美悪女攻略講座
鮮やかな学園通り、桜色に包まれるタイルの上を颯爽と駆けていく一人の男子高校生がいた。
「一歩間違えれば遅刻だよ、これは」
当夜は今まで無遅刻無欠席の優等生、しかしながら今日に限っては春眠暁を何とやらで見事に寝坊を決め、学校へ向けて決死のダッシュを決めているのであった。
穏やかな街のイメージと、自分が今やっていることがあまりに釣り合わず、当夜は苦笑する。この時間とあっては、もう学生の人通りはさほど無かった。
「新学期から遅刻も、中々無いってことか」
そんなことを呟きながら、いつもは使わない正門から学校に入る。ギリギリ間に合う……かもしれない。
大急ぎで上靴を履く。下駄箱の前のすのこの音を無駄に響かせて、スピードに任せて教室に向かっていった。
教室に入る直前にチャイムが鳴ったが、扉を開けてみると担任はまだ着ていない。セーフ。
当夜は一番後ろ――もう一つ後ろのある飛び地の席を除いては――の自分の席に着く。
例の飛び地の「まち」は控えめに挨拶をする。
「おはよう、当夜くん」
「ああ、おはよう」
未だに正確な名前を自分は知らないのに、自分だけが名前で呼ばれていることに当夜は違和感を覚えた。
当夜の友人達は珍しい当夜の遅刻を笑っている。
「だから、セーフなんだって、まだヒヤリハットの事例だから」
そんな常習犯のような台詞を口にした当夜に、また友人達は笑いを重ねる。
……ガラガラッ――
そして当夜が入ってきた後ろの扉が大きな音をたてて開いた。後ろから入ってくるということは担任ではない。
当夜は自分の右隣の席を見る。空席だ。確かここは――
そう思って、誰も座っていない隣の席と扉の前に立つ人物を交互に見た。やはり、入ってきたのは小町だった。
時間帯が時間帯なだけに、クラス中の視線が後ろの扉に集まる。さらに、そこに立っている女子が小町であることを知ると、クラスメイトの視線は一層熱くなる。
小町はその視線に動じる様子もなく、鷹揚にすぐ近くの自分の席まで向かう。小町は、朝の光と明確なコントラストを醸し出しているその黒い髪を、今日は結んだ状態で携えて自分の席に手を掛けた。
他の生徒と同じく小町に視線を引きつけられた当夜も、その様子を無遠慮に見ている。しかし小町がそれに反応することはない。ただ超然として、一人自分の席の前に立っている。今にも自分の椅子に座るのだろう。しかし小町が立っている間は、ただでさえ高い背がなおさら長身に見えた。その威容と美に、当夜は打ちひしがれる。
「おはよう、九段下さん」
気がつくと、当夜はごく小さな声でそう口にしていた。
思わず発した台詞だった。いくら近距離でも聞こえないかもと当夜は思った。
「……おはよう、当夜」
小町は席に座りながら呼び捨てで彼の名前を呼んだ。
その予想外の返答に、当夜の胸が鳴った。
クラスメイトの一部が遠巻きにひそひそと話している様子が、当夜には分かる。
自分の荷物に目を向けている小町にはひょっとしたら分からないものなのかもしれない。
当夜はほんの小さな声を聞いた。
「なんであいつがあの小町と会話を……」
小町はそういう風に思われていたのか、という発見と、そういう風に思われるのも当然か、という納得が、同時に当夜を襲った。
当夜の後ろの席に座る「まち」は、とりわけ表情を動かすでもなく、いつも通り落ち着いていた。
担任が教室の前の扉から入ってくると、またいつも通りの日常が外形上は取り戻されたようだった。
「おいおい、勿体ぶらずに教えてくれよ、攻略の秘訣を……」
「なんの話だ」
「とぼけるなって、当夜」
にやにやとしながらいつもの明るい声音で咲哉が言う。
休み時間の当夜の席で、小町が離席しているのを良いことにそんな話が平然と行われていた。
もちろん実際には当夜も何の話を咲哉が持ち出したいのかは分かっている。自分でも小町の反応には驚いたくらいだからだ。そもそも小町のような人間が自分の名前を覚えていたこと自体が驚きなのだから。
後ろでは「まち」も聞いているのだから、そんな話はここではしないでくれ……と内心当夜は思う。話してみると意外とそうでもないのだが、メガネを掛けて読書をしている「まち」は黙っている分には相当地味な女子だから、油断するとこんな話を聞かれても問題ないんじゃないか、という気にはなってしまうが、もちろん気にすべきだろう。
「秘訣なんてない、僕がただ翻弄されているだけだ」
「ほう、翻弄とは具体的に?」
また咲哉は痛い所を突いてくる。危うく昨夜の出来事を口走りそうになる。
「とにかく、攻略も何も僕にはてんで分からないことだからな!僕自身が知りたいくらいだよ」
「そうか、また来るよ」
そんな捨て台詞を残して咲哉は去る。悪い奴ではないのが、こういう所は目ざとい。
「えっと、それで攻略方法だって?」
「う、うわぁ!?」
当夜は跳び上がるように後ろを振り向く。実際に椅子から転げ落ちる寸での所で立て直した。
後ろから発せされた声の主は「まち」だった。
「まあまあ、そんなに焦らずに、小町さんの話でしょ?」
……昨日出会ったばかりなのに、もうそんな話をされるのか。つくづく自分が女子に翻弄されているなと当夜は思う。
違うとは言えず、当夜は控えめに頷いた。メガネの下に柔らかい表情を浮かべている「まち」の考えていることは、中々読めない。
「私も噂しか聞いてないけど、結構特殊な――うーん、なんというか、孤高の女王?みたいな感じの人らしいね」
「孤高の女王」、なかなか面白いネーミングだと当夜は思った。
しかし、当夜の前に立ち現れているその女性は、本当に「孤高の女王」の姿をしているのか?
というか、入学早々そんな噂をかき集めているなんて、「まち」は大人しいなりをしながらも実は結構恐ろしい人物なのではないか?
まあ確かに、あの異様な雰囲気には好奇心が湧くものかもしれないが。
高々挨拶一つで……と思わないでもなかったが、同時に当夜は自分でも小町の行動に驚きを感じていた。
「当夜くん、今日お弁当?」
「いや、学食のつもりだけど」
「じゃあ一緒に食堂まで行かない?」
「まち」は当夜に話しかけた。四時間目の授業が終わって、昼休みになりたての時だった。
当夜は自嘲気味に、「なんて自分はモテているのだろう」と考えた。一年生の頃なんて、女子とただ話すにも事務的な用事プラスアルファ程度の機会しかなかったのに。
しかし、「まち」の魂胆が追及にあることは、なんとなく当夜も察していた。