教室、二人きり、何も起きないはずはなく……
当夜がようやくそのことを無視できるくらいのマインドセットを手に入れたその瞬間だった。教室で万智とばったり会ってしまったのは。
お互いに上げた間抜けな声が、無視できない大きさで頭の中に反響する。その反響は次第に増幅していって、時を焦らせた。
「あっ、あぁ~」
当夜は何かを言いかける。だがつなぐ言葉が見当たらない。先程から「あ」と促音しか発声できていない。
ただ二の矢が継げなかっただけなのに、変に誤魔化したみたいになって、余計気まずいムードになる。
「残ってたんだね……」
言い出しっぺの責任をとって、言葉足らずに当夜が言い掛ける。なんでもないような内容なのに、二人の間に流れる空気のせいでなんだかしみじみした声音になる。
「うん」
「何か用事でもあったの?」
「別に」
聞きたいことと言うべきことを極限まで切り刻んで、ぶつ切りの会話をする。
(なんだか、変にぶっきらぼうな返事になっちゃってるな)
短答式に答える万智も自分の発する言葉の響きを反省してそう思う。今自分が悶々としていることとは何も関係がない、ただの他愛ない会話であるべきはずなのに、相手がそうだというだけで空気は一変してしまう。
「ただ、なんとなく帰る気分になれなくて……」
「そうか……」
ここで当夜は張り詰めた空気の中に初めてシンパシーを見出す。だが、「僕もそう思ってたんだ」というのはちょっと不自然な気がして、口を噤んだ。
「……テストの調子はどうだった?」
当夜は旬の過ぎた話題を出す。
「まあ、普通かな」
「そっか……」
そしてまた言葉に詰まる。そうして沈黙の間に立っているうちに、当夜は自分と万智の間の物理的な距離が存外近いことに気が付いた。一瞬だけ自分の中で拍動が強くなる。けれどもその性質はだんだんと変わって、なんだか焦燥のようになった。
……こんなにも距離の近い存在であるべきだという事実が、当夜の心を熱くした。
心の距離も、こんな風にもう少しだけ近くにできないだろうかと思った。だが、そう思ううちに、それは今の自分達の物理的な距離と同じように、「する」とか「できる」とかそういう性質のものじゃなくて、「勝手にそうなっている」というものであるべき気もしてきた。
「なんか、ごめんな」
「謝られても困るよ」
万智のその返事は予想外に早かった。それは当夜の相手も、元から明らな事実でありながらも、そのことを十分に意識しているということの証左であった。
「はは、そうだよな、ごめん」
「もう、謝られても困る、って言ってるでしょ」
万智は当夜のそのひたむきさ、ともすれば愚かさに少しだけ親近感を含んだ笑みを浮かべた。
「別に、何があったというわけでもないでしょ、本当は」
ほんの少しだけ笑った後で、万智は一転ごく真剣な表情に変わってそう言う。
「ただ……分からなくなっちゃっただけだから」
「……」
当夜はそこで何も言うことはできなかった。中身のない謝罪以上の言葉を発せない自分が情けなかった。
だから、自分にできる最低限のことを必死に検索して、立ち去ろうとする万智にこう声をかけた。
「一緒に帰ろうか」
帰る方面も違うし、どうせ校舎をでたら別れてしまう。――仮に今までだったら万智が当夜の使う駅の方面まで送ってくれたかもしれないが……
それでも、当夜にはこの言葉しか浮かばなかった。
万智は、少し戸惑いながら振り返って、無言で頷く。そして二人は並んだ。
当夜は万智と並んで少し廊下を歩いていると、またもその距離が存外近いことに驚いた。
歩いているうちに、「なんだかバカバカしいことをやってるな」と当夜は思い始めた。別にお互いが気まずさを共有しているのなら、普段通りに振る舞ってみても違和感はないのではないかと勘付いたのだった。
といっても、そんなことが分かっていても一度醸成された空気を覆せないのもまた人間の性。
けれども、当夜は意識するでもなく自分が発した「恋人同士」なんて言葉を思い浮かべてみたり、あるいはそもそも万智とはこういう冗談を言い合える仲であって、それを揺らがすことこそ不自然なんじゃないかということを思い浮かべる。
そう思うと、自分が既に恥をたくさん重ねてきたような気がした。だから却って自暴自棄になれたのかもしれない。
「ねぇ、二人きりの教室ってドキドキするよね」
……思えば、これが最適解であったような気もする。
こう発したのは、なんと当夜の方だった。
「は……?」
万智が無表情のままで立ち止まる。そして唖然とする。
「ほら、普段はクラスメイトの衆目にさらされている場所なのに、放課後になると人が減ってさ、それで教室に行ってみると偶然にもそこには普段何気なく話している相手の姿があるんだ。そうすると、普段は何気なく振る舞えているはずなのに、何か運命の出会い的なものを感じて緊張するしさ」
「それに加えて、今まで大きく感じられた教室の空間が急に二人のために閉じたように感じてさ。……でもそこは完全な密閉空間ではない紛れもない公共空間だから、誰かがここにきたらどうしよう、なんてスリルも感じちゃって、そうすると余計にドキドキしてくると思わない?」
万智は棒立ちでこの当夜の熱弁を聞く。だが、聞いているうちに自分が心の中で良く分からないわだかまりを抱えていたことが急に馬鹿らしくなってきた。
すると、急に、自分の意図しない所から笑みがこぼれてきた。すると、自分が真正面から当夜と顔を合わせていたことをようやく意識して、自分のにやけ顔が恥ずかしくなる。そのにやけ顔を誤魔化すかのように、万智はもっと大げさに笑ってみせた。
当夜は万智が口角を上げているのを見る。やがて万智ははばからずに笑い始め、その後でその笑い方は口元を手で抑えながらこらえるようなものに変わった。それを見ているうちに、当夜もなんだか楽しくなって笑った。
「ちょっと、いきなり笑わせないでよ、でも、もう、無理……、んっ」
万智はそう言いながらまだ笑い続ける。
当夜は万智が笑いをこらえる仕草が、一瞬センシティブに感じられたことを指摘しようと思ったが、流石に恥ずかしすぎてやめた。笑いをとりにいくにも限度がある。――というか、それは単に自分の心が汚れていることの証左でしかない……
「だって、普通こういう状況で、『二人きりの教室ってドキドキするね』なんて話にはならないでしょ」
万智は実に楽しそうにそう言う。まだ思い出し笑いをしているようだ。
……ほんの一瞬だけ、昔の面影が重なったように当夜には見えた。
「なんか、もやもやしてたのがバカバカしくなってきた……ありがと、当夜」
「ああ」
二人は「分かっている」ようにそう口にした。その発言がただの突飛な思い付きではなかったということを、明言しなくとも二人は共有していた。
そういう共有が成立したのを見て、当夜は、「これこそが幼馴染なんじゃないか」という仮説を思い立つ。それが正しいのかどうかは分からないけど、でもそれが一部の要素であるような気がした。