夜闇に覗く
そんなこんなでガイダンスの授業も終わり、いつもなら昼休み前に当たる時間帯には始業式もあった。大して代わり映えのしない式典である。
午前授業だったので、昼休みの前に生徒達は解散。そうなると、当夜も「まち」と話す機会を持つことなど到底無かった。(尤も話す用事もこれと言ってないが)
そして、小町との接触を持つことも当然無かった。小町はこの日終始静かだった。
「午後どこ行く?」
新年度から活発なことだ。おそらくは前の学年からの知り合いなのだろう。
当夜も友達と遊ぶことは決して嫌いではないが、それほど好むわけでもないので、今日は一直線に帰ることにした。
帰りは行きほどには混雑していないだろうから、正門から出ることにする。
正門方面はかなり小奇麗な作りになっていて、正門前には噴水もあるちょっとした広場まである。
噴水の周辺にはレンガのタイルが円形に敷き詰められていて、さらにその外周には桜でチカチカした目を癒やすような優しい緑が広がる。
もちろん、正門と昇降口の間にあるものだから大した広さがあるわけでもないのだが、余計なものがないこの空間は変にこせこせしていなくて、広々と感じられるのだ。
折角時間もあるから、と当夜は噴水の縁に座ってみた。
今日は晴れやかな一日で、四月にしては強い日差しが地面に降り注いで、広い範囲に幾何学的な模様を地面に描いていたが、遠慮なく流れる噴水のざあざあという音はとても涼しげだった。夏の時期ほど気温が高いわけではないにせよ、冬服のブレザーでは少々暑く感じるのだ。
一年前にこの風景を見た時の気持ちが思い出される。あの頃は不安と期待が入り交じる複雑な感情を抱えながらここを歩いていた。朝の時間帯でやたら混雑するにも関わらず、別の門の存在を知らなかったので、大勢の生徒達の群れに混じって歩いていた。それはそれで、自分がこの学校の一員であることが強く感じられるようで楽しかったものだ。
今は落ち着いた気持ちで周りの光景を眺めることができる。落ち着いた雰囲気の場所に、午前授業でテンションの上がった生徒たちが喧騒を持ち運んでくる。けれども晴れやかな日差しも助けとなって、それは決して耳障りなものにはならなかった。
自分は落ち着いている。そんなメタ言語を当夜は頭の中に思い浮かべる。
だが、それをしているうちに本当に自分は落ち着いているのであろうか、という懐疑が当夜の中に湧き起こっていた。
そんな疑念を払拭するように当夜は立ち上がる。
「何もないはずだろう、問題なんて」
心なしか当夜の足音はスタスタといつもより早かった。
ネオンの明かりに灯された夜の街並みを、ペデストリアンデッキの上から眺めていた。
この一帯の街を南北に貫くモノレールが、帰宅ラッシュの人々を交通の要衝たる中心部へと連れる。
ビルの間から流れ出し、再びビルの狭間へと消えていく。
歩く人々の足並みは朝よりも幾分か落ち着いている。中には新社会人と見られる、少し慣れていなさそうな足取りのスーツもいた。
人の流れは絶えることがない。こうしてデッキから身を乗り出している間でも、後ろでは人々が歩みを続けている。勿論デッキの下の道路でも。
人の考えていることを推し測るなどおこがましいことだが、この人々がどんな気持ちを抱いているのか、ふと気になってしまう。
それは新生活へと希望なのか、あるいはまた繰り返される愚かな営みへの嫌悪なのか。
(そんなことを考えても、何になるわけでもないか)
そう言って歩き出す。振り向きざまに髪が揺れる。夜のビル風に抗って、光の方へと向かっていくのだ。
向かった先はビルだった。
「あっ……」
本当に一瞬の出来事だった。先に口を開いたのは当夜の方だった。
九段下小町も、最初は無視しようかと考えた。けれども間はそれを許さなかった。沈黙は無視するにはあまりに長い水準にまで達していた。
「えっと、小町さん……だよね」
……逃げ帰るべきなのかもしれない。なのに、今朝の出会いはその発言を許した。
小町は夜に一層映えている。とりわけ小町の漆黒の黒髪は、闇夜を照らす人工の灯りによく似合っている。
少し取っ付きづらいような、噂に聞くような雰囲気は夜の空気で一層洗練されている。それでも、美しさを決して欠くことはない。その美しさを見逃すには、都会の灯りはあまりにも明るすぎる。
「……ああ」
「柊凪当夜……だったか」
見た目に似合わない低い声で小町が呟く。伏し目がちな目は、夜の雰囲気に非常に釣り合っているように当夜には見えた。
当夜は跳び上がった。
「えっと、僕の名前をどこで知って……!?」
驚き、嬉しさ、恐れのサラダボウルだった。
そう言われた小町がしばし沈黙する。
「……興味があってな……」
「きょ、興味と言いますと……?」
当夜はそう言った後で、自分が墓穴を掘っていると気がつく。
「い、いや、他意は無いぞ、決して」
かろうじて小町は冷静な風体を保っていたが、言葉の節々から動揺が漏れ出ていた。当夜もそれを感じて、なんだか目の前にいる人物の印象が自分の中で変わっていくのを感じる。
「そ、そうですよね、そうですよね……」
機転良く続ける言葉が思い浮かばない当夜は、無意味な言葉の繰り返しを無意識にする。
人の流れからほんの少しだけ外れて向き合っている二人には、まさしく「対峙」という言葉が良く似合う。
お互いを探るように距離を置いた二人は、着々と進む街の時間に逆行するがごとく、その場で立ちつくしている。
「……君は何を?」
しばらく沈黙に沈んだ後、小町が初めて口を開く。
「ちょっと書店に用があって……」
「それにしては少し時間が遅くないか?今日は午前授業だったわけだし」
「夜が好きなんですよ」
「そうか」
「対峙」の距離感と会話が馴染んでいない気がして、小町は「歩くか」と短く提案する。それに同調する返事は、声ではなく当夜の足の動きでなされた。
二人はデッキの上に並んで歩く。その雰囲気はおよそ高校生の男女とは異なる、異様なものだった。
「……夜が好きだと言ったな」
「うん」
当夜は簡潔に答える。小町と街で居合わせるという謎の状況に、ほんの少しだけ順応したようだった。
「……私もだ」
小町がそう言った瞬間、当夜はほんの少しだけ心のラインが繋がったように感じた。
かと思うと、小町は今まで歩いてきた方向とは全く違う方向へと歩き始める。当夜は焦って付いて行った。
デッキを降りた二人は、大きな交差点にある巨大な信号の前に立つ。歩行者信号の赤色の前を、無数の車が遮っていく。四角形の形をした横断歩道の囲む面積は非常に大きい。二人の前にも、多くの信号待ちをしている歩行者がいる。
「……一緒に来るつもりか?」
信号の待ち時間を示すバーが半分まで降りてきた辺りで、小町はようやく口を開いた。当夜は一瞬その言葉の意味が分からなかった。
「私の家はこの道路を右に曲がった所だから」
それはつまり交差点を渡る必要はない、ということを意味していた。
畢竟、一瞬ではあるが小町は当夜のために余計に待っていた。
「い、いえ、そんなつもりは、行ってもらって構わないですから……!」
大げさに上半身を動かして当夜は言う。「一緒に家に来るつもりか?」だなんてそんな。
小町は少しだけ目を伏せながら、体を当夜の方へ向ける。
「それじゃあ」
そして左手だけを当夜の側に向けながら、体を右側に向けた。
当夜は少しだけ寂しい気がした。それは夜だからなのかもしれない。
「それじゃあ、また明日」
「また明日」
当夜がそう返すと小町はごくわずかに当夜の方向に振り向いた。
髪をなびかせてちらりと覗く横顔は、現実のもののようには到底思えないくらい美しい。
横顔しか見えなかったのでその表情ははっきりとは分からない。けれども当夜には、その顔は少しだけ笑っているように見えた。
信号機の誘導音が響き始めると、当夜もまた歩きだした。
(そういえば、僕は駅の方に行くべきなのにな)
当夜が歩き出した方角は、二人がもと歩いてきたデッキの方面だった。
ほんの少し、デッキから交差点まで余計に歩いた時間は、当夜には単なる無駄には思えなかった。