校舎裏で
その空間には一点を見つめる女と茫漠たる空間に意識を浮かべる男の姿があった。
授業中。これは学生にとっては微妙な時間である。建前上は集中している時間で、この建前は常に偽りだとも言い切れないのだが、でもやはり集中というよりは念仏のようなものを延々聞かされる虚無の時間という側面も否めない。
そして白色のキャンバスがあらゆる色に容易に染められうるように、そんな虚無の時間も強烈な意識の前に塗り替えられてしまう。
(今、相手はどんな気持ちなんだろう……)
(今、当夜は何を考えているんだろう……)
思いはどこか異次元で交差しているのかもしれないけれど、この次元では二人は孤立している。
自分だけがこんなことを気にしているのだろうか……という気恥ずかしさがさらにキャンバスを上塗りした。
(僕、後数時間後には……)
(私、後数時間したら……)
気恥ずかしさが授業の内容を完全に吹き飛ばすほど強力に塗られてなお、彼らの思考は暴走する。決して悪い話じゃない。動揺はあるし、決断もまだ下していない。それでも、いや、だからこそ、近いうちに訪れる近未来を妄想してしまう。
(……いや、これは比較考量のための理性的な想定だから……)
相手が未知の当夜の方はそんなうまい口実を作り上げながら妄想のフェイズに突入する。
……相手がもしものすごく美人だったら――そんな子がもじもじと自分の秘めた思いを伝える。その様子は決して自然な感じではなく、所々言葉に詰まりながら、でもその詰まりはみっともないものなんかではなく、むしろ溢れ出る思いがうまく制御できないことを象徴しているかのようで、聞いている方からすればより一層高揚感を掻き立てるものとなって……優勝。
――いや、美人を浮かべようとするとどうしても小町しか浮かばないな……これはやめておこう……なんか精神衛生上良くない気がする……
――というか、いくら告白するシーンが素晴らしいとしても自分の返事が今決まっているわけでもない。……というか、多分断る。
妄想は当事者に熱いのかもしれないが、ただの観測者のためのものでもある。
……多分今の僕は主人公にはなれない。
そしてもう一方は、相手がはっきり目の前の席にいると分かっている人。
……万智は目の前にある当夜の背中を見つめる。授業というものは、近くにいる人の距離を普段より遠くに見せる気がする。その相手と話をしたりする余地があまりないからだろうか。
そう、目の前にいる。それが分かっていて、昼休みまで何もできないもどかしさを万智は感じた。
――勇気を出せば、この授業が終わった直後にでも話せるのかもしれない。でも相手がわざわざ昼休みに人目を避けたことを考えれば……
ふと、普段の当夜がクラスメイトからからかわれているシーンが目に浮かぶ。そのからかわれ方というのは……小町さんと一緒にいる時のことだ。
そんな風にしている当夜。尤も本人がしたくてやっているというのとは少し気がするけれど。
そんな当夜がわざわざ人目に付かない場所を選んだということ自体が、その本気度を反映しているような気もする。――いや、別に普段の当夜が女たらしだなんて思ってない……はず……
その真剣さゆえ、自分も迂闊なことはできないという気になった。
でも、そんな義務を意識すればするほどごく近い未来に予約された時間は一層遠く見えて、もどかしさは増していった。そして目の前にある当夜の背中は消えることがない。
やっぱり授業には全然集中できなかった。そして、その状態は午前の間ずっと続いた。
昼休みがやってきた。
極力自然に、なんでもない風に……
そう思いながら万智は目的地に向かおうとする。
当夜がすぐ目の前にいる状態に耐えきれなくて、休み時間に入った瞬間に万智は逃げ出すように席を立った。
でもその後で、自然な態度じゃないと格好がつかないという気持ちになって仰々しい態度を改める。しかしそれでもなお随分と早足だった。
一方の当夜は、そうやって早々と席を立ち去る万智の姿など眼中になく。
ただひたすら思いをブラックボックスのイベントに向けていた。
当夜は自分を落ち着けるかのようにゆっくりと歩き出す。
万智は集合場所の校舎裏に辿り着く。一口に校舎裏、とってもその指し示しうる場所は三方向あるだろうが、実際の所生徒が単に「校舎裏」と言った時、その意味する場所は限られている。
なぜなら他の場所は校舎裏と言いながらも開けているからだ。しかし、今万智が立っている場所は校舎の背後は木々があり、少し後ろにはフェンスがあるだけの所だ。正真正銘の「校舎裏」で、人が寄り付く気配もない。
「ふ、ふう……流石にまだ来てないよね……」
「な、なんだか私が焦ってるみたいだなぁ……」
……逆に焦ってないとでも思っているのだろうか、万智はまたも仰々しく自分の顔を手で仰いでみせる。
(というか、ここって意外といい場所ね……別に特段綺麗さはないけれど、人もいないし)
(い、いや人もいないしとか別に変な意味じゃなくて!!)
自分で仕掛けた罠に自分でかかりながら、万智は落ち着かない様子で当夜を待つ。
その時間はやたらと長く感じられた。万智はこう思う。これじゃあまるで―― すんでの所まで思考が迫ってきたが、そこで止めた。
ややあって、足音が聞こえた。
……まさか違う人だったらどうしよう、と半分冷や冷やしながら万智は待つ。 その足音が大きくなるにつれて、意識は「誰か分からない人」にでなく、他ならぬ当夜に向いて、緊張が仕草にも顕わになる。
その人がほんのわずかだけ姿を見せたその瞬間に、万智はその人物が当夜であることを認識した。
素早い認識からやや遅れて、当夜が体の向きを変えて万智の方を見る。
「えっ!?ま、万智……!?」
その姿を見た瞬間に緊張の糸がいきなり弾性力を得たかのごとく、当夜は跳び上がった。
「……来てくれたんだ」
待ち時間をやたらと長く感じてしまった万智からお決まりの台詞が飛び出す。
そして当夜はこの台詞を聞いて、さらに状況への認識を深めた。
(この反応から察するに、ほ、本当に告白の相手って、万智なのか……)
天界みたいな異世界から突然降ってきたような感じの女の子を想像していた当夜が固まる。見慣れた顔であるはずなのに、この空間にそれがあることが何よりも異常事態に思えた。
……それでも――
(万智がそう思ってるのであれば……)
そう。当夜は誓った。万智に向き合うのだと。ならば、突然の告白に向き合うこともその誓約の中に含まれていると考えるのが妥当だろう。
(……でも、昔のことを考えれば……あながちおかしなことでもないのかも……)
現実をおかしなものと捉える思考を当夜は一つ一つ打ち破っていく。いわば理性的に思い込みに突進した。
当夜は万智の目を見た。視線が合う。それは何秒かの間ずっと続いた。ややあって万智はふと気がついたように顔ごと目を逸らす。
でもその動作はなんだかわざとらしく、却って愛らしかった。ただ視線だけが動いていたなら熱い体験の喪失でしかなかったかもしれないが、わざとらしい動きは恥じらいを伝えて、一層当夜の気持ちを熱くした。