再対面
知覚されるものを喧騒で満たしてなお空虚だった。当夜は百貨店の中にある大型書店に入ると、その静けさに一層そうした空虚さを感じる。
……こんな風に出かけてみれば、ふと相手に出会うかもしれない……そんな確証のない、脆い期待が自分の心の中にあったのを当夜は感じる。――それはバカバカしい。とほとんど安全地帯のような本棚の狭間に立って当夜はそう思った。
そんなことを思いながらも、時々こんなことが起こった。時折通りががった女性の後ろ姿を見て鼓動が高鳴る。それはごく一瞬の出来事で、そうではないと分かるとすぐにその興奮状態は止んだ。
……そうやって勘違いの仮定をおいた人物の影ははっきりとしない。それは万智なのだろうか、それとも……
人が多めの新刊の棚から去って、もう少しマイナーなジャンルの書棚に足を運ぶ。それが当夜にとっての精神安定剤のようなものだった。
面白そうなタイトルの本を見つけては手にとってみる。けれどもそのときに感じる興味はどこか冷めていて、いざ本を開くとページを動かす指先の感覚と紙の上を上滑りする目線だけが残る。
――結局、自分はただしっくりくる空間を求めているだけなのかもしれない。目の前に面白い本があるかどうかは、些末な問題でしかない気がした。
雑に見繕った本を適当にレジに運んだ。退屈しのぎが家になければどうしようもない。でもそれはやはり心からの興味で手にとったものではなかった。
レジで交わす二言三言の事務が、なんだかやけに仰々しいことのように思える。ここしばらくはそれほど人と会話をしていなかった気もする。
受け取った袋を捧げ持って当夜は長いエスカレータを下った。下っていくにつれ広がる視界の中に、彼女がいたりしないだろうか、そんな期待を心の中でしていた。――いや、それは恐れなのかもしれない。――いつの間に、僕の言葉は期待にすり替わっていたのだろう?
結局外に出てみた所で何も変わらない。当夜は、自分が問題に対処するための手段がどこにもないような気がしていた。
……いや実際は、多分ある。それこそ小町の冗談じみた誘いを受けることは、万智に直接会って話すことに繋がるだろう。……尤も万智の方もそんな誘いを受けるかどうかは疑問な所だが。
でもそれは当夜にとって一種の「極論」だった。確かに理論上可能だけど、現実的ではない、そんな感じの選択肢だと当夜は思った。
遥か高みに浮かぶ雲に自分の心の内を重ねた。川の流れる音はとりとめもなく堤の緑に吸収されていた。
それはまるで着地点を失っているようだ。
一人でいる時間は確かに退屈ではあったが、それは紛れもない幸福の印でもあった。夏休みの宿題も、不思議と完遂は遠く感じられるものの、暇な時間が自然に大部分を処理していた。
平穏が訪れたのだった。いつもあの二人に振り回されている当夜が、自身の言葉の上でいつも望んでいた世界。
――それでも心のどこかが引っかかってしまうのはどうしてだろう。……どうしてだろうという疑問の体裁をとっていながらも、本当は当夜の中にあったのはその答えが自分に強く迫ってくるような焦燥感に他ならなかった。
大したことが起こらない空虚な時間は、過ごしているときには長く感じられるが過ぎてみるとあっという間の出来事であったかのように思えるものだ。
当夜にとって、夏休みの後半はまさにそういう時間だった。
朝、久しぶりに目覚ましで目を覚ます。今日自分が学校に通うということが、少しだけ現実味に欠けているように思えた。
通勤客で混雑する電車に乗って、ようやく現実感が取り戻される気がした。
学校の最寄り駅のホームに降り立つ。改札を出た瞬間に、当夜の胸は高鳴った。
当夜は思い出していた。夏休みの前、しばしばそこには小町や万智の姿があったということを。
しかし当夜は首を振った。「まさか始業日早々、そんなことはないだろう」と当夜は思った。その思考にはもしそんな期待をしておいて誰もいなかったら、自分がその二人のことを意識しているようで恥ずかしい思いをするだろう、という保険の意味合いもあった。
そして、駅のロータリーまで出ると……その姿はあったのだった。
それこそ当夜にとって今日一番の非現実に思えた。
「あっ、当夜、おはよー」
小町がいつも通り元気そうな声で当夜に声を掛ける。今日は一段と、このイベントによる周りの視線の発生が気になった。
改めて自分の置かれている環境の異質さに気付く。普通最寄り駅に行くと結構な頻度で女子二人に迎えられる男子高校生など、そうはいないだろう。それも一人は学年、学校でもトップクラスの……いやナンバーワンの美少女なのだ。
「お、おはよう、小町、……万智」
そんな異質さを意識したせいか、当夜の挨拶はいつもより少し煮え切らないものがあった。
「う、うん、おはよう」
当夜には気まずさがなかったといえば嘘になる。けれどもそれは、自分の夏休み前までの行いが原因というより、単純に久しぶりに顔を合わせたことに対するものである気がした。
……もしかすると、自分の脳が勝手にそう錯覚しているだけなのかもしれない。いや、というかおそらくそうだ。……だとしても、それはありがたいことのような気がした。
それなら、時が経てばこの気まずさは消えて、関係は良くなるはず……でも、良くなるって一体どういうこと……?
万智は自分の思考の深みに嵌る。変えなきゃと思っていても、自分のしたいことが見えてこない。自分のするべきことも見えない。
「な、夏休みはどうだった?小町?」
当夜はなんだか不自然な質問だ、と思いながらもそう口にした。何か喋っていないと落ち着かない気がしていた。しかも聞いた後で、無意識のうちにその対象を小町に絞ったことに色々と思いが生じた。
「うーん、特に面白いことはなかったよ、ゆっくり過ごしてたかな~」
――なんだか小町は自分に目配せをしているようだ。当夜は感じ取る。
どういう意図かは正確には分からなかった。だが、何か促されているような気がした。
「えーっと、万智はどうだった?どこか遊びにいったりした?」
「う、うん、そんなにはないけど……家族でちょっと旅行に行ったりはしたかなぁ……」
「へぇ~、どこに行ったの?」
ぎこちない会話が当夜と万智の間で流れる。
「関西方面。大阪とか京都とかそのへんかな」
「へ、へぇ~」
当夜は目を回しながら無理やりに相槌を打っている。その様子はいかにもやばい。
「そ、それじゃ今度一緒に行こうよ」
「えっと……えっ!?」
万智は一瞬その言葉を軽く流そうとした後で飛び上がった。驚いた後に黙り込む万智の様子を見て当夜は異変に気がつく。
(あっ、あれ……?これっておかしいよな……)
(……おい待て、これは旅行の話題だぞ、一緒に行こうは大胆すぎるだろ!!しかも僕達はまだ未成年で……いやそういう問題じゃなく!!)
「あっっと、ぼ、僕も行きたくなるくらい素敵な旅行だなぁ……と」
「えっ?あっ、うん……」
……いやおかしい、そもそも素敵だと判断できる要素が「関西旅行」しかない。あまりに苦しい言い訳だった。
実は当夜は前日に、文面で面倒見の良い小町に余計なアドバイスを貰っていたのだった――
「明日のことなんだけどさ」
「万智さんに会った時の会話を考えておきなよ」
「……えっと、突然どうしたの?」
「ほらほら、万智さんとの距離を縮めるんでしょ?」
――その言い方にはやや違和感を感じる。それにしてもそんなことまで小町がする義理はあるのだろうか、と思ってしまう。
「ま、まあ……」
半分無理やりに同意を引き出される。文面上だけのやり取りなのだが、心の揺さぶり方は対面で会っている時とさほど変わらないような気もした。
「ほら、とりあえず夏休み何か会った~?って聞くじゃない?」
「まあ、そういうものか」
「そしたらお相手さんが『どこどこに行った』と答えるわけですよ」
「僕のような人間だったら『どこにも行ってない』っていう回答が返ってきそうだけどな、それ」
「わ、私とのデートを忘れただなんて……ひどい……」
「そんなことは言ってないぞ」
文面上だといつもの迫真の演技を喰らわずに済むからまだ良い。あれが来ると演技と分かっているはずなのに自分の心が動かされたり、ひどいケースでは周りの視線が自分に刺さるように感じられてしまうこともある。流石にオーディエンス……もとい通行人を巻き込むのは反則ではないかといつも思う。
「まあとにかく、『どこどこに行った』っていう返事が来たら、『今度一緒に行こう』って返すのが吉だよ」
「いや待て、それは何か違う」
「どうして?接触回数をさらに増やせるチャンスだと思うけど」
接触回数だなんて……いや、これは一般的な表現だ。何も問題ない。
「でもな、普通一回行った場所にすぐもう一回行こうという気にはならないだろ。飽き的な問題で」
「私はどこに行くかよりも誰と一緒に行くかの方が大切だと思うよ」
……いやに尤もらしい回答が飛んできた。