室の喧騒は、当夜の耳を右から左へ、左から右へと通り抜けていく。当夜が今居る教室も、当夜には最早夢の一ページのような非現実的空間にしか見えなくなっていた。
「さぎの、みや……?」
当夜は思わず呟く。
「どうしたの?」
いつの間にか席についていた万智が当夜に尋ねる。
その瞬間、教室の注目は当夜のもとに集まった。
「さ、鷺宮万智だったのか!?」
その声は廊下にまで大きく響いていた。廊下の窓も空いていたので、ひょっとすれば驚いた鳥が地面に墜落していたりもしたのかもしれない。
動揺に打ちひしがれる当夜に、押上先生は「大丈夫?」と本当に心配しているような声音で声をかける。その見守るような目線を見て、当夜は「す、すみません」と言って顔を伏せた。
「大丈夫かどうかは分かりませんが、続けてください、これは僕と万智の問題なので……」
押上先生は怪訝な表情をしたが、すぐに自己紹介を続けるように指示した。それからの拍手は少し遠慮がちな響きで、皆が当夜の発狂に気を取られているようであった。
自己紹介が執り行われている間、当夜はショックでずっと自分の膝を見つめていた。
帰りのホームルームもその自己紹介に続いて行われた。それが終わって「起立」の号令を小町がかけて初めて、当夜は正気を取り戻して立ち上がった。
顔を上げると窓と蛍光灯の光が思ったよりも明るく、少しだけ当夜は眩しがった。