ドキドキの勉強会
そして二人は「テスト勉強」なるものを始める。実際にそれができるのかということは置いておくとして。
当夜はどうしても気持ちが落ち着かない。とりあえず教科書を開いて、とりかかるタスクに集中しようとするが、目の前にいる万智のことをどうしても気にかけてしまう。
かといって、いきなり顔を上げて開いて万智の方を見つめるのも不自然だ。そう考えると、なんだか自分が前にいる女子のことを見ることを禁じられているような気がする。そして余計に見たいと思ってしまう。この通り、空気の気まずさはいつの間にか相手を一目みたいという感情にすり替わった。
「な、なんか新鮮だよね、こういう感じで勉強するのって」
あえて顔を上げず、教科書の上で目線を滑らせながら当夜は言う。全く無理をしていないと言えば、それは嘘になるだろう。なんとか緊張を紛らわせようとして発した言葉だった。ーー万智の方はリラックスしているみたいだし、こうすれば少しは気も紛れるーー
「へっ!?」
万智はわざとらしく下げていた頭を上げて素っ頓狂な声を上げる。
「う、うん、そうだよね、異性と二人で一緒に勉強するのってなかなかないもんね」
そしてすぐに目線を自分の教科書に移した。
……明らかな動揺の色が声から万智の声の節々から漏れ出しているのが当夜にももろ分かりだ。
相手は緊張してないだろうと思って何とか自分を達観していたので、相手の方もこの調子では、自分もますます緊張しないではいられない。二人の間ではなんだか変な空気が漂い始める。
当夜はいまだにあえて万智の顔を見ることはしていない。相手がなんらかの動きをしていること、おそらく自分の方に一瞬目線を向けたことは視界の端からどうしても伝わってきてしまったが、万が一それで自分と相手の目線が合ったら……なんだかとんでもない展開になってしまいそうな気がする。
そして、少し時間が経った後から「異性と二人で勉強」という言葉が二人の頭の中で反響する。動揺から漏れ出した余計な言葉が、さらに動揺を加速させていく。
そして当夜は気が付く。今自分が開いている教科書は数学の教科書であって、その字面を追っていったところで何の意味もなさないということを。やけに慌てた仕草で、当夜は自分のかばんから数学の参考書を取り出す。
するとテスト範囲がどこのページまでだったか思い出せない。どこかにメモが合ったはずだが、それを探すよりも……
「「あのっ」」
初対面の人に声をかけるかのような口ぶりの呼びかけが丁度重なる。
数分ぶりに顔を上げた当夜に、少し身を乗り出した万智の姿が映る。上半身だけがハイライトされた姿は、なんだか普段と違う感じがした。そしてその距離は自分の思っていた以上に近く、当夜は胸を高鳴らせる。
「あっ、ごめん、どうぞ」
あくまで平静に、と声の調子を装いながら一方で体の方は不自然なくらいわざとらしく逸らす。それは、気が付くと自分の顔がにやついてしまっていたからだ。
「いや、別に大したことじゃないから、いいよ」
……そう言われると、自分の方も大した用事でないことを意識してしまう。もっと言えば、なんだか自分がそんな大したことがないようなことを口実にして相手に話しかけているような錯覚にさえ襲われてしまう。なぜなら実際に、当夜の口元は不意に綻んでしまっていたから。
「僕も大したことじゃないんだけど、数学の参考書のテスト範囲って分かる?」
「あっ、同じだ!」
万智は明るい声音で、今度はさっきよりももっと身を乗り出してそう言う。
いきなり万智そんな動きをされて、当夜は心を跳ね上げる。
すると万智は急にしおらしくなる。衝動的にやった行為が思いの外大胆な感じになってしまって、照れたのだった。
「い、いやぁ、私も同じこと聞こうと、思ってたんです、はい……」
突然の敬語に、当夜は自分の心の中に芽生えを感じる。言うなれば、これが本当の萌えだろうか。
「あーっ、確か私のかばんの中にメモがあったはずダナー、それを見てみようカナー」
わざとらしいいかにもな語尾を付けて話す万智。当夜にもそのわざとらしさが伝わる。
なんだか相手がうろたえすぎていて、逆に当夜は心に余裕が出てきた。そしてその隙間に、相手をかわいらしいと思う感情が入り込む。
「ソッカー、そういえば私のスマホの中にメモしてたカナー」
「ふふっ」
当夜は思わず笑ってしまった。そしてニヤケ顔を晒すのもみっともなかったので、あえて声を上げることにした。
「あ、あった、七ページから三十一ページまでだって、結構あるね~」
「う、うん、そうだね、ふふっ」
当夜は笑いをこらえながら同調するが、こらえきれていない。
「ねぇ、笑ってる?」
「ごめん、万智の様子があまりにもかわいくて……」
ちょっと戯れに怒った様子を見せようとした万智、ここで撃沈する。
「あっ、えっと、その、うん……」
戸惑っている様子で、しかも本当は照れているのは当夜にも分かった。
そしてその様子を見て、当夜は自分があまり深く考えずにいった言葉の持つ魔力に気が付いた。
そしてまた恥じ入って顔を伏せた。
二人とも黙りこくったままペンを滑らせる音だけが部屋の中に響き渡る。何か喋ったほうが良いのかと思うと、やっぱり勉強中なんだから何も喋らない方が良いんだという結論に達する。一旦そうなると、今度はわざわざ何か喋ろうかと一瞬でも思ってしまった自分が、変に意識をしすぎているように思えて気まずくなる。
無言が何かを突きつけているようだった。どうしようもない緊張感が張り詰める。お互いが黙っていて、静かな環境に置かれていればこそ、感覚は敏感になって余計にすぐ目の前にいる相手のことを意識してしまう。
「あっ……っと……」
万智がごくごく小さく声を発する。当夜の方からしてみれば、それが独り言なのか自分への呼びかけだったのかは分からない。分からないのだが、その答えはいつまで立っても示されることがない。
万智の方からしてみれば、自分が言葉を発しようとしたにも関わらず途中で詰まってしまったのが、中途半端な言い掛けになって、二の矢を継がなければならないというプレッシャーに駆られる。だが、ほんの小さな失敗であってもそれをしてしまった後は余計に大きなプレッシャーになる。
「そ、その、……私、飲み物とってくるから」
そして万智は立ち上がる。空気の流れが変わって、思わず当夜は参考書に空滑りさせていた目を万智の方にむけた。
白いワンピースの下から脛が覗く。透き通った色合いでありながら、どことなく生々しさを感じる。気恥ずかしさど、盗み見をしているような罪悪感から当夜は大げさに万智から目を逸らし、万智は逃げるように隣の部屋に逃げ込む。
コップに何かを注いでいる音を聞きながら、当夜はまた参考書に目線を落とす。勉強会、のようなことをしているにも関わらず、実際には全然進んでいなかった。――きっと小町の方は、ちゃんと進められているんだろうな……、と見当外れの推測をして、女の子の家で二人きり、というシチュエーションに一人どきまぎしている自分に勝手に恥じ入る。
「お待たせ、麦茶で良かった?」
「ああ、ありがとう」
万智は中腰から屈んで当夜の方にコップを置いてみせる。当夜は思わず気にしてしまった。
万智の後ろの窓から心地の良い風が吹いた。万智の着ている白いワンピースがカーテンのように優雅にはためく。思わず当夜はその姿を見上げる。
そして万智は柔らかな仕草でカーペットに座る。
何かこの世のものとは思えないものを見たような気が、当夜はした。