宴の終わり
……なんていう今までの話はなんだか夢物語のようだ。
どういうことかといえば、夏休みに用事が入るなんてことは、当夜にとってかなりのレアイベントだったということだ。そして、その状況というものは今年の特殊条件下でも大きく変わることはない。
自分が小町とデートするなどという驚くべき行為に踏み入れたのがついぞ二週間前であるとは信じがたい。
――大体夏休みというものはなんだか輝かしい響きを有しているが、別に誰にでも輝かしい日々を送り届けてくれるものではない。実際にはそういう輝かしい日々を掴み取るポテンシャルを有した人間がたまたまこの長い期間にその実力をフルに発揮しているというだけであって、僕のような人間には平凡な日常に授業がないという属性を加えただけのものだ。
第一、ここ最近の気候というもの外出するにはあまりに暑すぎる。家の中に籠もって冷房のある文明を享受することに勝る喜びは、この状況下では存在しえないのである。
あの「デート」とやらの後、なんだか気まずい空気の中で解散した僕と小町だったが、小町は意外とあの後も普通に連絡を取ってくれていた。
本当に僕と万智の微妙な空気が晴れるように願ってくれているのだろう。ただ、その手法はいつもの調子だった。
「今度海行かない?海!!万智さんもワンチャン誘ってみてさ!!」
「……だから、僕は行かないと言ってるじゃないか、海だけは絶対に」
と言いながらも、暑さを言い訳に外出を避けてきた自分の心に響くものを当夜は少しだけ感じていたが、やはり却下。
「第一、突然誘われて万智の方も『行く』とは言いづらいんじゃないか?そんなバイタリティがあるのは小町くらいだぞ」
「どうして?」
「どうしてって……なんだ、色々あるんじゃないか、準備とか?」
「準備って?」
「……僕は知らないぞ……!?」
「またまた~」
……何が「また」なのかは分からない。そもそもこの「またまた」などという言葉は一体何に由来して、どんな意味を持つ言葉なのだろう。まあ少なくとも、からかっていることくらいは分かる。
「そっか……でも本当にいいの?またとないチャンスだよ?ポロリもあるよ?」
「ねぇよ!!あってたまるかよ!!」
「あれ……見たくないんだ?」
「いや見た……くはあるけど行かねぇよ!!」
その後も小町はなんだか含みを持たせながら色々駆け引きをしてきたが、なんとか当夜はそれを乗り切ることに成功した。
だが一つだけ気になる言葉があった。
「うーん、それじゃ当夜と万智さんの二人だけで行けばいいんじゃない?」
「どうしてそうなる!?余計気まずいだろうが!!」
「いや、そう言ったら意地でも行きたくなると思うけどなぁ……万智さんとしては」
当夜は適当にあしらったがその小町の言葉は少しだけ引っかかった。ともあれ当夜はこれでまた平穏を取戻す。……心の奥底では万智との距離を縮めるために何かしなければいけないということは思っているのだけれど、それはそう簡単な一歩ではなかった。
もう少し穏当な誘いを小町がしてくれたこともあった。でも当夜はこれにも応じなかった。もし仮に小町が先に万智のことを誘っておく、みたいなことをしたら退路が断たれる気もしたが、小町は決してそんなことはしなかった。そこに当夜は少しだけ優しさのようなものを感じた。
まあ当夜が断ったのも大抵は尤もといえば尤もだ。本当に外出するには暑すぎる。――それに、あれだ、日焼けとかそういうの気にするだろ、女の子は。
少し言い訳じみている気もした。事実、断っている理由に自分の内心的な問題が一切関係していないといえば嘘になる。
そうこうしている内にもう夏休みは三週間も過ぎていた。始まる前にはとても長く思えた休みも、もう折り返し地点を過ぎているのだと思うとなんだか切ない気もした。
まあ、これはこれでいい。と当夜は思うことにした。確かに、喧騒から離れてゆっくりと日々を過ごせるのは事実だ。課題以外には勉強もあまりする必要がない。……来年の夏はこうはいかないのだろうが。
――いつものように小町や万智に振り回されたりせず、一人ゆっくり過ごすことができる――そこまで考えて当夜は、ふと思考をやめた。
平穏が好ましいものであることは嘘ではなかった。当夜は確かに騒がしい日常よりはるかに平穏を好む人間だ。
でも、そう思う自分に少しだけ疑いを抱いてしまったのも事実だった。自分は、小町に――そして万智に、本当に振り回されたくないのだろうか?そんなことを疑問に思ってしまう。そんな風に疑問を持ってしまって、それを幾度となく忘れようとしてみるのだが、何度でもその疑問は頭に張り付いて離れなかった。
――もしかしたら自分は、あの二人に振り回される日常を恋しく思っているのかもしれない。その思いを、当夜は否定できなかった。それに……小町の方は夏休みが終わればまたいつものように接してくるのかもしれないけど、万智の方はそんなことはない。「向き合うこと」はまだ終わるどころか始まってすらいない。
当夜は少し外出してみることにした。丁度家で読む本が付きていたことを思い出した。幸いにして、今日は比較的涼しい。……涼しいといってもきっちり夏日の定義は満たしているわけだが、人間は気候に順応する生き物だから問題は相対性に涼しいかどうかだ。その観点で見るに、今日は涼しい日である。
自宅からモノレールの駅まで少し歩いて、いつもの学校最寄り駅の隣駅まで行く。丁度三週間前に小町とデート……をした場所だ。
駅へと降り立つ。三週間ぶりのイベントだった。通学途中にいつも寄っていて、なんでもない場所であるはずなのに、小町のことを思い出すと不思議と特別な場所に思えた。
――正直、怖いのだ。「万智と向き合う」なんて偉そうなことを自分が言って、小町にもそれに協力するなんてことを言われておきながら、小町の魅力を意識せざるを得ない自分のことが。多分小町の誘いを断り続けているのも、理由はそこにある。
もし小町の誘いを受けて、例えば万智含めて三人で出かけたりしたら、自分がどうなってしまうか分からない。かといって万智と二人きりで過ごすのはあまりにも気まずい。
……誰かと繋がっていることは大事だ。その繋がりが太ければ太いほど良い、そんな考えも多分間違ってはいない。
でもきっと、それは一線を超えてしまうと、破綻してしまうものなんだ。太いものは、一見して強そうなものだけれど、そんな傍目からは分からないような強大な力に晒されている脆いものであるのだ。
……いつの間にか自分が間抜けに駅の入り口で突っ立っていたことに気付く。入り口は広いから通行人の邪魔だということはないが、いつまでもこうしているのもおかしいので、当夜は目的地に向けて歩き出した。