思い出の奥で
「……別に、大したことじゃない、なにか特別なことがあったわけじゃないんだ」
会話を打ち切ろうと言わんばかりに、吐き捨てるように当夜は言う。
「本当?」
その小町の言葉は、納得した、という口ぶりではない。むしろ当夜には、より深いところを尋問するかのような響きに聞こえた。それでいながらも、小町の眼差しは厳しいものではなく、人を引きつけるような魅力を常に放ち続けている。
「……少し込み入った話になるけど、いいかい?」
「うん」
当夜は、ついにその話の深淵にまで踏み込んだ。
そうしようと決意した所で、当夜は「自分だって小町のことを相当教えてもらった」ということに気が付く。そう思うと、自分だけが自分の身の上話を語らないのは不公平な気がした。それが、全てを話すことの正当化に繋がった。
「僕と万智が元々幼馴染なのは知ってるよね?」
「うん」
「小学校からの仲だったんだけど、卒業と同時に万智は別の県に行くことが決まってたんだ」
「だから、僕達は高校二年生が始まったあの日に、久方ぶりの再会を果たすことになったわけだけど」
当夜は、その後を話の流れのままに語ろうとした。だが言葉に詰まる。その出来事を話すこと自体が、なんだかおこがましいような気もするということもあったし、またそのことを思い出すことが、当夜にとって禁忌のようになっているということもあった。
――だけど、に続いて間延びした空白が続く。夏真っ盛りというのに、不思議と外気は熱くなかった。風がそれなりにあったからだろう。弱い言葉を発したところで、ほんの少しのほのかな風のせいで、それはかき消されてしまうような気が当夜はしていた。
「……万智はその時、僕のことが好きだったんだ」
「……」
小町は表情を動かさずにその言葉を聞く。しかし内心ではとても驚いていて、拍動も飛び上がるようだった。またもやこういう大事なときに、なんでもないように振る舞えてしまう自分が、誇らしいような恐ろしいような気がした。
「どうしてそれが分かったのか、と言われても、正直僕には答えようがない。何か明確な形があったわけでもない。――身近な人間からの恋心に気付くのは、難しいことだと思うかもしれない。でも当時も僕は確信した。それは多分、僕自身がそういう感情の存在を意識し始めた時期とちょうど重なっていたからだと思う」
「だから今、そんなことが起こったとしたら、気付かない可能性の方が高いだろうね、尤も、そんなことはもうないと思うけれど」
「ただその時には、僕は自分と万智との間に別れが来るであろうことを知っていた。タイムリミットまで後数ヶ月というときだったと思う。――本当にはっきりと万智の気持ちを確信したのは」
「隣県というと、そう遠くない場所に感じるかもしれない。でも、当時の僕たちにとってははるかに遠い場所に思えた。多分、列車に乗って行ったとしても二時間と掛からない場所だ。それでも、当時の自分の世界は、今よりずっとずっと狭い範囲の中でだけ閉じていて、遥か異国の地であろうと隣県のある地であろうと、それはほとんど同じことだった」
「そして僕は――万智を大切に思っていた。しかしそれは、かけがえのない友人として、友人の中でも特別な、幼馴染としてだった」
「はっきり言って、今でも当時の自分はあまりに鋭すぎたと思ってる。当時の僕はこう考えた。幼馴染という関係は壊れないが、恋というものは壊れるものなのだと」
「今でも僕はそう思っている。まだ小学生だった自分にそこまで考える力があったことは、今でも驚きだった。でもそれは多分、本当は年齢云々ということは関係のないことなのかもしれない。自分が何をもって何に直面してきたか、そんな問題だったのだと思う」
「僕は万智のことを本当に大切な存在であるとその当時から気付いていた。そこで、万智の気持ちに真摯に向き合ったときに、そういう残酷な結論が自分の中で出てきた」
「もちろん、待っている結末が別離であったことも大きな役割を果たしていると思う。そうでなければ、これからもずっと側にいることが確約されていたならば、僕が抱く恋愛に対するイメージは、友人としての幼馴染でいるということとさほど変わらなかったかもしれない」
「僕が万智の気持ちに気が付いてからは、僕は万智との時間をより大切にするようになった。ただ、僕の行動はそんな純粋な気持ちで発したものばかりではなかった。僕はことさらに別離という事実を万智に仄めかし、『大切な友達』という言葉を万智に何度も言ったと思う。――それ以前の自分の行動には、万智への親しみがありながらも、幼馴染特有の素っ気なさも結構あったから、そんな風に『大切な幼馴染』という関係を強調した僕の態度には、万智も驚いたと思う」
「そしてそれは、同時に万智にショックを与えたのだと思う、多分」
「そして、僕は意図して恋の話を振ったことがあった。あれが一番決定的だと思う。多分『好きな人いるの?』みたいな、そんな他愛もない風体で僕が話を切り出した。だけど、僕のうちには万智と友人のままでいたいという確固たる決意があった。――具体的な会話は忘れてしまったが、その魂胆だけは、今でも鮮明に覚えてる」
「同時にその話をしている間にも、僕は高揚を感じた。今まで結び付けられることのなかった幼馴染と恋愛という文脈が、その会話を持ち出すことによって明確になった。万智はその瞬間には、僕にとって異性という存在になった」
「しかし、その衝動に抗いながら、僕は万智に『友人でいよう』というメッセージを暗に伝えようとしていた。――暗にといっても、それはほとんど明に近い、強い力だったし、間違いなくそのメッセージは万智に伝わった」
「そして万智は耐えかねて、とうとう僕に告白してきた。しかしその告白には、甘酸っぱい感情が内に含まれているとか、そんな感じでは決してなかった。むしろ、それが一蹴されるのを分かった上で、苦しみながらそう言っていたような気さえする」
「それから僕がどう答えたかは覚えていない、でも確かにそれは冷たい返事だったと思う」
「僕は万智と別れる日、涙は流すまいと思っていたけれども、本当は泣きそうなくらい悲しかった。万智の方は本当に泣いてくれていた。――もしかすると、いや多分、その悲しみの色合いは二人の間で少しだけ違っていたのだろう。僕は万智にとって片思いの相手だったのだから」
「新しい住所も万智に教えてもらったと思う、中学に入った頃、僕達は慣れない手紙をお互い送り合っていた。――多分今後の人生で手紙を書くことは、もう二度とないだろうね」
「だけどよくあるように、中学の新しい世界に浸っていくにつれてだんだんと連絡は途絶えがちになってしまった」
「僕は決して万智を蔑ろにしようとしたわけではなかった、その代わりに、僕は心の中で万智との関係を温めた。そう意識した瞬間に、それは現実の交友関係ではなく、『思い出』に変わった。大切なものには間違いなかった。だが、それを繋げていくためにはもう手紙の交換はいらない気がした」
「それで、僕がやろうとしたことは果たされたと僕は思った。恋愛という壊れてしまう関係を、『思い出』という壊れないものに誘導できた。僕はそれで満足だった。そして、僕は自分の目を今自分のいる新しい世界に向けることにした」
「結局の所、僕が昔からやろうとしていることは、壊れそうなものを壊れない方向に修正する、それだけのことだ」