意外性
当夜は逃げ帰るようにして家までたどり着く。
逃げ帰る場所を求めて、自分の部屋まで来たときに、ようやく全身の力を抜いた。
時々、いや、最近はしばしば――自分がなんて不器用な人間なのだろうと思うことがある。一対一の人間関係くらい、うまくやってやれないのかと自分が情けなく思う。別に言葉が通じないとか感情が共有できないとか、そういう問題があるわけでもないのに。
結局頭で色々と考えているつもりでも、それは結局考えるだけで終わってしまっているのだ。いくら深遠な意図があろうとも、それが伝わらなければ意味がない。
明くる日の朝駅の改札を出ると、そこには小町一人だけの姿があった。
「おはよー、当夜」
「うん、おはよう」
当夜の返事は完全にフラットだった。何か陰鬱な空気を醸し出すものでもないし、特段元気の良いことをアピールするものでもなかった。
「いつも通りに」それが、当夜の出した暫定的な結論だった。なぜなら、それこそが昔当夜が自分の思いをねじまげてでも願ったものだったのだから。
小町は今日万智が不在であることには一言も触れなかった。それは当夜にとってはありがたいことだった。万智の情報をシャットアウトしさえすれば、当夜の心は平穏でいられて、それでいながら万智との関係もだんだんと並のものに戻っていくと当夜は本気で信じていた。
「いよいよ夏休みだね」
「うん」
小町にしてはやや大人しめの会話に、当夜は自然に相槌を打つ。
もう随分と歩き慣れた学園通りは、すっかりと夏の熱気に包まれていた。そして、その空気の変化がだんだんと自分の体に慣らされていくように、当夜は、傍らに小町がいることにだんだんと戸惑いを抱かなくなっていった。
きっとそれは今までと大して変わってはいないはずだろうけど、今の当夜には周りの視線というものはそれほどには気に掛からない。
目の前に小町がいるという事実が、あたかも空想世界で起こっている出来事から現実のものへと移り変わる。
そう意識すると、当夜は自然にこんな言葉を発していた。
「僕は金曜開いてるよ」
笑ってしまうくらい唐突な言葉だが、当夜の中での違和感は無かった。
「へっ?」
何の前触れもなく発された言葉に小町が戸惑う。当夜にとってみれば、いつもは自分をからかっている側の小町が少しでもあたふたする様子を見るのはなんだか楽しい。
「ほら、昨日デートの誘いをしてくれたじゃないか」
「あっ、えっと……う、嬉しい!!当夜が私になびいてくれるなんて!!」
「とって付けたように僕をからかうなって」
当夜は軽く小町の戯れをあしらってみせる。それで少しは自分も成長した気になれた。
「それじゃどこ行く?海?海?海?」
「選択肢が一択だぞ」
小町はいつもの調子を取り戻したようだった。
「第一、いきなり言われても困るだろ、色々と」
「……男の子の日?」
「なぁ、あなたって本当に女性でしたっけ?」
「うん、隠してたのけど実はそうなの」
「知ってるわ!!」
「普通に水着の準備とかあるだろ……」
「ああ、なるほどね」
「それじゃあ、普通にショッピングとかでどう?」
当夜は多少相手の土俵に引き込まれている気もしたが、確かにそのくらいなら妥当だ。第一、当夜の方は……デート、に見合うプランなど浮かびそうもない。
「まあ、それなら……」
「じゃ、決まりだね」
そう言って小町は勢い良く駆け出して、また当夜の方を振り返る。
その見返った様に、当夜は目を奪われていた。
「いやいや、ちょっと待て、突っ込んで欲しかったんだよ僕は!」
またいつものように当夜は教室に入る。もう同伴者がいることにそろそろたじろぎを覚えなくなっているのも事実だ。悲しいかな。
しかし、こんな風に非現実を現実世界に引っ張るような振る舞いを重ねた所で、それは別に現実から逃げられるという帰結に繋がるわけではない。
万智は既にいつもの席、当夜の真後ろの席に座っていた。
当夜の体が少しずつ万智に近づいていく。本当に自分が自分の行き先を自由に決められるのならば、当夜はもしかすると自分の席に向かおうとしなかったかもしれない。だが、実際には自分が自分の席、万智のすぐ目の前に行かなければならないということは運命付けられている。
当夜は万智のごく近くまで来て、喉を震わせようとしたが、自分の中から何ら音が生じないのに気が付く。先程まで平然と小町との話で使っていた声が、いつの間にか枯れ果てていた。その間とはきっと、ごくごく一瞬の出来事だったのだろう。
万智の方も、当夜がすぐ近くまで接近していることは感知しているはずなのに、なんでもないように読書に集中しているふりをしている。何かが起ころうとしている、いや、起きねばならないと分かっていても、それに踏み出せない弱い心の存在を万智も自覚する。
「お、おはよう……」
やっとのことで絞り出した弱々しい声を当夜は万智に向ける。
こうあっては無視を貫くことができない万智は、自ら顔を上げた。
「うん、おはよう」
万智は「なんでもないように」挨拶をする。「なんでもないような」振る舞いは、自分の中ではなんでもないということはなく、また相手の目にはなんでもないように映る、厄介なものだ。
当夜は、そんな「なんでもない」万智の振る舞いに、どこか凍てつくような冷たさを感じる。別に何か棘があるものを投げつけられたわけでもない、だが、どこか痛みを伴うような刺激を、何らの有体物を介さずして、万智が自分にもたらしているような気がした。
問題は認識されなければ、解くことができない。今まさに起こっているのは、それが「認識されない」ということだと当夜は思った。
一方で、引力のようなもので自分を引っ張る、当夜の隣にいる人間に、当夜が抗することができないのもまた事実だった。
小町は、ぎこちない挨拶を交わす二人の様子を見て、二人から見えないように顔を逸らしてから暗い表情を一瞬浮かべた。