波乱
この世界の一部の人間は、まるで自然現象のごとくとんでもない事件を他人に突然突きつけてくることがある。それは意図して行われている場合もあれば、意図せず行われてている場合もあるわけだ。
平穏という言葉。これは非常に美しい。だが当夜も心の中では分かっているのだ。今当夜が置かれている境遇では、その言葉は本当に脆いものであるということが。
そしてそれは突然やってくる。
ある日の昼休みのことである。
「当夜、ちょっとボールペン貸してくれない?」
「ああ、いいよ」
当夜は自分のペンケースをガサゴソとやって目当てのペンを取り出す。
自分が小町と普通に会話をしていることに、当夜は何の違和感も抱かなくなってきていた。小町と真正面から目を合わせようとすれば、それこそ吸い込まれそうになってしまうけれど、そうでさえなければ当夜は何とか普通に振る舞えたし、そのことに何の疑問も抱かなかった。
「当夜、ハサミとかって持ってる?」
「はいよ」
そう。ごく自然に当夜は小型のハサミを取り出し、手渡す。時々こんな風に、「なんで自分は小町相手にこんなに自然に振る舞えているんだろう」と、恐ろしくなるときもある。それが慣れの怖さなのだろう。ともあれ、それは良いことであるはずだ。
「当夜、夏休み初日の金曜日、私とお出かけしない?」
「うん、……ううん?」
「いつも通り、自然にできてる」と確認しながら当夜は一旦頷いてみる。……そんな確認をしている時点で本当の意味で自然というわけではないのかもしれないのだが、それは仕方がない。小町の魅力は殺人級で、並の男ならいとも簡単に目を奪われてしまうほどなのだから。
そして、同意の内容の確認を後回しにする。惰性は思考を省けて楽だし、相手が小町であるという動揺もほとんど完全に消し去ってくれる。「自分も成長したな……」と当夜が感じる瞬間でもあった。今まで小町の顔を見るたびに緊張していた自分が、慣れという道具の力を借りながらも、自然に振る舞えているのだから。
そこで、時間差が生まれたのだった。当夜が首をかしげ始めるまでの時間からさらに三倍くらいが経過した時。ようやく当夜は推奨されるべきリアクションをとった。
突然椅子を引いて、それを後ろの万智の席にぶつけながら叫ぶような声で言う。
「デ、デート!!?」
クラス中が彼の方を振り向いた。ただし、それは大きな当夜の声に驚いただけであって、その発言内容を確認すると「またのろけか……」といって普段の様子に戻っていった。
「ちょっと柊凪くん、イチャイチャするのは良いけど周りに迷惑は掛けないように!!」
すかさず当夜の声を聞きつけた学級委員・成瀬が反応する。
「ご、ごめんなさい……いや、そうじゃなくて、……イチャイチャはしてねぇ!!」
「はいはい」「ごちそうさまでした」という周りの声が当夜の耳に入る。
「別にデートとは言ってないけど……当夜がそのつもりなら、私はいつでも身を捧げる覚悟だよ」
笑えるくらい真剣な顔の小町。当夜もいい加減この顔がフェイクであることは重々承知しているが、周りからはそうは捉えられないであろうことも知っている。
「みっ、みっ、身を捧げる?」
いつの間にか当夜の目の前と言える距離にまで迫っていた成瀬が動揺しながらそう口を挟んだ。
「誤解を招くような表現はやめろ!!というか紛らわしい表現というよりむしろそれはもう嘘だろ!!身を捧げると解釈できるような行為が介在できる余地なんてねぇよ!!」
「あらあら、甲斐性なしか?」
なぜか当夜をあざ笑うかのような表情をして口元に手を当ててみせる。その模範的な顔を見ていると、なんだか女性代表に当夜は冒涜されたような気がしてくる。
「いや、僕は――、……うん、なんでもない」
変に突っ込むと墓穴を掘りそうだったので避ける。ところで成瀬、
「こ、高校生なんだから、もっ、もっと清純なお付き合いをしないと……」
とあたふたしながら目を回している様子。
すると、和光が当夜のもとに寄ってくる。そして当夜の肩を叩く。
「……こいつはどんな気持ちでこんな様子を見ているだろう」と当夜の心の中で緊張やためらいのようなものが張り詰めた。仮にも過去に色々あった相手と、自分の友人とがこんなやりとりをしているのだから……
「卒業、おめでとう」
「何の話だよ!!気を使って損したわ!!」
満面の笑みでそう言ってのける和光に、意表を突かれた当夜は猛烈な抗議を表明する。
すると、当夜は自分の背後からも声を聞いた。
「う、……うん、そういうのはやっぱり、個人の自由だと思うよ、満足のゆく結果になりますように、アーメン」
と声を震わせている万智。
「満足ってなんだよ!満足って!!」
「うん?普通に後悔のないようにってことじゃないの?」
小町が「しめた」という表情ですかさず口を挟む。
「当夜は何を想像したのかな?」
無邪気な疑問を浮かべる子供のような表情で小町は聞く。
「ひょっとして……性的な意味で?」
「うわ、言いやがったよ!!それは言わない約束だろ!!」
そして再び周りがざわつく。「やっぱり……」とでも言いたげだ。
「あっ、図星か~、そっか~」
小町は実に楽しそうだ。
悪魔だ、と当夜は思う。
素直なねぎらいの言葉を後に掛けてくれたのは、彼の大親友月見野だけであった。
「まっ、万智!」
放課後になって、少しの間だけ自分の席に座ったままでいた当夜は、自分の席を立ち上がり帰路に就こうとしていた万智を呼び止めた。
何の気まぐれなのか、小町はもうとっくにどこかに飛び去ってしまっている。
「そっ、その……」
当夜はなんと伝えれば良いか分かりかねる。
「全部誤解だから!!僕はからかわれてるだけで……」
放課後の教室の生気を教室外に吐き出させるかのような空気の中で、その言葉は不思議なくらいに二人がなすごく狭い空間の中で響き渡った。
しばしの間、他の生徒がドタバタと帰宅や部活に向かう準備をする雑音だけがその空間には響き渡る。
万智は少しだけ自分の顔を俯けた後で答えた。
「ううん、大丈夫、本当は分かってるから」
「万智……」
当夜は純粋に救われた子羊のような顔をしている。……小町といるのは嫌なわけじゃない、むしろ嬉しいが、その喜びをはるかに上回るくらいに精神を摩耗させる。だからこそ、理解者の意義は傍から見えるよりもずっとずっと大きかった。困っているのは事実だから。
しかし。
「でも、それを私に言う必要って、あるのかな?」
万智の声は、当夜の心に冷たく響いた。その言葉は何かの核心をついている気がした。だが、当夜は、その瞬間にはそれが何なのか分からなかった。けれども、何か恐ろしいもの、見たくないようなものに自分が触れているような気がした。
「はははは、それもそうか……」
表面でだけ当夜は笑ってみせる。そのまやかしは案外簡単だった。万智の言葉は、今の当夜にとってはまるで現実とは思えなかったからだ。
「ごめん、変なこと言っちゃって、じゃあ、……失礼するね」
こわばった表現で当夜は別れを告げる。
当夜の姿が完全に消えた後で、万智は自分の発した言葉を後悔した。