幼馴染
当夜は教室の扉を開ける。思えば最近はずっと、はらはらとした思いでこの扉を開けていた気がする。まずは変なあの人に話しかけられないかとびくびくしながら、それからその変な人達を連れて歩いている時には変な視線を向けられないかドキドキしながら。
でも、今日は極めて平穏に教室の中に入れる。最早自分の変なキャラは定着してしまったのでこんな日常動作一つ一つに注目が集まることもない。ちょっと前までは本当に一挙動一挙動に反応されて非常に困った。
当夜は平穏に自分の席に着く。小町と万智は今の時間は席を外しているようだった。昼休みに出歩く生徒は結構多いので、多分その一角に混ざったのだろう。
なんだか退屈になって、少しだけ遠くにある黒板を眺めてみる。もう既に中身は消されていて、何も書いていない。まっさらという表現がよく似合う。
刺激がない日常というものは、確かにこんな感じだったなあ、と当夜は思い出す。でも改めて思うと、それが恋しいわけでもなく、むしろ何をしていいか分からない戸惑いさえある。
昼休みの教室にいながらにして勉強するという行為に手を染めるほど当夜は真面目でもないし、当夜より先に教室に帰った和光にまた話しかけにいくのもなんだか無粋だ。
退屈に目を閉じてみる。すると、周りの生徒たちの話し声が鮮明に聞こえた。それがだんだんと、遠い世界の出来事のように思えてくる。
その声から逆算して、いくつかの集団にばらけて人が集まっている教室の様子が脳裏に浮かんでくる。そうか、さっきまで自分がいた教室はこんな感じだったな、ということを当夜は思い出す。
そして当夜はだんだんと夢うつつ、という心地になった。
「……なぎくん、柊凪くん、」
「あ、本当に寝てるみたいだしやっぱり起こしちゃ悪いか……」
「はっ!」
当夜が顔を上げると、目の前にはとある女子の顔がすぐ近くにあった。
「っ……!」
その女子は驚いて身を引く。
当夜の視界が視力を取り戻すと、その女子の名前を認識した。ちなみにその視界は自然にゆっくりと元に戻っていったわけではなく、その女子への動揺と驚きによって急激に目覚めさせられた。
その姿は成瀬美岬だった。
「ど、どうしたんだ?」
当夜が目を見開いて言う。
「あ、ええと、起こしちゃったかな?」
「いや、別に問題ないよ、それで、何かあったの?」
「ごめんなさい!!」
成瀬は一歩引いた位置から頭を下げる。
座っていた当夜は居心地の悪さから立ち上がった。
「ちょ、どうしたよ?」
「いままで私はとんでもない誤解をしていて……」
「お、おう!ようやく分かってくれたか……安心し……」
「柊凪くんの本命は小町さんだけなんだよね……ずっと勘違いしちゃっててごめんなさい。一途なのはいいことだと思うわ、でも見せつけるのは控えめにね」
「ごめん、脳の処理が追いつかなかった」
「柊凪くんの本命は小町さんだけなんだよね、ずっと勘違いしててごめんなさい。一途なのはいいことだけどクラスで見せびらかしすぎないようにね」
「誰も繰り返せとは言ってない」
「待て待て待て、どうしてそういう話になるんだよ!?」
当夜は何かをまた話そうとした成瀬を遮って言う。
「だって、私は、柊凪くんと万智さんが幼馴染だったってことすっかり忘れてて、そうだよね、恋人だってからかわれるのって嫌だよね……私分かるから……」
「なあ、頼むから勝手にそうだよねと納得しないでくれるか?こっちは何も同意できないんだ」
「時々は万智さんのこともいたわってあげるんだよ、幼馴染っていうのも大切な関係だから。でもあんまりやりすぎると小町さんが今度は嫉妬しちゃう……」
「なあ、仮に君のアドバイスが正論だったとして、それをどうして公衆の面前で受けなくちゃいけないんだ?」
クラスメイト達はいつも以上に好奇の目を向けて当夜を見ている。ここで言う「いつも」は、いつも当夜が小町や万智に振り回されている時のことだ。それ以上。
「うん、やっぱり私の考えは間違いじゃなかったね」
「都合の良い部分だけを切り取るな、現実を見ろ現実を!」
「ごめんなさい、わざわざこんな時間取らせちゃって、私はこれで失礼するね……」
「いや、ちょっと待ってくれ、まだ誤解が……」
そして成瀬はそのままどこかにいなくなってしまった。
(これはまた、おかしなことになったぞ……)
平穏な昼休みを突然陥れる悲劇だった。
視線が熱い。
なぜ小町の隣の席に座っているというだけ、……いや、もうちょっと色々あるが……とにかくそんな感じの状態でこうもみんなから熱い視線を向けられるのだろう。
これはこれは熱いラブコールをどうも、とでも言ってみたい所だが、現実はどうもそうはいかないようだ。というかそもそも今は授業中、そんな状況に陥るのはどう考えてもおかしい。学生は色恋のゴシップではなく勉学に励むべき時間帯だ。――いや、別に自分が色恋の渦中にいると考えているわけではない。
隣の小町はこの空気の異変に勘付いているのだろうか、と考えて小町の方を少しだけ盗み見てみたりもする。すると小町はすぐ当夜のその動きに勘付いて、すかさず楽しげに手を振ってみせる。
――ダメだこりゃ、と当夜は思う。この空気に気付かず(ともすれば気付いていながら)のほほんとしている小町に、それに少し心が躍ってしまう自分に。
全く集中できないままに昼休み後最初の授業を当夜はやり過ごした。
放課後、校門までは万智と一緒に行くことになった。
珍しく、今回のそれは当夜の発案だった。
小町に「ええーっ、私だけ見殺しにするつもりなの~」などと軽口を叩かれたが、一々そんなことも気にしていられない。
そして当夜は少し廊下を歩き始めた後、万智にこう切り出した。
「ねぇ、僕達って恋人同士に見えないかな?」
「へっ!?」
万智は本気で顔を赤くして、当夜から逸らす。無理もない。これは本気で口説き落としにくる時のセリフに他ならないだろうから……
「今日ずっとそんなことを考えててさ、でも、そう見えてないと断言されちゃったらそれはそれでなんだか寂しいような気がするんだよね」
垢抜けボーイの当夜、ここに現る。
「えっえっと……うん、そういうことは、嬉しくないわけじゃないんだけど……ちょっと考えさせてほしいかな……いや、悪い返事はしない……やっぱりこう言っちゃうとなんか明け透けだなぁ……もっ、もう……私ったら……」
本気で照れながら万智が言う。お互いに超真剣だ。
「そうだよね、突然聞かれて分かるような、簡単な話じゃないか」
(幼馴染だからといって恋人にはならないって成瀬の発想は、正直分からなかったんだよな……でも確かに、聞かれてみると難しいのか)
「う、うん、ごめんね、折角当夜が勇気を出してくれたのに……」
(ま、まさかこんな所でそんな風に告白をされるなんて……)
「……勇気……?まあ、確かに聞きにくい話題ではあるよな、こういうのって」
「??」
万智はその当夜の口ぶりに少し訝しく思った。
「確かに、人にどう見られてるかなんて、改めて意識すると恥ずかしい部分もあるかもな……」
そして万智は、その瞬間に察した。
「あっ、あーね!!」
明らかに不自然に上ずった声で万智は相槌を打つ。
(こ、これ、私完全に誤解してたけど……あ、あれか、クラスメイトから曲解受けてるのかな系の純粋な質問だこれ!!変な風に思われてないかな……)
なんだか変な空気が二人の間に流れた。
もう何度目の空気感だろう。そろそろこの空気感に色を付けてやるとするなら、それは桃色だろうか。
今日は一層色の濃い桃が見える。