君のために、僕のために
「……!」
いきなり自分の方に振り向いてきた当夜に、小町は心臓が飛び上がるかのような心地を覚える。
「僕は、もう、見ていられないんだ、小町があんな風に言われ続ける姿を!」
いつもより当夜の声は大きく、吠えるように力強かった。
当夜は小町の手を握る。
最大限の勇気を最小限の動きに込めて、この思いが伝われと念ずる。
「教えてほしい、何が小町の前に立ちはだかっている?敵は何なんだ?どうして小町は、その本当の姿を隠して、こんな目に遭わなくちゃいけないんだ!?」
「小町は一度言ったね、もうおてんば娘も、僕の前でぶつけるつもりはないって」
「そんなの僕は認めない、どうしてそうやって一度叩いた扉を自分の足で蹴り飛ばすような真似をするんだよ?」
「……なあ、本当の君は、一体何なんだ?僕はそれを見ていたい」
見つめる。今までその眼差しを恐れたり、動揺してきたり、憎らしく思ったりしてきた。今だっていまだかつてないドキドキが、当夜に襲いかかっている。
でもそれは、自分のたかが一感情は、当夜にとっては些細なことだった。
「……どうして……?」
小町は弱々しい力でその力を握り返す。
そしてそれは、次第に強くなっていく。
「どうして私にそんなことをわざわざ言うの!?」
「あなたには、私の何が分かるっていうの!?」
そして、小町は急にしおらしくなる。握った手は自然とほどけて離れた。
「……あなたには、関係のないことじゃない……」
「……確かに僕は、小町さんの肝心なことは何も知らない。少しばかり事実を知っても、その心まで読めるわけじゃない」
「でも」
「僕は決めたんだ、何が正しいとか、何が無難だとか、そういうのはまず抜きにして、人目がどうとか、誰かがこう思っているとか、そんなのは抜きにして、せめて自分の思うことくらいには正直になろうって」
息を飲む時間が一拍分流れる。
「僕は見たいんだ、小町さんの笑顔を」
「あんなにも上手に笑えるじゃないか、あんなにもかわいらしく笑えるじゃないか、あんな表情、誰にでもできるものじゃないよ、それを失ってほしくないよ」
「あんなにも素敵なものを、邪魔者だなんて切り捨てないでくれよ!!」
それは当夜だけが見ることを許された世界だった。それはいつしか危機に瀕していることが分かった。そうなってから始めて、当夜は大切な何かを失ってしまったような気がした。
でもその片鱗は、まだ完全には消えていなかった。当夜が学級委員になって、それから、まだ数日だけだけれど、二人で話していたときにも小町は素敵な笑い方を見せていた。
捨てきれないのだろうか、もしかすると、隠しきれないのかもしれない。けれど、それが本当に素敵なものであるということに間違いは無かった。
場が静まる。辺りには川の流れる音だけが響いた。夕日に照らされだした川辺は、弱々しく終わりを迎えようとする光を静寂の方角へと誘う。
「……ありがとう」
小町は思いを絞るかのように、引き出すような小さな声でそう口にする。
「ありがとう」
そしてもう一度。今度はしっかりと当夜の姿を視界に捉えて。
「私、多分、最初からずっと、そう言ってほしかったんだ」
「おてんば娘はもういないって吐き捨てたときから、もしかしたら、君に最初に出会ったあの時から」
当夜の脳裏に少し前の情景が浮かぶ。校地から飛び出してきた小町にぶつかって、怯えながら手を差し出したあの時。……いや、もしかしたら手は差し出さなかったかもしれない。人間の記憶というものは、随分と都合が良い。
「なんかさ、あの時の当夜の様子見てたら、私もツンツンしてるのがバカバカしくなってさ」
「……あの時の僕の様子?」
「いやぁ、子犬のように怯えちゃってさ、正直かわいい、って思ったの」
その台詞を聴いて、それまで真面目な顔つきをしていた当夜が突然沈む。
腰から上をぐったりと垂れて意気消沈。夕日が作った木陰よりはるかに暗い。
「あれ、別に落ち込むことはないのに……」
はてな、という表情で口に手を当て、小町は首を傾げる。
「これで喜ぶのは無理があるって」
「褒め言葉だったんだけどなあ……」
「……屈辱的です、男として」
大げさなくらいに当夜が落ち込んでいるのは、折角自分の出した勇気が空回りしたような気がしたからだった。もちろん、それが無駄ではなかったことは本人もよく分かっているのだが。
「それじゃあ、褒めてあげる、お、と、こ、として」
「なんかわざわざそう言われるのも恥ずかしいですから黙って褒めてくださいよ……やるんだったら……」
当夜は不満そうな表情を浮かべる。しかしその表情の奥で、満足もしていた。小町の本当の小町らしさは、消えたりなんてしていない。
「まあまあ、でも、本当にさっきはかっこ良かったよ……」
「本当ですか!?」
無駄な敬語まで使って、当夜は嬉しそうにそう答える。それこそ子犬のようだし、格好がつかない気もするが……
そして小町は突然当夜と目を合わせて当夜の手を握った。
不意打ちを受けて、当夜は爆発してしまいそうになる。
「僕はもう……我慢できそうにない……」
今度この台詞を口にしたのは小町だった。
真に迫った小町の表情、その密着具合。それに加えてなんだか良い匂いまで感じる。
これは――当夜はもう全てを委ねてしまいそうになる。
「僕は、君の笑顔を一生見ていたいんだ」
当夜はハッと目を見開く、そんな言葉を掛けられたら、もうそれこそ相手に身を任せるしかないだろう。……
「ちょ、ちょっと近いって!小町さん!!」
「あらあら、さっきの当夜だってこんな感じだったのに」
小町はとても嬉しそうにそう言う。
「一瞬でも真に受けてしまった自分が恥ずかしい……」
「あれ、それじゃあ当夜は今の台詞を演技ではなく本音だと思ったわけだ……?」
「読心術か!?」
「もろ声が漏れてましたよ~」
小町が呆れ顔を作ってみせる。
「あと、僕は一生とか別に言ってないからね!?誇張するのはよしてよ!!」
冷や汗をかきながらそう叫ぶ当夜を見て、小町は口に手を当てて言う。
「あれっ~せっかく私と一生涯を誓ってくれると思ったのにー」
「い、いっしょうがいをちかう!?ああ、なんばしよっとか~」
当夜はほとんど気絶して意識を飛ばす。
「あらら、ちょっとからかいすぎたか~」
そうして小町は一人、河川敷を眺めながら含み笑いをした。