心の真ん中へ
その美しさは、それが現実に近づいたことによって損なわれるということはなかった。むしろ、美だけを見るならば、それが現実にあるように感じられるよりも幻想的な世界で、あたかも概念しかそこには存在しないような形であった方が美しいのかもしれなかった。
しかし、その魅力、もっと言えば、その引力に関して言えば話は違った。それがより現実に近づけば近づくほど、自分の世界を包摂する強大な力を持ち始めるような気がした。
そしてその現象は、ある他の現象と立ち代わりで起こったように思える。万智との現実的な交わりがだんだんと、当夜自身がかつて作り出したいわば虚構のような世界、固定観念に引き込まれていくにしたがって、当夜は目の前に小町が立ち現れたような気がした。
九段下小町、最初は当夜にとってただの名詞としてだけ存在したそれは、次第に当夜の中で大きな地位を占め始める。
その非現実的な美貌を損なうようなおてんばぶりは、始めは彼女の魅力を損なうもののように思えた。だが、今の当夜の認識は違っていた。
むしろその姿は、当夜と小町の貴重な接点であるような気もした。考えてもみれば、小町がそのようなあり方を包み隠さず開示するようになったのも当夜の行動のためであった。それを思い出すと、より一層、今の小町の振る舞いが価値あるものに思えた。
もやもやとした思いが、当夜の心の中で膨らむ。だが今度は、それは万智が原因ではなく、小町に対するものであった。
その思いに、当夜が何か呼称を与えることは憚った。なぜなら、そうしてしまったならそれは本当にそういうものになってしまう気がしたからだ。当夜が浮かべた「そういうもの」は当夜にとって取り返しのつかないくらい重大なことだった。
七月の下旬。もうすっかり真夏の暑さとなってきた所で、ようやく学校は夏休みに入った。
休暇前最後の教室には、どこか楽しい雰囲気とは裏腹に切なげが空気が漂っているように当夜には感じられた。
それはきっと、休暇に入るということが何か別れのような響きを持っていたからなのだろう。
当夜が万智の横顔を盗み見る度に、その思いは強くなった。
この日を境にして、二人の間には一ヶ月の懸隔がもたらされるように当夜は感じた。一度こじれた二人の思いは、その長い期間を経て修復不能になるのではないかという気がした。だが、かといって夏休みに入るというこの時間の区切りは、当夜に新しい行動の勇気を持たせるほどの力を持っているわけではない。
だが、心のどこかで、その危惧自体が消えてしまうのではないかという危惧があった。そんな危惧が続いているうちは、まだなんとかなる気がしていたからである。
当夜は明日に、小町との「デート」なるものを控えている。そのことが、今日という日と明日との間にどれだけのはっきりとした線引をもたらしたことだろう。
当夜は教室の前の方で月見野や和光達と話をしていた。その二人の話す内容は、夏休みへの期待が多少なりとも含まれているものであって、当夜はそれが少し羨ましかった。厳密に言えば、当夜も夏休みに期待は抱いている。しかし、それを期待と認識してしまうのは、なんだか怖かったし、その期待というのは、小町への期待ということの仮借でしかなかった。
ふと当夜は教室の後方、自分の席の辺りを見返ってみる。そこでは小町と万智がなにやら会話を交わしているようだった。……二人はどうやら仲が良い。だが、今の当夜はそのことを素直に受け取ることができなかった。
――
「最近、元気ないね」と言い当てられたとき、私は一瞬ドキリとしたものの、本当の意味でその発言に驚くことは無かった。第一、今まで毎朝のように一緒に当夜を迎えに行っていたことを考えれば、それを突然やめることは何らかの異状を告げるものであると言わざるを得ない。
「そうかな?」
私は探るように小町にそう聞いた。
「うん、そう思う」
「そっか……」
ゼロかイチかの会話をして。
「当夜と何かあったの?」
小町が私に話かけた時点で、そういう類の話が飛んでくることは容易に想像がついた。何もなかったと言えるわけが無かった。
「まあ……そんな所かな……別に大したことじゃないんだけど」
「そっか……」
小町はここで黙り込んだ。
並の会話だったら、ここでその事情を掘り下げるだろう。一見それは不躾な行為のようにも思えるが、当夜というのはある種私と小町の間の共通の話題だったし、それについて聞くことは何も不自然なことではない。
しかし小町は沈黙した。これがどれだけ私の心の傷ませたことだろうか。
何も口にしない小町が、却ってなんだか全てを分かっている人間のように見えて、私は自分の青臭さが際立って見えるような心地がした。
あの時、当夜に突き放すような言葉を放った理由が、単に自分の嫉妬にあることに思いが至る。そういう風に考えれば考えるほど未熟な自分のことが嫌になった。
しかも、これははっきりと言って自分だけの問題でしかなかった。当夜に何ら責任のないことは分かっていた。当夜は――良くも悪くも、その過去を振り切っていて、しかもそれでいて私に気を遣ってくれてもいるということは明白だったから。
「ごめんね、何も知らない私が差し出がましく……」
小町は心底申し訳無さそうに言った。
私にはもう何もかもが分からなくなっていった。
その日、午前で授業が終わって私は一人で帰宅した。
学校から去ってしまうことが、自分と相手との間の一ヶ月、いやそれ以上の隔絶を意味しているような気がした。
……もっと器用に振る舞えるはずだったんだけど……
万智はそう思う。
この学校に来たとき、自分が過去を引きずっているという意識は全く持っていなかった。そして、その平穏はしばらく続いた。
私は当夜と再会できたことを、純粋な気持ちで喜ぶことができたし、そこに一転の曇りもなかったはずだ。
それなのに……
そんな言葉が心の中で浮かんで、万智の足取りはとぼとぼした弱々しいものに変わる。
どこまでも続くように思われる無機質な住宅街が、けだるい夏の日差しを吸い込んでいた。