匿名ラブレター
万智は目を回しながら……
「えっ、えっと……それは……どういう……?」
――そう。分からない時はちゃんと聞かなくちゃ。そう教わってきたでしょ、私。
「へっ!?えっと……」
当夜はさらにさらに掘り下げられて混乱する。……なんだか自分がある種の辱めを受けている気さえした。
でも別に万智に自分をからかうような色は見えない。――真剣に答えなくちゃ。
「その、性的な満足は人それぞれだから……」
――まあ、これが限界の回答だろう。多分間違ってない。うん。
――万智がそういう会話を求めるのだったら、僕もそれには応じよう。僕だってそういう会話くらいは経験しているし別にそんなに嫌っているわけでもない。
「う、うん……」
「わっ、私もそう思うよ!!」
万智は頭が混乱して目の前のセリフにしか返答できない。――いや、違う、そうじゃない。言った後に気が付く。素直な共感というのがいかに大切なものかはこれまでの人生で学んできた。――いや、それは今発揮すべきではない!!
……困ったな――これは話を進展させるべきなのか?むむ……抽象から具体へ……この王道に従うなら次に僕がすべきことは――性癖の提示……?
「あ、あの……」
当夜が勇気を出して切り出した矢先に万智が比較的大きな声でツッコんだ。……いや、別にいやらしい意味ではなく。
「って、そういう意味じゃねぇ~!!」
普段は中々見せない切れ味するどい感触に当夜は驚いた。
「べ、別に『満足』っていうのはそういう意味合いで言ったわけじゃないから!!」
「あっ、そっ、そうだよな、はははは」
当夜は笑う。でも多分それは愉快さゆえではなく、照れ隠しのようなものだ。
昇降口までたどり着く。話を続ける口実が一時薄れて、その後に残ったのは気まずい沈黙だけ……
「ん?」
下駄箱のロッカーを開けた当夜が何やら異変に気が付く。
上履きの上に置いてあるひらひらとした物体。それを手に取る。
便箋、ハート、ピンク色。
便箋、ハート、ピンク色。
もうお分かりかと思うが、これらは個別の商品ではなく。
当夜は咄嗟にそれを懐にしまった。
誤魔化すかのように万智に努めて話題を振る。
「いやー、今日、天気ーぃ、いいっすねー」
「えっ、あ、うん」
万智は当夜のこの不自然な言動が、気まずい今の空気を緩和するための努力なのだと思い込んだ。
(当夜もなんだかんだ気を遣ってくれてるんだ……)
そう思うと少し胸が熱くなる。今まで、時々自分だけが気にしているのかもしれないと思う度、なんだか報われない気持ちになった。でもそんな心の淀みが大分晴れていく気がした。
「その……ありがとう」
「へっ?」
予定調和に反する言葉が飛んできて当夜はたちまちのけぞる。尤も予定調和ルートの方はすぐに会話が途切れる不毛な道なのだが。
「私さ、なんだか気が晴れた……と思う」
そういえばこの話は「満足」の解釈を巡って争った(?)せいでなんだかはぐらかされた感じだったが、改めて万智は口にしてみる。
「その……なんというか……変に遠ざけられちゃうと、不安になるっていうか……?いや、別に深い意味はないんだけど……とにかく、普通に接してくれて嬉しいなって」
まあ突然天気を聞いてくるのが普通の接し方がどうかは置いておくとして。
「そ、そうか、ありがとう」
「なんで当夜まで感謝してるのよ」
……当夜の方は先程靴箱で見つけた物体に気を取られて深い会話をすることがままならなかった。だってあれは……どう考えてもラブレター、というやつだ。
「……分からないけど、とりあえず」
「ふふっ、なにそれ」
万智は楽しそうに笑っていた。よく分からないことを分からないままに受け入れてくれていた。
……でもそれって綺麗な情緒とかそういう類のものではなく。実際に理解しようとすることさえままならない状況に今当夜が追い込まれていることを暗示する言葉なわけで――なんだか少し万智と心が通じ合ったような気がしたが、肝心な所で向き合いきれていないのが申し訳なかった。
真水に絵の具を零したらその色はたちまち撹拌していくだろう。では、桜色を零した時はどうか?もちろんその時だって例外ではない。
扉を開けた瞬間に世界が変わる――そんな物語の筋書きを今までバカバカしいと思っていたけれど。その考えは数分前に改まった。
朝の教室。万智を後ろに従えて扉を開けた。自分の席に着く。小町はもう既に登校していた。
「あら、おはよう、当夜」
「うん、お、おはよう」
……別に日頃から普通の挨拶もおぼつかない人間であるというわけではない。淡いピンク色の便箋のことが頭がいっぱいなのだ。
机の上にバックを置く。――いや、どうせ横のフックに掛けるのだからわざわざこんなことをするのは位置エネルギーに対する挑戦なのだが。でもなんとなく、開いていないバックを放置する時にはこれが定石な気がするのだ。
なぜ放置するのかというと……それは当然一目のつかない所に今すぐにでも去りたいからということに他ならない。
――隠すことに必死で中身を盗み見る余裕なんてなかった。むしろ隠し通せただけ上出来だろう。
当夜は早々と教室を去る。
その姿を、小町はにやにやとしながら眺めていた。
「あれ、当夜どうしたんだろ?」
「あ、おはよう小町さん」
「うん、おはよう」
……三階の特別教室のある所まで逃げる。ここなら朝の時間帯は人通りが皆無である。
懐に隠した物を手に取る。それが視界に入った瞬間に鼓動が早くなった。
それを開こうと便箋に右手を滑らせた瞬間に、少しだけ頭が冷静になる。
「……いや、落ち着け、当夜、これは罠かもしれない……」
そうそう。ラブレターを下駄箱に投函(正しい用途ではない)して、その反応を楽しむ。そんな悪趣味ないたずらもこの世の中には存在する。
人の純情を弄ぶ卑劣な行為である。――幸いにして当夜はまだそれを経験したことはなかったが、人伝えにそんな行為の存在を知っていた。
そうそう、集合場所に行って、人目に付かない場所で「本当に来るのかなぁ……」とドキドキしながら待っていると、一生そんなドキドキした状態のままでいることができる。大変気の利いた演出である。
「さて、……犯人は誰だ……?」
と考えてみたものの、プロファイルは浮かんでこない。月見野くらいの仲の人間だったらこういうことをやってきてもおかしくないだろうが、当人がこれほど悪趣味ではない。
かといって咲哉も案外こういうノリが好きそうに見えて、恋愛関係で人をからかう真似はあんまりしない。……前に小町関連で少し言われた気もしたが、それは彼の過去を知っていれば一概にただのからかいとも言えないのだろう。
――他の友人を思い浮かべても、こんないたずらをやってくるほど仲の良い人間なんてそうはいないし、それほど親しくない人から嫌がらせとしてこういうことをされるほどには自分はヘイトを集めていないつもりだ。
……いや、これはもしかすると本気なのか?
――そう、向き合わなければならない。
当夜はそんな風に小町から一度受け取ったメッセージを別の所で転嫁した。
……本当に別の所なのかはひとまず置いておくとして。